〈8〉目下奈落の底。
〈9〉つい先日まで地上2Mだった男は、たった3日で、地上何メートルだかよくわからない男、彼が言うところの「孤高のレイニーウルフ〜そして夏〜」へと出世していた。
〈10〉目の前にピンと張った縄に手をかけて奈落の底を覗き込むと、闇の中の闇、底の底の方から繁華街の愉しそうな音が聞こえてくる気がして、全身がウズウズイライラしたが、もはや彼に下山という選択肢はなかった。
〈11〉「今、俺は全てを見下ろしている。あのシッケーナさえも!」みたいなことを思うんだろうな普通。俺の立場なら。と彼は思った。が、今の彼にはそんな子供染みた想像力にまかせた陳腐な優越感に浸っている余裕などなかった。彼は綱渡り師であって、綱渡りをする為にここまでやって来たのだから、本当なら今すぐにでも綱の上に記念すべき第一歩を踏み出さねばならない。しかしながら目下奈落の底。地上何メートルだかわからない。落ちたら確実に死ぬ。彼の心は恐怖でパンパンに膨れ上がっていた。
〈12〉「この恐怖に打ち勝つには..」呟いて一つため息をつき、煙草に火をつけようとしてやめて、ビールを口に運ぼうとした瞬間、彼は「これだ!」と思った。
〈13〉幸い、持参した台湾製冷蔵庫にはまだ20本ほどビールが残っている。まず台湾製冷蔵庫を背負い、左右の手にビールを持ち綱の上に乗る。そうやってバランスを取りながら進み、恐怖心が出てきたらその都度右手のビール、左手のビール、右手のビール、左手のビール、と交互に口にして恐怖心をスルー&スルーする。そうこうするうちに俺は向こう側にたどり着いて、綱渡り師として、男としてグッとスケールアップして下山、シッケーナのもとへ。
〈14〉極短期間の内に驚くべき出世を遂げた俺を見て、涙、涙、涙のシッケーナが言う「足元が見えない。貴方の足元が見えないわ!」そして俺はとどめを刺す。無知だったとは言え、一度は運命の人=俺を罵倒したシッケーナを狂おしき自責の念から救うべく、俺は威風堂々とこう言うのだ。「俺は君をメガデス!」
〈15〉「はっきり言って完璧。非の打ち所がない。ははは、そうかそういうことだったのか。サンクスゴッド!」歌うように言いながら彼は喜び勇んで綱渡りの準備を始めた。
〈16〉雨がやんだ。
〈17〉冷蔵庫を背負い、両手にビールを持ち、プロ意識に火を灯すと彼は記念すべき第一歩を縄の上に置いた。
〈18〉踏み外した。
〈19〉彼は叫んだ。
〈20〉「モンプチ!」
〈21〉曇天。下界ではシッケーナが天丼をむさぼり食っている。そんな午後の出来事であった。
超短編小説『堀井ヴァイブル』(下)
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時間がある時に、見てるよ。
最近コメント入れて無いけどね。
小説の主人公が思う事は私も感じる。
私の残念なことに、私にはビールが無い。飾たり売れるギターも無い。
ただ、生き抜いたて来た経験のみ。
友達はいるか?と聞かれ、友達なのか知り合いなのか、問題なのか?他にも何か音楽や本や自分が感じる物も、支えられなければ
その自信無い。温もりが無く感じる物さえも私には、血が通った力を感じる。
その人の魂だから。
これからも、コメント少ないけど、見てるからね。