大阪在住のうたうたい&絵描き&詩人 和田一憩(わだいっけい)のブログです。最新情報も随時配信していますので要チェック!!です。 携帯サイトはコチラ

2010年8月アーカイブ

ちょっと前、俺は『信仰の軸』というタイトルの文章で、「もし俺が音楽も絵も文章もやらなくなったら、それは俺が完全な女性不信に陥った時だと思う」ということを書いたが、考えてみればこれは違う。真逆だ。

俺は、女性不信に陥れば陥るほど、音楽や絵や文章をやると思う。

実際、今、俺は、女の人の絵を描かずにはおれない。優しい女の人。まだまだ描き足りない。病的な話、現実の女性への失望感が、俺にじゃんじゃんじゃんじゃん絵を描かせている。

まだまだまだまだまだまだまだまだ描き足りない。俺が子供の時から抱き続けた女性像はそんなんじゃなかった。

もっと柔らかくて、優しい生き物だと思っていた。

今後も俺は時間の許す限り描く。そんなんじゃなかっただろう女の人を描き続ける。

1位(―) 恋のジャンヌダルク

2位(―) 阿仁真里

3位(―) 木陰の愛嬌

4位(―) 祈りの少女

5位(初) 胡蝶蘭

6位(初) 夢と鎧とキューピッド

7位(↓) エキゾチック・ロマンス

8位(↓) 救援

9位(―) 姉

10位(↓) 舞踏会に招かれて

皆さんご存知の通り、俺は本来、女の人が大好きだ。女性が大好きだ。でも、ひとつだけ苦言を呈させていただくと、女性は男性よりも「ユーモア」というものに疎いように思う。

「ユーモア」と「笑い」は違う。「笑い」がストレートなら、「ユーモア」は変化球。女性は150kmのストレートは打てるのに、88kmの変化球で空振りしたりする。

彼女を怒らせてしまった。でも、俺としてはユーモアで言っただけなのに...という経験、男性なら誰でもお持ちでしょう。あれ、めちゃくちゃ悔しいでしょ?後で弁解染みた説明をするほど情けないことはないしねえ。

そこでこの一枚!この絵を気付かれないようにこっそり、あなたの彼女、もしくは嫁の携帯の待ち受けにしちゃって下さい。きっと何かが変わるでしょう!

何が起こっても責任は持てませんが..。

夢を叶えようと思ったらある種の鎧みたいなものがいるだろうし、キューピッドに繕ってもらわなきゃならんような人と人との縁もいるだろうし。

ま、正直、「キューピッド」の発想は「キューピー」から来てるんだけれども。

いずれにせよ、何故ベッキーに似てるのかは俺に聞かれてもわからん。

「これはラフな感じで終わらせるのはもったいないかも..」と思って、十分な睡眠をとった後、冷静な頭で冷静に手を加えた。

美人は美人でも、優しそうな美人に仕上がった。

プルルルル。プルルルル。プルルルル。プルルルル。

ガチャッ、「はい」

「あ、お久しぶりです。お元気で...あ、はい。え?自分が今何をすべきか...ですか?さあ、さっぱりわかりません。すいません。はい。え?自分の今の立ち位置...ですか?さあ、やっぱりさっぱりわかりません。すいません。え?地に...何ですか?あ、「地に足はついてるか?」とおっしゃってるんですか?あのぅ、お言葉ですが、自分がどこに立っているのかもわからない人間の足って地につくもんなんでしょうか?え?今「お前は幽霊か?」っておっしゃいました?これは面白いことをおっしゃる。いい歳して「幽霊」って。あは、あはははは。

―しばし沈黙。

ところで、逆にこちらからお尋ねしてもよろしいでしょうか?あ、ありがとうございます。ではお尋ねしますがあなたは今、何をすべきかご存知ですか?はい、ええ、あ、ご存知ですか。じゃ立ち位置はどうですか?はい、あ、あ、そうですか、それは素晴らしい!ということは地に足が...そ、そうですよね。ついてらっしゃいますよね。当然です。え?「私は誰かさんみたいに幽霊じゃないから」ですって?そうきましたか。あはははは。いやはや、本当にあなたはしっかりしておられますねえ。え?今、何ておっしゃいました?私はお前みたいに...何ですか?すいません、ちょっと聞き取れ...はい。私はぁ、お前みたいにぃ、何かにぃ、誰かにぃ、依存するということをぅ、しないぃ、自立したぁ、人間だから...ですか?なるほど!な〜るほどねっ...て、お前に言われたかねえよクソ馬鹿野郎が!!」

ガチャン!

絵を描く時、描き始める前に「綺麗な人を描こう」とか「可愛い娘を描こう」とかいった漠然とした方向性こそ(たまに)設定するけど、「こんな顔にしよう」みたいな具体的なヴィジョンはいまだかつて一度たりとも考えたことがない。俺自身、毎回、どんなものが出てくるのかは描き終わるまでわからない。だからこそ面白い。何が出てくるかわからないガチャガチャ的なドキドキ感、ワクワク感がたまらなく楽しくて、無我夢中になる。

例えば、『阿仁真里』さえも、阿仁真里を描こうと思って描き始めたわけじゃない。でも、出来上がってきたものを見た時に、本当に不思議だけど、阿仁真里にしか見えなかったから『阿仁真里』と名付けたのである。

阿仁真里って誰なのか。何なのかはここではあえて書かない。ご存知ない方は、今年の3月以降のブログに目を通していただければわかってもらえると思うのだが、阿仁真里という女の子は本来ならば中川翔子似なはずなのである。ところが、今回正体を現した阿仁真里は中川翔子とは似ても似つかない。にも関わらず、俺は出来上がった絵を見て、「あ、あ、阿仁真里だあ!」と思ったのである。

これいかに?

これはたぶん「中川翔子似」というのはあの時の俺が意識的に考えた像、要するに俺の願望した像であったのに対して、今回現れた姿は俺の願望を一切含んでいない、俺の無意識の部分から立ち上ぼってきた像だったからで、阿仁真里って一体何なのか、俺にとってどういった存在なのかという原点に遡って考えると、やはり阿仁真里の本当の姿は今回の絵『阿仁真里』そのものなんだと思う。だから俺自身も、絵を見たとたんに自分の意識的な部分が吹っ飛んで、願望的なものが吹っ飛んで、無意識の部分で思い出したように「あ、あ、阿仁真里だあ!」ってなことになったんだと思う。





とにかく、俺は絵を描く時は可能な限り何も考えないようにしている。そのことに細心の注意を払っている。もし絵を描く前に自分が少しでも何か余計なことを考えだしたなと感じたら机から離れて、煙草を吸ったり、散歩をしに出掛けたりして、一旦絵のことを忘れるように心掛けている。

俺は、「無意識」という名の、中に何が入ってるんだかわからないタンスの取っ手に手を掛けて、ドキドキワクワクハラハラしながら引っぱり出すというのが絵を描くということの一番の醍醐味だと思っている。だから極端な話、下手でもなんでも良いのだ。自分の中に何があるのか、何が眠っているのか、何が埋もれているのかということにこそ興味があるし、その結果、出てきたものが魅力的だったりした場合には、これはもう万々歳で、筆舌し難く嬉しくて、嬉しさのあまり部屋に飾って、何度も何度も繰り返し繰り返し眺めずにはおれないのである。

と、まあ長々と書いてしまったが、要するに俺が言いたいのは「阿仁真里ってちょっと乙葉に似てね?」ってことなのです。

10分で美人が描けるかに挑戦してみた。眠たくて、頭がぼ〜っとしてて、思考がほぼ停止している状態だからゆえに描けるような気がして描いてみたら描けた。





〈破棄〉

・蛇の涙

1位(―) 恋のジャンヌダルク

2位(初) 阿仁真里

3位(↓) 木陰の愛嬌

4位(―) 祈りの少女

5位(―) 葡萄の涙

6位(―) エキゾチック・ロマンス

7位(―) 救援

8位(―) 舞踏会に招かれて

9位(―) 姉

10位(―) 小悪魔SG





〈破棄〉

・THE HAIR

「あの〜、笑って欲しいんですけど...」と言ったのだが、一言「却下!」って言われたので、「じゃ、ご希望通りに...」と答えて描いた。

伝家の宝刀始動。記念すべ初作完成!でも...め、め、めちゃくちゃ難しい...。指先を使ったり、ティッシュを使ったりして試行錯誤に次ぐ試行錯誤。なんとか完成に漕ぎ着けたのはいいんだけど、これで良いんだか悪いんだかさっぱりわからない。

でもこれを見てから『蛇』を見ると、不思議と『蛇』が馬鹿みたいな絵に見えてきたので早速破棄します。あと、ついでに『何も言えなくて...夏』も。従って、ランキング暫定3位は『蛇の涙』ということで。

親父が、本格的に画家用のクロッキー(チョークともいう)をくれた。

ペン型で、太くてずっしりと重い。写真上の茶色い筒には替え芯が入っている。

子供の頃、「カッコエエなあ〜」とか思いつつ、このペンを触っていたことを覚えているが、あれから数十年後、まさか自分の物になるとは夢にも思わなかった。

次の絵からこれをフルに活用していくけど、その目印として次の絵からは絵に入れた「ikkei」サインの下に一本の線を引くことにしようと思っている。

使いこなせるかな。それが問題だ。

ちょっとでも気に入らない部分があると寝るに寝れんので、ちょっとだけ修正。完成。

『蛇』の右隣に貼って、ちょっとだけ眺めてから寝ます。

お疲れさまでした。

画用紙を手に入れて、力の限り描いて、力尽きた。

本日、最後の作品。

寝ます。

1位(―) 恋のジャンヌダルク

2位(―) 木陰の愛嬌

3位(初) 蛇

4位(↓) 祈りの少女

5位(↓) 葡萄の涙

6位(↑) エキゾチック・ロマンス

7位(↓) 救援

8位(初) 舞踏会に招かれて

9位(↓) 姉

10位(―) 小悪魔SG

この絵に関しては俺のサインが邪魔だとしか思えなかったので、塗り潰した。

これで完成。





〈追記〉

・キャリアウーマンの微笑→破棄

朝食後、即再開。左手を机の上に付いて、立ちながら描いた。

まだ描ける。でも残念ながら画用紙が切れた。とりあえずはこれで打ち止め。





〈追記〉

・世界を売った女→破棄

・祭りの女→破棄

これが「興奮」か。俺、明らかに鼻息が荒くなってきている。濃いコーヒーと、わかばを2本ほど吸ってちょっと落ち着こう。

最短。これは5分くらいで。描いてる時の感情が怒りみたいなものになってきた。

日課の桑田公園への早朝散歩を経て。

可能な限り速く描きあげて、可能な限り速くタイトルを決める。

これは8分くらいでダアーッと。

初の試み。黒クレパスを持って、画用紙に向かって、自分が何かを考え始める前に勢いだけでダアーッと描きなぐって、10分かそこらで終わらせてみた。

ものの見事に、昨夜、うちの隣の公園で行われた盆踊り大会で、櫓の上、太鼓を叩いていた女の子が出てきた。

この本に一目惚れしてしまった。信じられないくらいに強烈な一目惚れで、買わずにはおれなかった。

アルトゥル・シュニッツラーというウィーンの作家が1925年〜26年に著した『夢奇譚』という本。

まず、背表紙の『夢奇譚』というタイトルに目が止まって、何気に取り出したら表紙のデザインがめちゃくちゃ綺麗で「な、なんやこれは!」と思って、興奮しながら解説を読んだら、「フロイトに「わが精神のドッペルゲンガー」と言わせた作家による問題作」とあって、もう本当に問答無用だった。

