終り沿いを行く

目を覚ました時は晴天だった。「お、今日はカラっと揚がってるじゃねえか!」と思ったのも束の間、一時間もせぬうちにどんより曇ってきて、空が真っ白になってしまった。
雨は降っていない。でも暗い。寒い。気が滅入る。

ロンドンは、ほぼ一年中、こんな空模様だと聞く。にも関わらず、ロンドンから出てくるバンドの音は、昔から決して暗いものではない。どちらかというと、カラフルで明るい印象を受ける。がしかし、アメリカのバンドのように突き抜けた明るさ、カラッとした、頭の悪さの伺える明るさではなく、音の底のところに、なにやらどんよりと、暗く重いものが沈殿してうねっている。実はネクラな奴が、無理に明るく振る舞っているかのような一種の哀しさがあって、これが私には品として、知性として響いて、だから私は、アメリカのバンドなんかよりもずっとずっとイギリスのバンドの方が好きなんだろうと思う。

今日はスタジオの日だ。週に一度、私が私の好きな私になる日―蝶の日だ。今日もまたいつものように、いつにも増して、心を込めて叫び倒してやろうと思っている。

生きていると、腑に落ちないことが山ほどある。吐いて捨てるほどある。なかなかスムーズにいかない。気付けば、上手く手放せたはずの怒りと煩悶が胸中に蘇っていて、町田康の言葉を借りれば「心がぬらぬら」していることに気が付く。

私は、このぬらぬらを払拭すべく、吐き捨てるべく歌う。結局は払拭することも、吐き捨てることもできないことを重々承知の上で歌う。「重々承知の上で歌う」ことの虚しさみたいなものを噛み締めながら、それを跳ね返そうとする意志を、人に届けることができたら、その時、ロックンロールシンガーとして花丸を戴けるんだろうと思っている。

結論、私はロックンロールシンガーに向いていると思う。つまり、ステージに上がる資格があるんだな。ステージに上がる資格はある。ステージに上がる資格だけはございます。ただ、他のことについては一切資格がない。他のことについては、全て、忍耐でしかない。

ステージ上というのは、ある種の梁山泊なんじゃないか?と思う時がある。選ばれた人間が上がる場所。「選ばれた」と言っても、もちろん崇高な意味合いではない。むしろ、「自分で自分を選んだ」と言った方が正しいのかもしれない。いずれにせよ、選ばれなかった人間が上がると一瞬で潰される。
あそこでは「社会性がある」ということが、必ずしもプラスに働くとは限らない。社会性に乏しくて、その事に笑えない危機感を抱いている人間であればあるほどに輝ける場所。

あそこで勝てなかったらどこで勝つんだ?という人間だけが有する資格を、私は持っている。

あそこで負けたら、終りだ。


1件のコメント

  1. ステージで輝けるのは、経験や努力も関係するのかも。
    私は、一生懸命に楽しんでいる姿は素敵に映ります。
    誰でも、一生懸命な姿は応援し評価はそれぞれだが、羨ましく輝いて映ります。オリンピックでは選手を応援したように、夢中になり観覧するのと同じに、規模の差はあるだろが、素敵に映ると思います。それはステージだけではなく、輝きは仕事場でも、見える姿だからね。そこで輝けないと終わりなんて、考えは違うし夢中になれるのがあれば、その人は素敵に輝けると思います。実際探すのは大変だし、自分が見えていると羨ましいよ。

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