亮の残像

何故、ヨダレをたらしながら「楽しいィィィ!」と叫ぶことが怠惰なのか。

そこへ自力で辿り着けなかったり、辿り着いていることに気付けなかったり、辿り着けたことへの喜びを持続できないことの方がずっと努力不足で怠惰なことではないのか?

人は適切に「満足」を知るべきだ。
手元にあるものを愛でる意識がないと駄目だ。
満足感を維持することも、手元にあるものを愛でることもしなかった場合に、人はどうなるのか

壊すしかなくなるんですよ。自分の持ち物を。

「破壊」にしか興味がなくなって、その破壊の方向は自分に対するもので、自滅していくんです。

カッコ良いか?自滅って。

で、でねっ、後に残るのは、一銭にもならないプライドと愚痴のみなんですよ。


花はいつも片隅に咲いていた2

男ばかりの職場の男の上司は駄目だった。上にいけばいくほど駄目だった。
女ばかりの職場の女の上司は立派だった。誰かをハミゴにすることも、誰かをハミゴにしている派閥に加わることもなく、みんな平等に接して、時にはハミゴにされている人をそっと応援していることさえあった。

「あの人(ハミゴにされていた人)には、あの人にしかない味があって、あの人にしかできない介護がある。うちの立派な戦力です」私にそっと囁いた女性の上司がいた。


花はいつも片隅に咲いていた

レンズ工場は、男ばかりの職場だった。
介護施設は、女ばかりの職場だった。

男ばかりの職場で嫌われる男というのは、嫌われても仕方のないような奴だった。でも、そんな奴でも、みんな、決してハミゴにはしなかった。
女ばかりの職場で嫌われる女の人というのは、嫌われても仕方のないような人ではなく、ちょっとクセがあるというだけの話だった。でも、そのちょっとしたクセのために、あからさまにハミゴにされていた。

介護施設で働いた一年半の中で、私は二人の女の人に「友達になってください」と告白染みたことを言った。そして、快く友達になってくれた。いずれも、施設においてはハミゴのような扱いを受けている人だったのだが、私の目には、彼女らの方が、彼女らをハミゴ扱いしている女どもの何倍も、何十倍も魅力的に見えた。そして実際、魅力的だった。


イ・ライラの塔

愛読者の皆さんは、ひょっとしたら薄々感付いておられるのかも知れないが、最近私は、自分の感情をコントロールできなくて四苦八苦、キリキリ舞いしている。

去年までの33年間は、逆に感情をコントロールし過ぎているところがあって、感情がちっとも表に出せなくて、それはそれで結構辛かったのだが、今はその逆で、イライラし出したら頭痛や胃痛が伴うくらいイライラするし、へこんだらへこんだでむやみに暗い気持ちになって、またまた頭痛がしてきて、動くに動けなくなってしまうのである。

最近、ほぼ毎日、イライラしている。見えてきて、聞こえてきて、イライラする。そしてこれがじゃんじゃんじゃんじゃん募っていって、自分の中にイライラの塔みたいなのができ上がっちゃって、この塔がまた貧弱な塔で、ちょっとへこむようなことがあると、この「へこむようなこと」が風と化して塔を撫でて、撫でられただけなのに大袈裟にぶっ倒れやがって、ぶっ倒れた拍子に地面に穴が空いちゃって、この穴が、そう、見ての通りへこみで…。精神的知覚過敏みたいなことになってしまっているのである。

今もじんじん頭痛。これは新しい自分が生まれる前触れか?陣痛なのか?吉兆なのか?寝るに寝れんではないか。っていうか、私は寝たいのだろうか。寝たらあっという間に明日が来てしまうではないか。

できることなら、明日をグッと遠ざけたいものだ。


コメントへの返信〜KNIGHT様宛

Jr.さんのコメントには、いつも本当に多くのことを学ばせていただいています。ありがとうございます。

僕は、『道一本』にも少し書いたように、一度は音楽を諦めた人間です。でも本当は音楽がやりたくて、音楽をやってる時の自分に戻りたくて、悔しくて、気が気じゃなかったんですね。そして、そんな状況から、色々と紆余曲折を経て、また音楽をやれるようになって…。
ここに至るまでの過程が過程だっただけに、また音楽をやれてることの嬉しさが半端ないんです。「音楽ってやっぱり最高だ。楽しい!」っていう気持ちが半端ないんです。で、ある日ふと気付いたんです。「あ、この気持ちが何より大事なんだな」と。色々あったけど、そのおかげで原点に立ち返ることができた。だから今は、音楽をやることについて、余計なことを考えて、難しく考えて、楽しめなくなってしまうことに対する恐怖心も半端ないんです。今まで何度も何度も陥ってきた魔のゾーンですから。

音楽を楽しむ、楽しみ続けるっていうのは想像以上に難しいことだと思っています。ただでさえ難しいのに、バンドはチームプレーから成る表現なので、全体が一丸とならねばならず、ここに更なる難しさがあると思っています。

ところで、Jr.さんから頂いたコメントを拝見して、Jr.さんが僕なんかよりも数段上の次元に立たれていることを思い知りました。というのも、僕の文章『戻ればいい』には、自分がいかに「楽しむ」か、ということしか書かれていませんが、Jr.さんの文章には「楽しませる」「楽しんでもらう」という意味の言葉がふんだんに使われていたからです。僕はまだ自分のことで精一杯で、外に対して意識が向いていないんですね。まだまだだと思いました。本当に勉強になりました。

兄貴って呼ばせてください(笑)