解説によると内容は「夢と現実の間に描かれる性的妄執の世界」とある。

た、たまらない。タイトル、表紙のデザイン、内容、そしてフロイト...。

何度も繰り返し読んで、表紙は拡大コピーして部屋に貼ることにします。

ちなみにこの本、ブックオフにて105円。死ぬほど良い買い物をした。

「誤解は地雷です。踏んで無駄に爆発させられるのは我々の感情です。かといって、これを全て除去するというのは残念ながら夢物語でしかなく、数無限に埋まっていると捉えて然るべきものを慎重に一つ一つ除去して歩くなどというのはこういってはなんですが実に...面倒臭い。しかしながら誤解が地雷と称される最大の所以はこの「面倒臭い」ということにあります。誤解は面倒臭いからゆえに我々の感情を爆発させる地雷なのです。従って、我々にとって「危機管理能力の向上」とはこれすなわち「嗅覚の鋭敏化」を意味しており、臭気を察知した際には除去などという危険なことはせず、臭気のする箇所、すなわち地雷の埋まっているであろうポイントに次々とフタ(遠くからでもそれとわかる派手な色の物が良いでしょう)をしていき、フタの点在しているゾーンには近寄らないようにするというのがこの忌々しき地雷に対する賢明な対処法かと思われます」と言われて地雷にフタをしたら爆発した。

コメントありがとう。そして、本当に有難いエールです。『さいけ「デリック」まさし』を無闇に高価な額に入れて差し上げたい、いや、押し付けたいくらいです。本当にありがとう。

森田療法、ゲシュタルト療法、自助グループ、共依存、思考の一元化...全ての言葉に馴染みがあって、基本的な意味がわかる自分に驚きます。心理学書を読みあさった甲斐がありました。ま、勉強はまだまだ始まったばかりですが。

言ってはること、凄く良くわかります。「自分の人生の主権は自分にあって、他に譲り渡してはいけない」本当にその通りだと思います。でも、頭ではわかっていても実際にはむちゃくちゃ難しい。原因は、自分で自分の事をビックリするくらい理解っていないからだと思ってます。ただ、理解っていないということに気付けたこと自体は良かったと思ってます。思ってますが、理解っていないことに気付いたら気付いたで今度は自分という人間が、人格が、いかにバラバラにとっ散らかっているか、とっ散らかった状態のまま放置してきたかということにも気付かされることになって...。何だかよくわからない奇怪なもの(自分)をいきなり受容するなんてことはできないし、とりあえずは教科書通りに変容から統合を経て、で、その後、何かの間違いで運よく自分を受容できたら最高だなと思っています。

「社会的」という冠を被って、オードリー春日のような胸の張り方をして、我が物顔に街を闊歩するあらゆる物事に、人種に「うるせえよ馬鹿野郎!」って言える人間に、ものつくりになりたいと思っています。そして、そうやって広範囲に「馬鹿野郎!」と言うために必要なものを、自分は本当は持っていると信じています。でも、問題はその持っているものの活かし方がいつまで経ってもさっぱりわからないということで、わからないからただ邪魔なだけに感じることもしょっちゅうです。ちょっと前に描いた『木陰の愛嬌』という絵。年配の女性の額にくっ付いているてんとう虫はそういう意味だったりします。だから気に入ってるんです、あの絵。

というわけで、こちらこそ長々とすいません。読んでくれていたこと、素敵なエールを贈ってきてくれたことへの感謝の気持ちの表れだと思って、受け取ってやってください。あ、できれば『まさし』も...。

他人より上手にできることなんてほとんど皆無に近いのに、一番近くにいる人間が自分の音楽を聴いてくれなかったり、絵を観てくれなかったり、文章を読んでくれなかったりしたことが本当に辛かった。

それでも、いつか再び音楽をやるために、絵を描くために、そして、いつか再び自分の創る音楽に、絵に、文章に興味を持ってもらう為に、音楽や絵や文章をやってる時の一憩こそが一憩だということを思い出してもらう為に、出来る限りのことはやろうと思った。だから大概の不本意なことは希望を繋ぎ繋ぎすることでなんとかこなせた。

でもある日、あるタイミングで、この希望の糸がプツンと音を立てて途絶えてしまった。ちょうど、糸電話の糸が切れて何も聞こえなくなってしまったような感じで「あれ?どんなに頑張っても無理っぽいぞ。だってほら、音楽と俺、絵と俺の間の距離が1mmも縮まってないじゃないか...。ってことは俺、このままだと生きる為に生きて、不本意な自己犠牲みたいなものの繰り返しでダラダラヘラヘラ老いていくだけなんじゃないのか?」ということにある段階で気付いてしまった。

気付けば自分の夢や人格はあっても無くても生活には差し支えないと言われているかのような状況に立たされていて、こうなるとあとはもう自虐的な酒の飲み方をするしかなくなっていた。





そんなこんなを経て、今、俺が絵を描きまくっているということにはどうやら2つの意味があるらしい。一つはまさにあの窮屈な時期の反動ってことで、一枚一枚の絵そのものにはメッセージらしいメッセージはないけれど、「描きまくっている」ということ自体に俺が一番伝えたい、わかってもらいたい、わかってもらいたかったメッセージがあるんだということ。そしてもう一つの理由は、あの時期、俺は色んな物を捨てたり売ったりして身軽になることに快感を覚えていたけど、今はその逆で自分の持ち物を、もっと言えば「自分だけの」持ち物を持ちたいという気持ちの表れなんだろうなということ。ちょっと詩的な見方、言い方をすると「(絶対に裏切らない)味方を作ってる」のかも知れない。この2つの理由に、元々自分の中にあった女性崇拝的な考え方を取り戻してやる!という意志の粉チーズを絶えず振り掛け続けていて手首が痛ぇよ馬鹿野郎!というのが今、俺が絵を描きまくっている姿なんだと思う。

要するに、「社会的には終わってるんだろうな..こんな考え方」などと常時思いつつも、ただ生きる為に生きるというのが俺にはどうしても腑に落ちなかったんだろうな、我慢ならなかったんだろうな、と他人事のように思う今日この頃です。

隣の部屋の紙袋の中から奇怪なものが出てきた。高校一年の時、美術の授業でポスターカラーを使って描いた絵だ。

色使いがめちゃくちゃだ。無駄に濃い。目に痛い。見ていて不快。ちっとも落ち着かず、見ていると5秒でめまいがしてくる。そして、何よりモデルが凄い。一体どういうチョイスだ。写真を見て描いたと思われるが、まさかのさだまさし!

か、完全に狂ってる..。怖い..。怖過ぎるぞ、昔の俺。





す、捨てよっかな...。

1位(―) 恋のジャンヌダルク

2位(初) 木陰の愛嬌

3位(↓) 祈りの少女

4位(↓) 葡萄の涙

5位(↓) 救援

6位(↓) 姉

7位(↓) 女帝の心臓

8位(↓) エキゾチック・ロマンス

9位(↓) 仮面

10位(↓) 小悪魔SG





※今後も変動があり次第、随時更新、発表していきます。

狭い部屋の壁に、俺の描いた35枚の絵が所狭しと並んでいる。

そんな部屋の中心にゴザをひいて、大の字に寝そべってみる。

みんなこっちを見ている。笑ってるのもあれば泣いてるのもあるし、涙こそ流してないけど哀しんでるのもあれば、額にてんとう虫を付けて困惑の表情を浮かべてるのもある。

一瞬、これは何だろう?この部屋って、この空間ってとどのつまり一体何なんだろうと思って考えてみた。





俺の頭の中だと思った。

地味ながら一生懸命生きてきた年配の女性。近所の公園を散歩をしていたら額にてんとう虫が止まって、「これは一体どうしたものかな..」と思っている。

陽性な可愛らしさだけが女の人の可愛らしさではないと思う。

俺はこの絵、この女の人、めちゃくちゃ可愛いと思う。

これでこのブログも800本目。7th『インナーチャイルド』に次ぐ、8枚目のアルバムが完成したことになる。

8枚目のアルバムタイトルは『籠城と創造』に決定。

「創造」っていうフレーズが、幾分、自分の人生の上向きを感じさせてくれて嬉しい。

読者の皆さんには今後ともご愛読の程、よろしくお願いいたします!

