潜りで大芸に通っていた14年前。知り合った芸大生たちと毎晩のように芸術論みたいなものを闘わせていたけど、俺は芸大生たちの「理解できないもの=芸術」みたいな考え方に反対だった。確かに受け手のレベルというものはあって、レベルの高い人には理解できても、低い人には理解できない作品ってのはあると思うし、本物を本物だと言える人は本当はほんの一握りしかいないような気はする。要するに「見る目」のあるなしってのは確実にあると思う。でも、誰にも理解できないものが芸術かというとそれは俺はただのゴミだろうと思う。だから俺はいつもビートルズなんかを例に出しつつ「わかりやすいってのも立派に芸術だ」と主張していた。
「爆笑王」と呼ばれた桂枝雀の落語はとてもわかりやすかった。でも、身振り手振りが大きいことから咄家としての評価は低かった。同じく「どうもすいません」で有名な東京の伝説の落語家、林家三平は枝雀同様、「爆笑王」と呼ばれていたが、落語家としては禁じ手とも言える客いじりを多用することからやはり咄家としての評価は低かった。古典を愛する人たちの目には稚拙な芸として映ったんだと思う。でも、「落語は難しくてよくわからない」と言っていた一般人の足を寄席に向けさせた功績というものを考えた場合にはこのご両人というのは本当に凄いと思う。「落語は難しい」と思っていた人たちを「落語ってオモロイやん!」と思わせたのは、ご両人がそもそも芸達者であったのはもちろんのこと、その芸の、噛み砕いたような「わかりやすさ」にあったんじゃないかと思う。
ところで、絵画って難しい。「歴史的名画」と呼ばれるものを観ても、何だかよくわからないというのが正直なところだし、これが抽象画となるとさらに一層わけがわからない。言わずもがな、芸大生はどいつもこいつも抽象画ばかり描いていたけども...。
そこで俺の絵に関して述べさせていただくと、まず、俺の絵は絵ではございません。絵とは呼べません。マンガみたいなものです。ただ、めちゃくちゃ良く言うと、前述の枝雀さんや三平さんの落語のように「絵は難しくてわからない」と思っている人に「あ、これならわかる」と思ってもらえたら、そしてついでに気に入ってもらえたらそれが何よりだと思っています。あの時の芸大生たちに「ただのマンガじゃん」って言われたらそれこそ俺の望むところ。「ゴミよりマシじゃん」って答えるだろうと思います。
芸術とゴミは紙一重。線引きが難しいけど、でも、例えば同じゴミでも、わけのわからない理解不能なゴミよりは、わかりやすい理解できるゴミの方がずっと存在価値があるだろうというのが、俺のものを創る上での信念です。
はい。
わかりやすい信念
トラックバック(0)
トラックバックURL: https://ikkei.me/mt/mt-tb.cgi/824
コメントする