前田さん伝説

「人間は皆、一人残らず変態である」というのが私の持論である。もし、「いや!俺は(私は)変態じゃない!」と言う人がいたら、それはそれでそういう形態の変態であると思って間違いない。

例えば、世の中には、歯医者が好きだという人が少なからずいるらしく、現に私も、今まで何度かそういう人種に出会ったことがあるが、あれは間違いなく変態だ。歯医者が好き…私にしてみれば、「関節が好き」と同じくらいわけのわからない言葉だ。歯医者ではなく病院へ行け。
しかしながら、上には上がいるものである。これは私が大阪の工場で働いている時に知り合った「前田さん」という男の人の話なのだが、前田さんは重度の競馬狂で、競馬に持ち金の全てを投入したいが為に国民健康保険に加入していなかった。でも、もし虫歯になって歯が痛くなったらどうするのか。疑問に思い尋ねると、前田さんはただ「気合い」と答えた。昔、激烈に歯が痛くなったことがあって、それはそれは床を転げ回るほどの激痛であったが、気合いで治したと胸を張って言い張るのである。しかしながら、気合いで虫歯が治るくらいなら歯医者はいらない。病院もいらない。宗教家や格闘家に歯科医や医師の代わりが務まるとは思えない。なので、私は更に問い詰めた。「気合い…は確かに大事かもしれませんけど、気合いだけでは無理でしょ?」前田さんは少し考えて「気合いと…」と呟いた。気合いと…何なのか。私が固唾を飲んで顔を覗き込んでいると、前田さんは俯いていた顔を急に上げ、眼前に流れる神崎川の煌めきを眩しそうに見つめてこう言った。

「ヤスリ」

それ以上は訊かなかった。


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