自作の絵。今、手元にある34枚の絵に対してBEST10を付けてみたいと思います。熟考に次ぐ熟考の末、出た結果は以下の通りです。

1位 恋のジャンヌダルク

2位 祈りの少女

3位 葡萄の涙

4位 救援

5位 姉

6位 女帝の心臓

7位 エキゾチック・ロマンス

8位 仮面

9位 小悪魔SG

10位 日常の天使

今、目を覚ました。

何ヵ月ぶりだろう。死ぬほど楽しい夢を見た。

大学進学記念パーティー(?)みたいなのが、どっかの大学の広いキャンパスみたいなところで行われていて、ビールやら串焼きやらとにかくありとあらゆる出店がモウモウと煙を立てて、あちらで「いらっしゃ〜い!」こちらで「いらっしゃ〜い!」と威勢良く出ていて、大勢の人間が所狭しと蠢いていて、みんな笑っていて、ド派手で、ほとんどドンチャン騒ぎで、場面がコロコロコロコロとジェットコースター的なスピードで移り変わっていって、登場人物も凄い面々だった。俺の小中高時代の友人たち。その中には俺が中学高校を通して3度告白して3度フラれた女の子もいた(お姫様みたいな格好をしているわりには神妙な顔をしていて馬鹿丸出しだった)し、芸能界からは矢口真里(俺の特に仲の良い友人として出てきて、俺のビールを隠して俺が探しているのを見て笑ったり、何度か衣装チェンジしては「見て見て!」と俺に見せに来て、その都度俺におちょくられていた)、志村けん(ビール片手に赤い顔をして出店を渡り歩いていて、何度かすれ違ったが、すれ違うたびに「あの店旨い!」などと教えてくれた)、いかりや長介、オール巨人(俺を見てずっと笑っていた)、有田哲平、岡村隆史などなど、数え切れないくらいの人が出てきて、呑んで食らって笑って、とにかくもの凄い騒ぎでめちゃくちゃ楽しかった。





今はぼ〜っとしている。脳が派手に爆発した後みたいな感じだ。

『竹尾 涼』は須磨ですまんの〜という男に選ばれて、彼の生活の一部に加えてもらえて、本当に幸せな絵だなと思う。

彼は、須磨ですまんの〜という男は、『竹尾 涼』という絵に対して想像力をフルにカラフルに爆発させて、絵を「存在」に変えて遊べてしまっている。楽しめてしまっている。これは本当に夢のある素晴らしいことだと思うし、作者である俺自身、こんなに嬉しいことはない。

絵との接し方というのはなにも、絵の前に仁王立ちして、眉間に皺を寄せて、腕を組んで「う〜む」などと低く唸るだけが全てじゃないし、観る人間にそんな見方をさせる絵だけが絵じゃないということだ。

彼のお陰で、俺の絵のあり方がグッと見えてきた。そもそも俺の絵は絵のようで絵じゃなかったり、芸術のようで芸術じゃなかったりする何か別のものなんだから、変に崇高であろうとする必要なんてない。等身大で、観る人の想像力によっては確実にそこに「存在」し得て、例えば音楽が人に歌わせたり踊らせたりするように、俺の絵も人に遊んでもらえたり、楽しんでもらえたりするものであればそれが最高だ。

かく言う俺もしょっちゅう、『恋のジャンヌダルク』を眺めながら、心の中で彼女に対して色々と相談したり、悩みを聞いてもらったりしてるけど、これでいいのだ。この接し方が許されるというのが崇高感ゼロを誇る俺の絵のセールスポイントだ。

全ては想像力の問題だ。

コメントありがとう!

先程、千夏さんに「妹さんがお世話になってる俺の友人からこんなコメントが入ったよ」と言って携帯見せたら、「え?菓子折り持って来てくれはんのん?涼にはもったいない、今時珍しい律儀な人だねえ」と何故かおいらん口調で言ってから「私、ハッピーターンかキャベツ太郎がいいな。涼はホワイトロリータが好きやけど、私はああいうの嫌いやねん。私、アンチブルボンやねん」と言っていたので、そんな感じでよろしくお願いします。

名前は竹尾千夏。そう、『竹尾 涼』の姉である。泣きぼくろがトレードマークの竹尾姉妹。妹は右に、姉は左にある。

妹、涼の身長が158cmと小柄であるのに対して、姉、千夏は169cmと、結構な長身である。

千夏は見かけによらず、ナイフとフォークを使うのが苦手で、ゆえにいわゆる「気取った店」が嫌いで、フランス料理やイタリア料理よりも断然、和食や中華を好む。とりわけ「餃子の王将」が好きで、王将に行くとメニュー表には目もくれず、餃子4人前と瓶ビールを注文するというのが彼女の中の定番だったりする。

あと、千夏は阪急電車駅構内にある「阪急そば」が大好きで、数年前、ダイエット中に大阪は十三の阪急そばの前を通りかかった際、「ここはグッとこらえて...」と自らに言い聞かせて4メートルほど通り過ぎたがどうしても我慢できず、体の向きはそのままに、まさかのバックで4メートルの距離を後退、店に入っていったことがあって、このことは今でも十三の阪急そばで働くオバハンたちの間で伝説として語り継がれている。

広8―22神

1.前文章で「俺の絵は絵ではありません。マンガみたいなものです」と書きましたが、このブログ上では一応、便宜上、自分の作品のことを「絵」と表記させていただきます。毎回毎回「マンガみたいなもの」って書くのは非常に面倒臭いので。

2.『自己評価〈6〉』の中で一枚、評価し忘れてたものがあったので、ここで発表させていただきます。以下の通りです。

・白い悲しみ ★★★

潜りで大芸に通っていた14年前。知り合った芸大生たちと毎晩のように芸術論みたいなものを闘わせていたけど、俺は芸大生たちの「理解できないもの=芸術」みたいな考え方に反対だった。確かに受け手のレベルというものはあって、レベルの高い人には理解できても、低い人には理解できない作品ってのはあると思うし、本物を本物だと言える人は本当はほんの一握りしかいないような気はする。要するに「見る目」のあるなしってのは確実にあると思う。でも、誰にも理解できないものが芸術かというとそれは俺はただのゴミだろうと思う。だから俺はいつもビートルズなんかを例に出しつつ「わかりやすいってのも立派に芸術だ」と主張していた。

「爆笑王」と呼ばれた桂枝雀の落語はとてもわかりやすかった。でも、身振り手振りが大きいことから咄家としての評価は低かった。同じく「どうもすいません」で有名な東京の伝説の落語家、林家三平は枝雀同様、「爆笑王」と呼ばれていたが、落語家としては禁じ手とも言える客いじりを多用することからやはり咄家としての評価は低かった。古典を愛する人たちの目には稚拙な芸として映ったんだと思う。でも、「落語は難しくてよくわからない」と言っていた一般人の足を寄席に向けさせた功績というものを考えた場合にはこのご両人というのは本当に凄いと思う。「落語は難しい」と思っていた人たちを「落語ってオモロイやん!」と思わせたのは、ご両人がそもそも芸達者であったのはもちろんのこと、その芸の、噛み砕いたような「わかりやすさ」にあったんじゃないかと思う。

ところで、絵画って難しい。「歴史的名画」と呼ばれるものを観ても、何だかよくわからないというのが正直なところだし、これが抽象画となるとさらに一層わけがわからない。言わずもがな、芸大生はどいつもこいつも抽象画ばかり描いていたけども...。

そこで俺の絵に関して述べさせていただくと、まず、俺の絵は絵ではございません。絵とは呼べません。マンガみたいなものです。ただ、めちゃくちゃ良く言うと、前述の枝雀さんや三平さんの落語のように「絵は難しくてわからない」と思っている人に「あ、これならわかる」と思ってもらえたら、そしてついでに気に入ってもらえたらそれが何よりだと思っています。あの時の芸大生たちに「ただのマンガじゃん」って言われたらそれこそ俺の望むところ。「ゴミよりマシじゃん」って答えるだろうと思います。

芸術とゴミは紙一重。線引きが難しいけど、でも、例えば同じゴミでも、わけのわからない理解不能なゴミよりは、わかりやすい理解できるゴミの方がずっと存在価値があるだろうというのが、俺のものを創る上での信念です。

はい。

・世界を売った女 ★★☆

・恋のジャンヌダルク ★★★★★

・何も言えなくて...夏 ★★★☆

・悪夢除鏡 ★★★☆

・戦友の死 ★★★★☆





※『恋のジャンヌダルク』まではB4サイズ。『何も言えなくて...夏』以降はA4サイズ。

最近、ほぼ毎日、この時間になると散歩に出る。

そして、以前、盆踊りの時に紹介した桑田公園のベンチに座って、特に何をするでもなくぼ〜っとしている。

写真は公園内にある、俺が小学生の時に愛用していた秘密基地。この上で漫画を読んだり、昼寝をしたりしていた。3、4人同時に上がれた記憶がある。

今でも登り方は覚えてるけど、今登ったら確実に通報されるのでやめとく。

うつになると、めちゃくちゃ疲れやすくなります。

病院の先生の言い方を引用すると「例えば、やるべきことが4つ、ABCDとあるとすると、普通の人は連続してできるんだけど、うつの人はAをやったら休み、Bをやったら休み...といった感じになる」

俺もまさにそんな感じで、何か一つのことをやると、ドッと疲れが出て、気付けば寝てしまってます。

人によっては食欲や性欲が著しく減退するし、睡眠障害にもなります。俺の場合は「寝るのが怖い」というのがずっと続いてます。寝てる間に知らぬ間に時間が流れていってしまうということが嫌で、不快で、疲れ切って手も足も出なくなるまで起きておくという感じです。これはうつの人の典型的な症状らしいです。

あと、「うつと言えば自殺願望」みたいなところがあるけど、これは事実です。無力感とか、劣等感とか、自己嫌悪とか、罪悪感とかがドッと押し寄せてきて、「お先真っ暗」と思えた時には「死にたい」というのがどうしても出てきます。俺自身も何度も考えたし、俺の周りには幸い死なずに済んだけど、実際に行動に移した人が一人以上います。

数日前、そうやって実際に行動に移した人、二人に会って話をする機会がありました。二人とも言ってたのは「理解してもらえない」ということでした。「日本人なんてみんなうつと言えばうつやで」とか「自分も落ち込んでどうしようもない時があったんやから」とか言われて、言い返す言葉がないという辛さ。言い返せばただの自己憐憫野郎みたいになってしまう。でも「違う!」と強く思う。あんたのそれと俺のこれは絶対に違う!と身をもって思う。でも言えない。言っても無駄だと思う気持ちが積み重なって引きこもる...最悪の道筋です。