コメントへの返信〜モノノケ様宛

自分の中に軸をしっかり持っていないと、上に下に右に左に、すぐにブレてしまう。私は、本当に臆病な人間なので、ちょっとしたことでいともたやすく動揺してしまいます。

「単純でわかりやすく、ちょっとやそっとでは折れない軸」というものを考えていました。浮かんだ言葉が「信じる」ということでした。

「信念」でも「信仰」でも、この際呼び方なんて何でもいいから、何かを強烈に信じることができたらなと思っています。もっと正確に言えば、「強烈に信じる」ということの裏側にある「絶対に疑わない」姿勢を、軸として、身に付けたいなと思っています。

軸が弱いとブレます。ブレると無駄に疲れます。結構な疲労感です。


読者数報告書

昨日、当ブログの管理人が、当ブログの読者数を調べて、それをコピーしたものを私にくれたのであるが、驚いた。

大阪で『イッケイノウタ』を書いていた時の、あるひと月の読者数が確か44人とかそんなんだったと記憶しているのだが、これが去年2010年の9月になると52人に増えており、それから約一年後の今月ともなると、なんと去年の倍、102人にまで増えていたのである。

102人の中に、私と直接面識のない方が含まれているのは間違いない。だって俺、102人も知り合いいないしね。あと、この内の9割は、私が日頃「愛読者」と呼ばせていただいてる方々、このブログを面白いと思って読んでくださっている方々なんだろうけど、残りの1割、人数的にはごく僅かながら、私の発言を監視することを主たる目的として、私の失言を期待しているアホな輩が潜んでいることもまた事実だと思う。なんとなく、肌で感じるものがあるからね。でも、ま、そういう方々はご安心を。期待通り、じゃんじゃん失言していきますから。

それにしても、愛読者の皆さんには本当に心から感謝しております。今後ともよろしくお願いいたします!


戻ればいい

音楽は「音」を「楽しむ」と書く―というのはよく言われる言葉だが、今まで音楽をやってきて骨身に染みて思うのは、この言葉がいかに大切かということだ。

例えば、「音楽にとって一番大切なことって何なんだろう」という言葉を口にしたとすると、答えはすでに、言葉の冒頭に出てしまっていることになる。だから、この言葉についてさらに考えを進めていくというのは、逆に答えから遠退いていってしまっていることになる。

音楽の難しさというのは、スタート地点にゴールがあるということの難しさなんだと思う。一歩、答えを探しに出掛けると、一歩、答えから遠ざかってしまう。

音楽をやる上で「技術」と呼ばれるものは無数にあるが、その中でも一番修得するのが難しいのは、音を楽しむ技術、楽しみ続ける技術なんだと思う。

音楽は楽しくて当たり前―ではない。楽しむためには、楽しみ続けるためには、努力が要り、技術が要り、才能が要る。ということらしい。

スタート地点にゴールがある。


プラマイゼロを行く

人間、たまには、盲目的に信じなきゃいけない時がある。

ポジティブよりもネガティブの方が簡単で、信じることよりも疑うことの方が簡単なんだから。

確かに、重力は上から下に作用するし、時間は生から死へ作用するけども、例えば雲。あれは下から上に昇っていったものの形だし、例えば今日。誰かが死ぬと同時に誰かが生まれてきてるんだしねぇ。

浮いたり沈んだり生まれたり死んだりという連鎖の中で、浮きもせず沈みもせず生まれもせず死にもせず、プラスでもマイナスでもないゼロの高さに飛行機雲みたいな直線を描けるとしたら、そして、その上を歩けるとしたら、これはもう「信じる」ということ以外に方法はないんじゃござんせんか?

ま、毎度のことながら、極めてわかりにくい、私の中のイメージの話でゲスがね。


道一本

結婚して、子供が産まれた。

神崎川沿いのレンズ工場で2年半働いて、派遣切りに遭って、将来のことを考えると同時に、私の奥さんに「うちの旦那の仕事は〇〇です」と胸を張って言ってもらいたくて、そんな職業を探して、それが介護職で、資格を取って、1年半の間に3つの施設を渡り歩いて。

ずっと音楽がやりたかった。ずっとイライラしていた。音楽から遠退いてしまっていることを思うたびに、痛くて、酒を飲んだ。

仕事をしている時も、子育てをしている時も、自分で自分に違和感があった。ずっとサイズの合わない、似合わない服を着ているみたいで不快だった。

バンドがやりたかった。音楽がやりたかった。音楽をやっていないと、自分が自分ではなかった。
一時は諦めた。自分にとって唯一の自信の供給源を手放した。すると、普通に、立っていられなくなった。大袈裟な言い方をしてるんじゃない。本当に、立っていられなくなった。

「自分を生きる」ということのために音楽をやる。音楽をやらなくても自分を生きられるのなら、何も音楽にこだわる必要はない。やめりゃいいし、別の道に進めばいいけど、私の場合は、本当に、そういうわけにはいかない。

今のバンド、私はめちゃくちゃ気に入っている。私がバンドの一番のファンだと思っているし、私の宝物だ。でも、万が一、このバンドを失うことがあったとしても、私はもう絶対に音楽をやめないし、やめるかやめないかについて考えることさえしないと思う。

こんな人間の作る曲が悪いわけがないだろう。こんな人間の書く詞が悪いわけがないだろう。こんな人間の歌が悪いわけがないだろう。こんな人間を、音楽が愛さないわけがないだろう。

「やる」ために犠牲にしてきたものがある。犠牲にしたものがある。それは決して小さなものではない。だから、「やる」ということ以外はすべて無駄。

やるだけ。もし、やりにくくなったらやめて、またやるだけのこと。