流れたい

自分の思考―計算や計画といったものが、いかに的外れで、いかにアテにならないものなのかということに気付けただけでも、34年間生きてきた甲斐はあったなと思う。

人間は、自分の労力に対してどうしても対価を求めてしまう。だから人間の、自分の、「思考」の持つ力を必要以上に信じて疑わない人は、「俺はこんなに考えたんだから!」などと言って、自分の出した答えを他人にごり押しするようになってしまう。でも、それはめちゃくちゃ勝手な話で、そもそも誰が頼んだわけでもないのに勝手に考え込んで、勝手に労力を消費してその対価を要求して、果てはその場の空気を乱しているんだから、このような人間が幅を利かせているような場所に「流れ」の発生する余地などあるはずがないと思う。

ところで、伊丹に帰ってきてからの私が、日々、切実に考えたことは、いかにして我が人生から「窮屈」を排除するかということであった。窮屈ということに対して、猛烈な嫌悪感があった。それはほとんど「憎悪」と呼んでも良いくらいの嫌悪感だった。

で、私は考えに考えた。考えに考えて完全に迷宮入りしてしまい、往生していたら、どこからともなくフッと風が吹いてきて、「あ、考えなきゃいいんだ…」という結論が閃いた。

「曲は作るものじゃない。いつもアンテナを立てられているかどうかが問題なんだ」とキース・リチャーズ。
「曲は作るものじゃない。向こうからやってくるのを虎視眈々と待つんだ。で、やって来たら、間髪入れずに掴み取るんだよ」とクリスピアン・ミルズ。
この二つの言葉は、そっくりそのまま人生訓だと思う。

考えることが大切なのはよくわかっている。考えに考え抜いた末にシンプルな答えが生まれることが多々あるということも知っている。でも、だからといって、むやみやたらに思考を重視するというのは、せっかくの流れを見逃したり断ち切ったりしてしまうことになりかねないと思う。

焦りは禁物だ。思考が暴走しているからだ。
怠惰も禁物だ。思考が停止しているからだ。

流れたい。


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