以前は俺もうつの人のことが全く理解できませんでした。懺悔すると、馬鹿にしたことさえあります。でも今はただただわかってあげて欲しいと思います。わからないのならわかろうとしてあげて欲しいと思います。うつの人にとって一番「要らない」人種はわからないのにわかったようなことを言う人です。逆に、わからないならわからないなりに黙って話を聞いてくれる人の存在というのは本当にありがたい存在です。

短いけれど、この文章を今、うつに苦しんでいる人と、その周りにいる人と、今後うつになる可能性のある読者の皆さんの為に書き、残します。





〈あとがき〜前兆記〉大阪にいた時、俺は天六商店街をぶらつくのが大好きでした。でも、うつだと診断される数ヵ月前から、商店街を歩いている時の自分のものの見え方、感じ方に強烈な違和感を感じ始めました。商店街を歩く人たちに対して以前は全く感じたことのない疑問を抱いている自分がいました。それは「この人らみんな、なんで笑ってるんやろう?何がそんなに楽しいんやろう?」というものでした。この感じ方は商店街を最後に歩いた頃には「どいつもこいつもニヤニヤしやがって」という怒りみたいなものに変わってしまってました。今にして思えば、あの違和感は「前兆」だったのかなと思います。

普通、書かないであろうことを書きます。誰一人として俺のブログにこういった文章を期待していないであろうことを承知の上で書きます。間違えた解釈や誤解を招くことを承知の上で書きます。俺がここに書き、残すことで、いずれ、誰かの為になることを祈りつつ書きます。

うつについて。

まず、うつは病気です。身体の病気と同じように、専門家に診てもらって診断してもらう病気です。残念ながら「うつは病気」だということをしっかり認識しているのはうつの人だけのような気がします。そして、うつは次の3つの要因に分かれます。

1.心因性うつ/例えば、身近な人が亡くなったとか、離婚したとか、会社をクビになったとか、外的にわかりやすい、自覚的な原因が元でなるうつ。

2.内因性うつ/意識的にはわからない。自覚がない。長い時間をかけて自分の中で蓄積されたものが脳内の伝達機能に影響を及ぼしてなるうつ。

3.混合性うつ/心因性であり内因性でもあるうつ。

基本的には薬剤治療は内因性と混合性に対して有効だとされていて、心因性には(例外はあれど)効き目がないとされています。内因性は脳の伝達機能の異常が原因なだけに医学的なアプローチが有効だけど、心因性の場合はまさに「心の病」で、患者にとって理由がはっきりしていて、自覚的なだけに専門家によるカウンセリングでの治療が主になるみたいです。

俺の場合は自分で勝手に、素人判断で心因性だと思ってました。だから、病院でうつの診断を受けて薬を処方されても納得がいかず(例えば、身内が亡くなったとしてその悲しみを薬で治すなんてのは信用できないでしょ?)、このブログでもリアルタイムで勇ましく書いたように、薬を医者には内緒で抜くことにしました。9日ほど抜いたんですがこれが地獄でした。歩いていても平衡感覚がなくて千鳥足になるし、記憶力があからさまになくなるし、確実に覚えていた電話番号とか人の名前や顔さえ思い出せなくなるし、目を閉じて横になると床が波打ってるように感じるし、ちょっと感傷的になると涙が止まらないし...大変でした。でも、こういった身体的なものは病院で薬をもらってきて飲むと、すぐに治りました。ってことは俺は内因性でもあったってことで、要するに混合性で、最近は欠かさず薬を飲むようにしています。薬は飲み続けることに意味があるということも後になって知りました。

とにかく、素人判断は絶対にダメだということです。

(後編に続く)

当然、実際はもっと鮮明に見えてる。

昼夜を問わず、気付けばこの絵を眺めて過ごしてる。

昔、11才年上の友人が「本当に凄い絵からは音楽が聴こえる」と言っていた。

凄い絵だとは思わない。全くもって思わない。冗談じゃない。凄い絵というのはミケランジェロとかダ・ヴィンチとかルノアールとか...本当に凄い。でも、俺はこの絵がミケランジェロやダ・ヴィンチやルノアールの絵よりも好き。俺はこの絵が凄く好き。

音楽が聴こえる。

自分の美意識を圧し殺して他人の美意識に合わせるのは嫌だ。もう嫌だ。ウンザリだ。

死んでも嫌だ。嫌なもんは嫌だ。

もし目の前に天使が現れて「よっ、同志!」って声をかけたとしても、抱き締めてはもらえないと思う。

もし目の前に悪魔が現れて「よっ、同志!」って声をかけたとしても、抱き締めてはもらえないと思う。

スーパーや雑貨屋でアンパンマングッズが売っているとその前で少し立ち止まってしまう。

気付くのに数秒かかる。

脳波の検査を受けた。

頭に所々糊を塗られた上に、ラグビーのヘッドギアみたいなものを被らされて、ベッドに横になって、目の前のライトが付いたり消えたりする中で「はい、目ぇ開けて。はい、閉じて。はい、開けて。はい、閉じて。はい、じゃ、深呼吸して下さい。いやいや、いつもより大きく深呼吸してください」などと言われて指示に従ったが「いつもより大きく」って一体なんだ?あんたは俺のいつもの深呼吸をご存知なのか?っていうかいつも俺、どんな深呼吸してたっけ?こんな感じ?あ、でもこれじゃただのラマーズか...って俺、妊夫じゃないんだから...などと自問自答しつつ20分くらいで終了した。

結果は次の診察の時に出るんだけど、とりあえず今日の段階で「うわ!スッカスカですねぇ〜」とか何とか言われなくて良かった。何しろ俺は小学生の時、ティッシュの空き箱とセロハンテープだけでファミコンを作ろうとした男なんだから。

最近、夢を見ない。たまに見たとしてもほぼ毎回、悪夢だ。

今日も、昨夜の23時半に寝て、2時15分には目を覚ましてしまった。またしても悪夢に起こされてしまった。

これは何とかしないと...と思い、机に向かい、これを描いた。

これを枕元に置けば、今夜からはちゃんと眠れるだろう。

「33じゃもう遅いよ」と言われた時、あの瞬間、全てを終わらせる勢いでキレれば良かった。

何かを見てしまった。

もしくは

何かを聞いてしまった。

もしくは

何かを知ってしまった。

いずれにせよ

涙も出ない。

男は子供が産めない。でもそれは男のせいじゃない。

部屋の中央、部屋の雰囲気を左右する額に入れる絵を『葡萄の涙』から『恋のジャンヌダルク』に変更。『葡萄の涙』は『ORANGE』が貼ってあった東側の壁に異動。この異動に伴い、『ORANGE』破棄。

部屋の北側。俺の就寝時の枕元、コンポのスピーカー上には右スピーカー上に『小悪魔SG』続投。左スピーカー上に『何も言えなくて...夏』。

絵の配置、及び淘汰。めちゃくちゃ気を使う。

最近買ったとある本に「恐怖心に打ち克つには、知識が必要不可欠だ」とあった。

確かに知識を得ると、得た分だけ目線の高さが少しだけ上がったような気がする。

もっともっと勉強しないと...。

でも、こと「創作」ということにおいては俺は相変わらず知識や理論は要らないと思っている。誰かがそういったことについて喋りだしたら俺は耳を塞ぐ。知りたくない。芸術と呼ばれるものに方程式的なものは要らないというのが俺の信念だ。生き方に方程式的なものを求める人は芸術にも求めりゃいいと思うけど、俺は「人が生きる」=芸術だと思ってて、人が生きるということに方程式なんてあってたまるかという考え方の持ち主なので、芸術は行き当たりバッタリ、「無」から何か面白いものが生まれたらいいなと思っている。

音楽も絵も文章も、上手くなりたくない。下手でいたい。上手くなったら終わりだとさえ思っている。





「人間の関節はそういう風には曲がらないよ」と言うのなら、写真を見とけ。想像が自由に羽ばたける場所に現実の尺度を持ち込んでくれるな。そもそも窮屈な人間という生き物が、窮屈なものを作って、窮屈な人に見せ聴かせして、一体どうしようと言うのか。

教えてくれ!

心理学界の偉人、ジークムント・フロイトは人間の心の根底、無意識下で蠢いていて表層意識、行動に最大の影響を及ぼすものは『性衝動』(リビドー)であると言った。一方、アルフレッド・アドラーという人は性衝動ではなく『権力への意思』であると言った。

詳しく書くと長くなるので詳しくは割愛するが、例えば一人の精神病者と対峙した場合、フロイトは患者に過去の出来事を喋らせて診断するが、アドラーは「将来、何がしたいですか?」と未来のことについて尋ねて、診断したらしい。

ちなみにユングはこの治療する側の人間の「態度」に着目して理論立てた。フロイトとアドラーの場合は、フロイトが「外向」的なものの見方(過去、その人に外的に何があったのか)を重視するのに対して、アドラーは「内向」的なものの見方(今、その人の心の中で何が起こっているのか)を重視する、ということに着目して理論立てて、今日、みんなが日常的によく口にする「内向・外向」という言葉を産み出したわけです。

ね、面白いでしょ?心理学。難しいようで難しくないようで難しいようで難しくない。だって心理学っていうのはいわば哲学に並ぶ「人間学」で、俺もあなたも人間なんだから、全くもって理解不能ってことは基本的にはあり得ないはずなんです。

で、今日、俺が考えたのはね、フロイトの『性衝動』、アドラーの『権力への意思』に対して、俺も何か閃かないかな、提唱できないかなってこと。人間の無意識下で蠢いていて、表層意識、行動に大きく影響を与えるもの。

俺は『所属欲』なんじゃないか?と思った。どこかに所属したい、誰かと関わっていたい、全体に対しての自分、自分に対しての全体、そこに絡み付く欲求。満足、不満足。

今はまだ、ここまでしか言えないし、自分の中でちっとも理論立てられてないけど、ちょっとずつでも理論立ってきたら、またそのことについて書きます。

ま、これに関しては興味のある方だけ読んでいただければ結構ですので、はい。

うちの母親が紙粘土で拵えた蛙。我が母親ながら上手い、本当によく出来てるなと思う。

そういえば、俺にギターの弾き方を教えてくれたのも母親だった。中学の時、俺がギターを弾いてると母親がやってきて「そんな撫でるように弾いてたんじゃアカン。ギターはもっと強く、叩き付けるように弾かな。弦なんてなんぼ切ってもええんやから」と言ったのだ。この時の教えが、そのまま現在の俺のギタースタイルになっている。





街角やライヴハウスでアコギを弾きながら歌っている奴を見るたび思う。「こいつら、音楽よりもギターの方が大事なんじゃないのか?」って。そして、ギターを撫でるようにして弾く奴というのは大抵声も小さい。「聴かせる気あんのか?」とは思うが、とりあえず何を歌ってるのか、何を訴えようとしているのかだけは知りたいと思って耳を傾けると長渕剛の曲だったり、二人組みだとゆずの曲だったりして「帰れ!」と心の中で叫んでから、何故かちょっとだけヘコんで帰途に着くのです。

朝早く目を覚まし、起き上がってもあくびが止まらない。ベッドへ引き返し、夢の中へと舞い戻り、ひたすら夢路を漂う。どうか僕を起こさないで、いやだよ、揺り起こしたりしないでこのまま放っておいておくれ。

僕のことを怠け者だってみんな思っているみたいだね。気にしちゃいないよ。おかしいのはみんなのほうさ。とんでもないスピードであちこち駆け回り、挙げ句の果てにそんなことしなくてもよかったって思い知るだけなんだから。どうか僕の一日をだめにしないでおくれ。僕は心ここにあらずなんだから。とどのつまりは僕は眠ることしか能がないんだ。

窓の外に広がる世界で起こっていることから目をそらさないようにしながらも、僕はゆっくりしているんだ。とりあえずは寝っ転がって天井をじっと見つめ、眠気が襲ってくるのを待ち受ける。どうか僕の一日をだめにしないでおくれ。僕は心ここにあらずなんだから。とどのつまりは僕はただ眠っているだけなんだ。

窓の外に広がる世界で起こるできごとに注目しながらも僕はゆっくりしているんだ。

朝早く目を覚まし、起き上がってもあくびが止まらない。ベッドへと引き返し、夢の中へと舞い戻り、ひたすら夢路を漂う。

あいつはまったく地に足がついていない男。自分だけの架空の世界の中に逃げ込んで、ひとりよがりな夢想に耽っている。

自分の考えも持っていなければ何の目標も持っていない。あいつってちょっぴり君や僕に似ていないかい?

うわのそらの男よ、どうか耳を傾けておくれ。君は自分が何を失っているのかまるで気づいちゃいない。現実から逃げている男よ、この世界は君次第でどうにでもなるんだよ。

あいつはまったく何も見えちゃいない。自分の見たいものだけを見ようとしている。うわのそらの男よ、この僕の姿も見えないのかい?

現実から逃げている男よ、心配することはない。じっくり時間をかければいい。あせることはない。そのままでいたって誰かがきっと君に手を差し出してくれるよ。

自分の考えも持っていなければ何の目標も持っていない。あいつってちょっぴり君や僕に似ていないかい?

うわのそらの男よ、どうか耳を傾けておくれ。君は自分が何を失っているのかまるで気づいちゃいない。現実から逃げている男よ、この世界は君次第でどうにでもなるんだよ。

あいつはまったく地に足がついていない男。自分だけの架空の世界の中に逃げ込んで、ひとりよがりな夢想に耽っている。誰のためにもならない、ひとりよがりな物思いに耽っている。

自分勝手な実現しそうもない計画を練っている。

体育会系。男勝り。日頃の口癖は「男みたいなもんは」

友人が男に泣かされたと聞くやいなやその男のところへ怒鳴り込みに行くというのは日常茶飯事。姉御肌で、気質的にじゃりん子チエを彷彿とさせることから「チエ」と呼ばれている。

そんなチエちゃんがある日、とある男子から呼び出された(チエちゃん的には「呼び出しを食らった」)。なんだかよくわからないが売られた喧嘩は買わねばと思ったので、指定された時間よりだいぶ早めに指定された場所、公園へ行き、「さあ、どっからでもかかってこい」と身構えていると、その男子がやってきてチエちゃんに世に聞く「告白」ということをした。

あまりに突然。あまりに単刀直入なもの言いだったので、チエちゃんは不意討ちを食らったように唖然とした。頭の中で小さなチエちゃんが「えらいこっちゃあ〜」と叫びながら走り回っている。

言葉が出ない。何も言えない。と、そこへその男子が焦ったように「と、とりあえず一回、デ、デ、デ、デートしよ」と言った。「デート」という言葉を理解するのに46秒くらいかかった。そして、気が付いたら「べ、別にええよ」と答えてしまっていた。





「べ、別にええよ」と答えてしまった直後のチエちゃんの顔。

もし俺が音楽も、絵も、文章もやらなくなったとしたら、それはたぶん俺が完全に女性不信になった時だと思う。





俺のクレパス画には例外なく「違うよな?」って書いてある。

つ...ついに描けた(涙)文句ナシ。『葡萄の涙』を遥かに凌ぐ最高作。

「ジャンヌダルク」をテーマに無我夢中で描いた。描き終えて気付いたのは川瀬智子に似てるってこと。でも別に川瀬智子を意識して描いたわけじゃないし、ましてや写真を見て描いたとかそんなんじゃない。めちゃくちゃ好きやからかな、勝手に出てきた。

色使い、バランス共に今までで最高の出来。

嬉しい。酒が飲みたい。





〈追記〉

・コスモス→破棄

・パープル→破棄

事態はもはや俺の罪悪感の問題。

さらに少し整形を施した。

完成。

不憫...あまりに可哀想なので、ちょっとだけ整形してあげた。

「こう見えても昔はモテたのよ。ま、今でもモテるけど」が口癖で、酒が入ると朝までグラムロックについて語る。

理想の男性はデヴィット・ボウイ。友人たちからは「ミック」と呼ばれていて、本人はミック・ロンソン(デヴィット・ボウイの片腕と言われたギタリスト)のことだと思って喜んでいるが、影では当然のように「ジャガー」と呼ばれている。

『謎』は想像力を掻き立てる。だから恋に、セックスに、必要不可欠なんだろう。想像力は神様が人間に与えた最高の贈り物。人間はそれを無意識下でよくわかってるから想像力が自分の中で活発に動いているのを感じる時、血湧き胸踊るんだろう。

「読めない」人間でいたい。定規で引かれた線で区切られた世界でなんて生きたくない。

自分で自分をどう捉えるか。他人が自分をどう捉えるか。他人が自分をどう捉えているのかということを自分はどう捉えるのか...ってことが複雑に絡み合ってのことなんだろうけど「窮屈」。この「窮屈」ってのは本当に最低だ。地獄だ。

本来、もうちょい自由なはずなんだ。人間って。

男女を問わず、人は皆、『鍵』を持っているとして。





目の前に鍵穴の付いた扉があって、自分は鍵を持っている。

扉の向こう側の世界が謎に包まれている場合は鍵穴に鍵を捩じ込んで開けたいと思うが、向こう側の世界がどんな感じなのかを知っていたり、おおよそ予想がついてたりする場合には大して開けたいとは思わないのが人情。

恋にはセックスというものが切っても切れない関係にあるし、それは素晴らしいことだし、そもそも切る必要なんてないんだけど、セックスというものには『謎』が切っても切れない関係にある。ってことは恋を継続させるにはこの謎が鍵になってくる。

お互いがお互いにとって謎であり続けることができたら最高だと思う。

「私(俺)の全てをわかってもらいたい!」と言った時点から、恋の花は枯れていくんだろうと思う。

何も描かれていない画用紙を見せて「これは何ですか?」と尋ねた場合には10人中10人が「画用紙」って答えると思う。

次に、この画用紙に女の人の絵を描いて先程と同じ10人に「これは何ですか?」と尋ねた場合には、よほどひねくれた奴がいない限り全員が「女の人」って答えると思う。

さて、問題はここから。先程、「女の人」と答えた全員に「本当にここに女の人はいますか?」と尋ねた場合には意見が分かれるんじゃないかと思う。





幾つになっても頑なに「いる!」と答える人間でありたい。

理想は、絵の向こう側の女の人に本気で恋に落ちること。そんな絵、女の人を描くこと。

描いても描いても到達しない。

でもいつか必ず。

レノンが「愛こそはすべて」なら、俺は「恋こそはすべて」だ。

いろんなことを考える。考えて考えて考え抜く。その結果辿り着く答えは、その考えている内容に関係なくいつも必ず『恋』だ。どんな問題も恋に比べれば、恋心に比べれば大したことない。

恋こそはすべてだ。俺の唯一とも言える「信仰」にして「神」だ。異性に対する熱烈な恋はもちろんのこと、自分の好きなことやものに対するはち切れんばかりの愛着、そして自分自身や友人たちを夢ある暖かい眼差しで眺めるという幸せな立ち位置。

恋はわかりやすく光だ。我々は夜行性の生き物じゃないんだから光ある場所を選んで生きるべきた。

恋は鮮やかな色彩だ。例えば虹。あれは恋が具現化したもの、恋そのものだ。白黒じゃない。白と黒だけじゃない。多くの選択肢がそこにある。なんてったってカラーだ。現代だ。現在だ。現代の、現在の、希望そのものだ。

光の差す方へ―自分で自分の中の恋心を絶えず自覚できるような生き方をしたい。

恋に対する我慢は恋心に対する嘘だ。

馬鹿で結構メリケンサック。正直に行こう。素直に行こう。「好きなんだからしょうがねえじゃねえか!」でいいじゃねえか。

一見、どこがどう変わったのかわからないかもしれないけど、実は隠し味的にではあるけどかなりの変化を遂げています。

これで完成。

★★★★☆

・オーディション〜シンガーと4人の天使 ★★☆

・ORANGE ★★★☆

・コスモス(改良版。非公開) ★★★

・竹尾 涼→売却済

・パープル ★★★★

彼女は心理セラピスト。

挙げている右手は実際には見えない右手で、肉体としての右手は左手同様に下ろされている。

格好が格好だけにたまに占い師と間違えられて、1日の内に5回くらい間違えられた日なんかには、夕刻、古びた居酒屋に一人立ち寄ってやけ酒を煽ったりもするが、美人なので男に困ったことはない。

しかしながら独身。

昨日、旧友が来て『竹尾 涼』を2千円で買ってくれた。

俺、お涼さん、確かに気に入ってはいるけど、アート性に乏しい絵やと思ってたから「千円でいい」って言うたんやけど、「いやいやいや、これを描いた労力を考えると」って言って2千円で買ってくれた。

ありがたいにも程がある。

旧友も俺と同じくお涼さんのルックスが好きみたいで、「これが家にあると元気が出る」って言ってくれた。

仕事に行く時はお涼さんに「行ってきます」って言い、仕事から戻ると「ただいま」って言うよ、って旧友は言った。その想像力、空想力、妄想力。さすがは我が旧友。

お涼さんには「夏の恋」という祈りが練り込んであるが、俺が絵の裏にサインを入れたから涼さんのパワーを信じさえすれば「夏の」は無効化できる。

旧友の恋がロマンチックに成就することを心から心から心から祈ってます。

厳密に自分の精神年齢を考えてみた。どう考えても33じゃない。自分の精神は一体どの時点から成長が止まったのか。じっくり考えてみた。

19だと思った。あの、酒を覚え始めた時期。始めて本格的に伊丹から出て、潜りで大阪芸大に通っていた時期。好奇心とか、考え方とか、それこそ恋愛観さえもあの時点で止まっているらしいし、どんな状況を楽しいと思うのか、何をしている時に楽しいと思うのか...といったことの全てが19の時点で止まっているらしい。

もし仮に「実年齢」と「精神年齢」の他に『真年齢』というものがあるとしたら、これは実年齢と精神年齢を足して2で割ることで導き出せると思う。

33(実)+19(精神)÷2

俺の真年齢は26ということになる。実際、肉体年齢も26くらいじゃないかと思う。





26扱いしてください。

大阪では二人、友達が出来た。いずれも女性で、介護施設で働いている時の先輩で「この人は面白い!その辺の女の人と全然違うぞ!」と思って「友達になってもらえる?」と、半ば告白的なことをして友達になってもらったのだが、二人とも俺の凝り固まった女性崇拝的な考え方を良い意味でほぐしてくれると同時に、新しい女性観みたいなものを教えてくれた貴重な存在。

二人の内の一人は、自分でも絵を描いていて、仕上がったら写メールで送ってきてくれて、俺にとってめちゃくちゃ良い刺激になっている(以前に一度、このブログ上で作品を紹介した)。もう一人は今日、「二枚、欲しい絵があるからとっといて」とメールをくれた。ご指名は『7』と『祈りの少女』の二枚。クレパス画じゃない絵が売れるのは初めてのことだし、二枚同時に売れるというのも初めてのことだ。ありがたい。嬉しい。

ありがたいし嬉しいんだから、出来る限りお求め易い価格で提供しようと思っている。相手は親友であり、かつての戦友でもあるんだから、無料で譲ってもいいんだけど、それじゃ夢がないから、お求め易い価格で、ね。

ここ数日間、絵を描いてなかった。でも、また描く意欲が沸いてきた。

お二人に心からの感謝を。

「立派な人」なんてどうでもいい。何の興味も無いし、立派であることを求められても困る。

「ええ奴」でいたいと思う。だから、ええ奴であることを他人に求めるええ奴の側にいたいと思う。

「立派じゃないけどええ奴」になれたら最高だと思う。

一歩踏み出した。

昨日、住民票を伊丹に移した。愛する伊丹に移した。俺は伊丹人だ。本当に、本当に嬉しい。

俺には誇るべき看板が二つある。一つは『元アルファベッツ』で、もう一つは『伊丹人』だ。

癒しの伊丹。大阪のスピードについて行けず弾き飛ばされた俺を受け止めてくれた伊丹。大阪で窒息死しかけてたインナーチャイルドを甦らそうとしてくれる伊丹。大阪で狭い牢屋にぶち込まれていた創造力に「あなたには羽根がある」と囁いて、気付きを促してくれる伊丹。そして、その伊丹に棲む旧友たち。





ポールの「ペニーレイン」、レノンの「ストロベリー フィールズ」、俺の「伊丹」。

昨日は、このブログの読者ならよくご存知、「もの作り一憩」の最大の理解者であり、戦友・盟友であり、このホームページの管理人でもある剣吾くんが遊びに来てくれた。そして俺の絵『女性は綺麗』を2千円で購入してくれた。絵が売れたのは『受容』に続いてこれで二枚目だが、数ある絵の中から『女性は綺麗』を選ぶあたりはやはりバンドマンだな、ロック馬鹿だなと思って嬉しかった。

ところで、俺のクレパス画にはそれぞれ祈りが練り込んである。『受容』には「幸せ」が、『女性は綺麗』には「創造力」が込めてある。それぞれの絵が、それぞれの持ち主に対して、それぞれのパワーを発揮してくれることを心から祈ってます。

世の中、「立ち止まるな!(Don’t Stop!)」とか、「振り返るな!(Don’t Look Back!)」みたいなメッセージを搭載した歌のいかに多いことか。そしてこういう歌は作り手がわざわざコメントを添えなくても、受け手が勝手に自動的に『応援歌』として受け止めるようだが、本当にそれでいいのか?それは本当に『応援歌』なのか?その受け止め方に何の疑問も感じないのか?本当に皆、どいつもこいつも立ち止まりたくないし、振り向きたくないのか?正気か?例えば仕事中、休憩は要らんのか?例えばちょっと振り返ってみるだけで、今現在のパワーに変えられるような過去が一切無いのか?皆、そんなに早死にしたいのか?皆、そんなに過去の自分と現在の自分の間に繋がりを見い出せないのか?それはちょっと...悲しくないか?

「立ち止まらない」ってそんなにカッコ良いか?自分自身を見つめる時間を持たなず、好き好んで自分自身を見失っているような人間に他人のことがわかるのか?他人の身になって物を考える神経が育つのか?

「振り返らない」ってそんなにカッコ良いか?「宝石」とでも呼べるような過去を一切持たない、持とうとしない、或いは持っていても無視するような情緒感に乏しい人間に、他人を夢のある想像や憶測で眺めようとする神経が育つのか?







ある意味、休まず、前だけを見て走り続けるというのは楽だと思う。いつもその都度必要な物だけをその場で調達して背負って、あとの物はみんなその都度置き去りにして行きゃいいんだから。

コメントありがとう。

「レノンになりきる」って面白い発想です。俺のことをわかってくれている人特有の、独特で特殊な、俺向きの助言であり発想です。

俺、丸眼鏡は金のネックレスと同じくらい似合わないし、ヨーコは田嶋陽子くらいタイプじゃないけど、自分なりの解釈でレノンをやってみます。

いつも本当にありがとう。

本当に不思議なもので、生理的なもので、俺は自分にとって本当に大切な時期にはビートルズを聴きたくなるし、ビートルズしか聴きたくなくなるし、ジョンの声が聴きたくてどうしようもなくなる。

ジョンがビールの入ったビニール袋片手に遊びに来てくれたらなあと心から思う。「バラ公園見に来たついでにね」ってジョンが。

俺は子供の頃からビートルズ狂だったけど、元々は実はポールの方が好きで、ジョンは苦手だった。子供心にジョンの曲は、声は、聴いてて辛かったし、重いと思ってた。でも今はジョン命。もちろん今でもポールのことは死ぬくらい好きだけどジョンは...筆舌し難いくらい好き。

ジョン・レノンになりたい。

でも、俺は俺。

でもジョン・レノンになりたい。

でも、俺は俺。

誰にだって「理想のタイプ」ではないかも知れないけど、「こういうタイプに弱いんだよなあ」ってのはあると思う。

俺のそれがこれ。こういう顔立ちの女の人に俺は弱い。昔から弱い。

この絵は『竹尾 涼』というタイトルで、もちろんこの女の人の名前なのだが、いつも通り空想上の人物で、実在する女の人じゃない。

涼さんには俺が中学3年間を通してずっと好きだった女の子の面影があるし、19の時に1年半付き合った女の子の面影もあるし、老人介護施設で一緒に働いていたナースの面影もある。

名前の由来は、名字は上記のナースが「竹尾さん」だったから(偶然とは言え本当に似てるから)で、名前は最近クソ暑いので、この暑さを和らげるべく服の色を白にしたり、背景色を水色にしたという動機から『涼』にした。

今まで描いてきたどの絵、どの女の人よりも、俺はやはりこのタイプに弱い。

昔から弱い。

病院で最初に言われたのは「慢性的な自信の無さがここにきてピークに達したんだと思われます」だった。



自分の顔がかなりおぞましいらしいことには薄々気付いている。鏡さえ見なければ「ただの勘違いなんじゃないか?」と思おうと思えば思えるし、ゆえに社会生活も何とかギリギリ営める。鏡さえ見なければ...なんて生活が続くわけがない。

鏡、窓ガラス、水溜まり。自分の顔を映し出す物に絶えず怯えながらの毎日は、たとえそれが緩やかなものであっても着実に自分の中に劣等感を増殖させていく。そして、早かれ遅かれいずれ必ず限界がくる。限界が来たら、自分の望むと望まざるとに関わらず、何かに背中を押されるような形で鏡の前に連れていかれてしまう。で、全てが音を立てて崩れ去ってしまう。

俺が大阪から伊丹に戻ってくるきっかけとなった瞬間というのはまさに、その『何か』に鏡の前に連れていかれた瞬間だったんだと思う。自分の中でガシャン!と鏡の割れる音がして、気付けば伊丹にいた、みたいな。だから、本当の意味で「闘病生活」が始まったのは、伊丹に戻ってきた6月の頭からだと思う。

「闘病生活」って一体どんなことなのか。それは俗に言う「自分との闘い」なんだけど、じゃ自分との闘いって具体的にどんなものなのかというとこれは、ガシャン!と音を立てて割れた鏡の断片を拾い集めることで、鏡の断片を拾い集めるってどういうことなのかというと、自信を取り戻すということで、じゃどこまで取り戻せば回復したと言えるのかというと、おぞましくなる以前の自分の顔を取り戻すまで。ということになる。





最近、人間は自信があって始めて決断ということができるんだなということを実感している。だって俺は本来、決して優柔不断な人間じゃないし、ここぞという時には(ここぞという時に限っては)、自分が自分じゃなくなるくらいの勢いで大きな決断を下せてきた記憶があるのに、今は不思議なくらいこの決断力というものが無くて不快で、なぜ決断できないのかということを考えると一瞬で「自信が無いからだ」という答えにたどり着く。

イメージ的には、「決断」というのは「家の外に出る」ということ。「素っぴんで外出はできない」と言う女の人の気持ちが良くわかる。というのも要はやはり自信の問題で、今の俺にとっても、素っぴんで伊丹最北端という「家」の外に出るという行為はかなり気合いのいる行為、はっきり言って「冒険」で、なかなか難しい。それこそ御忍び芸能人みたいに帽子を深く被っていないと不安でしようがない。

そこで、藁にもすがる思いで本を読む。と、色んな本に「好ましくない現状を打破するには動くことが一番だ」とあるが、じゃあ好ましくない、打破したい現状というのがもし「素っぴんでは外出できない」ということそのものだった場合、「動く」というのは一体何をもって「動く」なんだろう。動こうと思って、化粧ポーチに手が伸びた段階でそれはもうすでに、現状を打破出来ていないってことになるんじゃないか?だからこの場合は素っぴんで外出できた時に始めて打破できたと言えるんだろうし、そのためにどうするのか、どう動くのかってことになるんだろうけど、ってことは基本的にはまず家の中に解決すべき問題があるってことになると思う。

「とりあえず動いたら?」って言葉が「とりあえず外に出たら?」に聞こえる。でも、家の外に出られないってことがその人にとっての一番の問題である場合には、何をどうすることから始めれば良いんだろう。

わからない。

調子にノってる時。他人の立場でものを考える神経に乏しい時。俺は、俺の財産は、自分の想像力や創造力と、そこから生まれた作品だと思う。





自分の分をわきまえている時。他人の立場でものを考える冷静な頭がある時。俺は、俺の財産は、友人たちだと思う。

しかしまあ、ここ数ヶ月の間に俺、一体何回泣いたんやろう。

大阪にいた時、久々に伊丹の最旧友に会った時なんて、帰り道がわからなくなって気付いたらその旧友の目の前で娘の名前を繰り返し言いながら泣いてたし。あれはだいぶ前のことやけど、今思えばあの時からすでに重症やってんなと思う。情けないにも程があるよなあ。

そういえばちょっと前にも泣いたばかり。気分が高揚して、思い浮かべたらアカン光景を思い浮かべてしもたらもう駄目。ほとんど秒殺的に涙出てくるもんな。何とかならんもんかねえ...。って、あ、俳優にでもなろうかな。だって、すぐ泣けるよ。

涙って渇れたらええのにねえ。頭も心も干からびかけてんのに、涙だけ潤ってるというのはどう考えてもバランス悪いよなあ。右目と左目に一本ずつ繋がってる涙腺をそれぞれ切断して、頭と心に接続できたらええなあと思うけど、この発想は発想で如何なもんかねえ。

滑稽だねえ、俺。

〈籠城〜イメージする現状〉

外との戦いと内との闘いの並行。「籠城策」とはそういうこと。

ひと度、外を見渡せば、敵が城の周りを「隙あらば」と息巻いて取り囲んでいるからひとときも気を抜けないし、かと言って、外にばかりに気をとられて内への気配りをおろそかにしていると、最悪の場合、内乱が勃発。その時点で全てが終わってしまう。

「現状打破」ということを目標に据えた場合、今すべきことに優先順位があるとすれば、何はともあれまずは内を安定させることだと思う。内を安定させて、団結させて、内から外を見下せるレベルにまで高めることができたら、その時には撃って出ても負けることはないと思う。





〈創造〜現実の着手〉

自分の意思で、とりあえず薬を止めることにした。病院の先生から承諾を得たわけじゃないけど、こんなもん飲んでたんじゃイカン!と思って。が、やはりいきなりゼロにすると、それなりにリバウンド的なものがあってキツいので、当分は頓服的にキツくなった時にだけ飲むことにして、徐々にゼロに近づけていくことにした。自分の意思で決めたということ。そして、自分の中から「闘おう」という意思が出てきたことは間違いなくプラスな展開だと思う。が、薬を減らすと今度は何の前触れもなく猛烈にイライラするようになってきた。このイライラ、直視しているとさらにイライラするだけなので、直視せずに済む最良の方法として「絵を描く」というのがある。

イライラする→助けてくれぇ〜!と思う→助けてくれるものを生み出そうと思う→その時、側に居てほしい女性像を思い浮かべる→絵におこす。

気付けば俺の部屋、見渡す限り女の人の顔、顔、顔になっていた。

変な部屋。

仲の良い友人たちから「オレンジ」と呼ばれている女の子。

最初は、性格がものすごく陽性な上に、かなり天然が入っていることから「ミカン」と呼ばれていた。以前、友人たちとの会話の中で「アンタは果物で言うたら..ミカンやな。他は浮かばんわ」と言われたことがあって、それ以来そう呼ばれるようになったのである。が、ある日、バンドをやっている友人に連れられて楽器屋に赴いた際に、ミカンが「ORANGE」というオレンジ色の大きなアンプを見つけて、ギターも弾けないくせに「これ可愛い!欲しい!」と言って、数ヶ月後、ギターを持っていないにも関わらず実際にこれを購入したことから、このエピソードが友人たちの間に瞬く間に拡がって、以降、ミカンは「オレンジ」と呼ばれるようになったのである。

もしオレンジの友人たちに「オレンジといえば?」と尋ねたら、10人中10人が「天然」と答えることは間違いない。「長嶋茂雄以来」と言った友人もいるくらいに凄いのだ。例えば、居酒屋の壁に「当店の醍醐味!〇〇焼き」という札を見つけるやいなや「すいません!」と店員を呼んで「だいごあじってどんな味ですか?」と聞いたこともあったし、今だに月極駐車場の「月極」を「げっきょく」と読むし、「座右の銘は?」と尋ねられて「え〜っと、左が1.5で、右が1.0です」なんて答えたこともあって、その都度、周りの友人たちを大いに笑わせてきたのであるが、そんな時、本人はいつもなぜ自分がそんなに笑われているのかさっぱりわからずキョトンとしているのであった。

オレンジはそんなキャラで、嫌味な所の全く無い性格がゆえ、友人が実に多い。いわゆる「愛されキャラ」であって、特に、悩み事を抱え込んでしまった友人の目には「癒し系」そのものとして映ったりもするのであった。

しかし、そんな超天然ガール、オレンジにも悩み事が無いわけではなかった。人知れず「モテない」ということ。今まで彼氏というものができたことがないということがオレンジのひそかな悩みであり、コンプレックスなのであった。が、これはオレンジの完全な勘違いで、実はめちゃくちゃモテているし、モテてきたのである。真相はオレンジ自身が男たちの自分に寄せる想いや、そんな想いから来る言葉や態度にめちゃくちゃ鈍感で、いつも「気付かない」だけなのである。だから友人たちは親身になり、果ては意地になり、その点を口を酸っぱくしてオレンジに指摘してきたのだが、この友人たちの指摘、言葉の意味がオレンジにはわからない。全くわからず、いつも「はにゃあ?」みたいな顔をするので、友人たちはいつもいつも歯痒くて歯痒くて、憤死してしまいそうなのであった。

趣味はハリウッド産のベタな恋愛映画鑑賞。尊敬する人はメグライアン―オレンジ。いつも元気な癒し系超天然ガール!





といった空想から生まれた絵。天然色をフルに活用。俺の中では『受容II』的な意味合いもあって、非常に気に入ってます。

前川清スタイルで歌う女性シンガー。オーディションという場の空気に一切呑まれることなく、実に堂々とした態度で歌声を披露している。そしてその背後には彼女を応援しつつも、主役である彼女以上に審査員に自分たちの存在をアピールしている天使が4人。

ちなみに、彼女が歌っているのはオリジナル曲ではありません。誰かの曲です。超有名曲かもしれないし、知る人ぞ知る「隠れた名曲」かもしれません。何を歌っているのかは、この絵をご覧の皆さんのご想像にお任せします。

間違いなくその曲を歌っております。

俺の中に居酒屋がある。名前は『梁山泊畏敬』

ここで酒を呑めるのは俺が心から尊敬する人々のみ。かといって特別高級な居酒屋じゃない。例えば飲み物で言うと生中は480円だし、ウイスキーやワインもよっぽど有名な銘柄でない限り一杯600円前後で提供している。一方、食べ物は食べ物で実にお求め易い価格に設定しており、例えば串ものは焼鳥系にしろ、串カツにしろ、だいたい一本120円前後で提供しているし、刺身などの生もの系も季節によって多少の変動はあれど、白子や牡蠣などの特殊なものも含めて全て基本的には上限2000円の枠内で提供させていただいている。

常連は読者の皆さんもよくご存知の面々で、ジョン・レノン、北野武、和田つとむ、町田康、カート・コバーン、諸葛孔明、リアム・ギャラガー、伊丹十三、キース・リチャーズらだったりして、この店では当然の如くに、言葉の違いはもちろんのこと、各々の年齢からコチラとアチラの境に至るまですべて「無礼講」、無効、取っ払って、年中無休、大いに賑わっている。

当然、昨夜も大いに賑わっていて、女将(松坂慶子)を中心に、アルバイトの通称=やぐっちゃん(矢口真里)と通称=アニー(阿仁真里)の二人が狭い店内を「たけしさん、奴(やっこ)入りま〜す!」「レノンさん、アスパラ串3本入りま〜す!」「康さん、いいちこをロックで2杯同時に入りま〜す!」などと歌うように叫びながら忙しく走り回っていたのだが、そこへ、見たことのない客が二人、恐る恐る暖簾をかき分けて入ってきた。女将が「いらっしゃい!あ、お初さんですね!さ、さ、こちらへどうぞ!」とカウンターの中央あたりを指差して声をかけると、その二人は初めての店で緊張しているのか「ど、ども...」と呟くように言ってその席に座り、「とりあえずビール」「私も」と各々小さな声で言った。

それから2時間もした頃だったろうか。気付けば二人は頬を赤らめて、常連らのいる座敷に移動しており、皆と完全に打ち解けていた。リアムが「こっち来たら?」と誘ったらしい。

「ジブンらもマスター(一憩)の知り合い?」とウイスキー片手にキースが尋ねた。すると「そうなんですよ。つい最近出会ったばかりなんですが、お互い意気投合しましてね」と片方が答え、「彼が「是非僕の店に来てください!」って頭を下げて手を合わせて言わはるもんだから来てみたんですよ」ともう片方が続けた。と、そこへ孔明が養命酒片手にふらふらと割り込んできて「酔拳」とよく分からない一言でひとスベリしてから「で、お二人はこのお店、気に入りましたか?」と尋ねた。二人は声を揃えて「それはもう!」と答え、「女将さん、別嬪ですしね」とこれまた声を揃えて言って笑い、カウンターの向こうではそれを聞いていた女将が微笑んで「やぐっちゃん、お初のお二人にビール出してやって!」と言い、「私のおごりで」と付け足してまた微笑んだ。

宴もたけなわ。いつ終わるとも知れないたけなわ。今度はレノンがビール瓶片手に二人のもとにやってきて「初対面でこんなこと言いにくいんだけどさ。あのさ。もし良かったら俺をみてくんないかな?」と言った。すると二人のうちの後輩に当たるらしき方が「今は酒が入ってるから無理ですけど、明日だったら喜んでみますよ」と答え、レノンは「ありがとう」と礼を言った。この一連の会話をレノンの隣で不思議そうな顔をして聞いていたキースは、肘でレノンをつんつんして「おい、『みる』って何?映画をみるとか言う時の『見る』か?それとも医者が患者をみる時の『診る』か?」と尋ねた。すると、レノンが「後者やね。『診る』の『みる』や」と答えたので、キースが「じゃ、この人ら医者なんか?あのマスターが医者を尊敬?」と再度いぶかしげに尋ねると、「ま、医者と言えば医者みたいなもんやけど」声がして、突然キースとレノンの間にたけしが割り込んで来て謎の二人を指差して次のように言った。

「歳上の方がジークムント・フロイトで、歳下の方がカール・グスタフ・ユング。二人とも心理学の先生だよ」





また二人、『梁山泊畏敬』に常連が増えた。

能動性と支配性に輝く心は孤独。

憎しみと支配欲以外の対決(自分の本当の気持ちをぶつける)はすべて許される。

相手の「悪い側面」を認知し受け入れるという心の働きは、そのまま自分自身の不完全さを自覚して受け入れる素地になる。

阿仁 「私にはそのアイスノン的な物、無いの?」

一憩 「無い」

阿仁 「なんでアンタにはあって私には無いのよ」

一憩 「俺のがあるんやからお前のはいらんやん」

阿仁 「あ、そっか」

「戦い」であるからにはそれなりに過酷だ。

でも、俺は別に相手を罠にはめたいとか、絶望のどん底に落としてやりたいとか思ってるんじゃないし、そういったことが「勝ち」だなんてこれっぽっちも思っていない。

俺にとっての「勝ち」は、認めるところは認めるが、認められないところは絶対に認められないということを認めさせるということ。ただこの一点だ。

確かに何かと不甲斐なかったことは認める。苦労を、迷惑を、かけてきたことは認める。でも、こうなるに至った全ての原因が俺にあると言われればそれは絶対に認めない。そして、俺に対して「憎しみ」の感情しか抱けないというのなら、その感情とその感情を弾き出す精神構造と、それを支持する人間を俺は絶対に認めない。

今まで、「認めろ」と言われて認めたことは多々あるが、「認めろ」と言って認められた記憶は皆無に等しい。だから最後くらい、最後だから、実はずっと胸中に眠らせていた自尊心みたいなものを目覚めさせて、貫き通したってバチは当たらないだろう。





俺のせい。でも、いつもいつも俺のせいではなかった。一緒に壊したんだ。

善人ヅラして世間一般論を押し付けてくる馬鹿がいる。「普通、それはおかしいだろう」って何だそりゃ。何ですか?その「普通」って。

本当は個性の無い人間なんていないはずなのに、自分が自分の個性に自信を持てず、自分の個性を諦めたことを正当化するために他人に自分の考え方と、自分の所属している世界を押し付けてくる馬鹿、馬鹿、馬鹿。

タチの悪い宗教の勧誘と何がどう違うのか。

誘い言葉はどうせ「これは一種の保険だとお思いください。万が一、あなたの人生が上手くいかなかった場合、不特定多数、全体、とりあえず誰かのせいにできますよ」だろう。

個性を自覚して生きてる人間は、意識しようがしまいが自然と世間一般論からははみ出すよ。

だって個性なんだから。

個性って意味、わかってる?

世の中には血液型占いを信じきっているような人間、元来十人十色であって然るべき人間を4タイプくらいに分けられると信じきっているようなキチガイ染みた人間が多過ぎるよ。

世間一般論を信仰してる人間は、血液型占いを信じきっている人間よりずっと重症だ。下手すりゃ「4タイプ!?多っ!何を贅沢な!」とか抜かすんじゃないか?





ナチスはゲルマン人しか認めなかった。

辞書で「心の支え」を調べると、幾つかある意味の2つ目あたりに「和田一憩の」というフレーズから始まるものがあって、そこにはお二人の名前とコメントがそっくりそのまま載っているはずです。

本当にありがとう。

介護の仕事をしている時、特に夜勤の時なんかは、少しでも時間に余裕ができるとチョコレート等、甘い物を口にしていた。気付けば口にしているといった感じで、「これが『身体が欲する』ってことかあ」などと感嘆気味に実感したし、だから介護施設の介護士室にはいつも必ず甘いものが常備してあった。「食べてね」とか可愛らしく貼り紙がしてあって。

自分の表層意識みたいなものを経由せずして「欲する」のは何も身体だけに限った話ではないみたいだ。頭だって渇きや飢えを覚えると「欲する」らしい。

最近の俺はとにかくずっと本を読んでいる。結構分厚いものでも、買ってきたその日に読み終えて、深夜に目が覚めると、今度はまた別の本を読み始めている。あの時のチョコレートみたいに、頭が知識を欲しているのがよくわかる。そして、自分が今までいかに知識不足だったかということを思い知らされている。包丁や鍋といった道具はあるが肝心の食材が無いといった感じで、考える頭はあるが、良い答えを導き出すための材料、知識が全然足りないという感覚があって、こんなんで今までよく生きてこれたなと思う。

身体が欲したり、頭が欲したりするものは自分にとって本当に必要な物なんだろうと思う。摂取して悪いということは一切ないんだろうと思う。そして、それは俺が生きようとしているから、生きようとしていることが身体や頭に伝わっているからこそ、主人たる俺の表層意識みたいなものを半ば無視してまでも起こる身体や頭の欲求なんだと思う。

もっともっと知識が欲しい。

一生懸命やってるつもりでも、それが本当は不本意で、他人の価値観に照らし合わせた上での一生懸命である場合には、結果はやはり不本意に終わるらしい。ただでさえ、自分の能力を活かすということに四苦八苦し続ける生き物が、不本意な気持ちを大きく抱え込んだまま遺憾なく能力を発揮できるわけがない。単純明快といえば単純明快な話だが、俺はこれに気付くのに33年半もかかった。

他人に叱られたくないと思ったり、他人に認めてもらいたいと思ったりする中での選択を最優先して、自分で自分を圧し殺して、中途半端な自己犠牲でもって頑張ったところで良い結果には絶対に結びつかない。そんな「生ける屍」とも言える陰性の塊みたいな生き物が、「夢」とか、「希望」とか、それこそ「幸せ」とかいった陽性なものをつかみとれるはずがない。つかんだところで、あっという間に手が焼け溶け落ちるだけだ。単純明快といえば単純明快な話だが、俺はこれに気付くのに33年半もかかった。

自分のやりたいことをやるというのは悪いことじゃない。そして、自分のやりたいことに対して自分の能力が伴っていると信じられるのなら何が何でもその方向に進むすべきだ。

まず一つ、心に決めた。

介護職には戻らない。

これでこのブログも730本目だ。

1本目からずっと欠かさず読んでこられた方ならおわかりのことだろうと思うが、俺の人生はこのブログの始まった2009年3月31日以降だけをとって見ても、厄年でもないのにずっと下降線を辿ってきてしまっている。ジリジリジリジリ...まるで地盤沈下のように、緩やかに着実に沈んできた。

かといって、今までずっとこの流れに対して無抵抗だったわけじゃない。されるがままだったわけじゃない。「前向きに前向きに!」と自分自身に言い聞かせてみたり、具体的にやり方を変えてみたり、半ば無理矢理に自分を奮い起たせてみたりして、俺なりに何とか食らいつこうとしてきた。そして、その時々の歯形みたいなものは、この730本もの「独白」上にちゃんと刻まれてあって、読み返せばその時々の心境を昨日のことのように思い出すことができる。こう見えても何とかしようとしてきた。「うまくいかない」日々より「うまくいってる」日々の方が楽しくて、楽だということくらい俺にだってわかっているからだ。

でも、ジリジリジリジリ沈んできてしまった。ズルズルズルズル滑り落ちてきてしまった。この流れで、ここまで落ちてきて呆然としない奴はいないだろう。正直、今は無力感みたいなものと、自己嫌悪と、未来に対して明るい想像が一切できないという不快感でいっぱいだ。





今も、テンションを上げるということはできる。結構簡単に出来る。足元の鉛の玉をえいや!と片手で頭の上まで持ち上げることができて、その瞬間、笑うこともできる。でも今は、それを持続することができない。すぐに力が抜けて鉛の玉を落としてしまう。鉛の玉は地面にめり込んで、俺はその場にふにゃふにゃにへたれこんでしまう。そして、次にまた体力と気力が戻るまでにかなりの時間がかかる。で、ある程度回復すると、ゆっくり立ち上がってまた同じことの繰り返しになることをわかっていながら足元の鉛の玉に手を伸ばしてしまう。

散歩している母と子。「このお兄ちゃん何やってんの?」と子。「見ちゃいけません!」と母。

プロフィール

いっけい

ビートルズ好きの両親の元、ビートルズを子守唄に育ち物心が付く前から音楽に慣れ親しむ。
学生時代からいくつかのバンドを結成し関西を中心にライブに明け暮れる。
現在はソロでの音楽活動に加えイラストも手掛けるマルチアーティストとして活動の幅を広げている。

いっけいの楽曲が聴ける!! MySpaceはこちら

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