大阪在住のうたうたい&絵描き&詩人 和田一憩(わだいっけい)のブログです。最新情報も随時配信していますので要チェック!!です。 携帯サイトはコチラ

2010年7月アーカイブ

〈写真/文〉阿仁真里

一憩が小学生1年の頃から高校を卒業するまでの間、毎年楽しみにしていた伊丹最北端の公園『桑田公園』での盆踊り。

桑田公園は当時の一憩の家、長屋の真裏にあって、盆踊りの日には一憩は、まだ人の集まっていない夕方からこの公園に来て、水撒きをしているおじさんを眺めてつつ、胸躍らせていた。

昔と全く同じ曲がかかっている。そして驚くべきことに昔よりも盛り上がっている。

当時の一憩みたいな男の子がいっぱいいて、走り回ってます。

楽しいね、一憩さん。明日も来ようね、一憩さん。

思い出せ!一憩さん!

大阪。とある状況下。我が娘が「パパ!」と言って泣いたらしい。





俺がこれを聞いて何とも思わない人間だと思いますか?

えっ?思うんですか!?

死んでください。

学生の頃、何が嫌いって勉強が嫌いだった。特に数学が嫌いで、っていうかたぶん生まれつき数字というものが嫌いで、公式を覚えて、その公式を素直に使って問題を解いたにも関わらず、公式に応用を加えるということが理解できず、しないために不正解の連発で、結果14点みたいなことが多々あって、そんな時、俺は数字にナメられているような気がして、実際に吐いてしまうんじゃないかと思うくらい怒りで頭がいっぱいになった。

今でも数学、及び数字は死ぬほど嫌いだが、勉強は、勉強という言葉の捉え方によっては自分は結構好きなのかもしれないなと最近思うようになった。

要は興味の問題らしい。例えば、今、俺は心理学にハマっているが、思っていたより難解なものじゃないし、文体や専門用語自体が独特に魅力的だし、何より実際の生活に即戦力的に活かせるものだという認識があるから、俺自身の吸収率も相当に良いらしくて、学んだことが頭にすんなり流れ込んできている実感がある。

勉強の対象が、本当に興味のあるものだけに自分の中の吸収率がかなり上がっているらしいことに気付きだすと、今度はそういった知識を容れる自分の頭の中の容器みたいなものにまだまだ空きというか余裕みたいなものがあることを感じるようになってくる。例えば心理学の本を読んでいると、自分の頭の中にワイングラスがあって、これにまだ10分の1に満たないくらいの量しかワインが入っていないイメージが浮かんだりする。で、まだまだ入るし、まだまだ入れておきたいと思うようになってくる。

ある事柄に関しては頭がいっぱいだ。ワインがグラスから溢れて出て悲惨なことになっている。でも、どうやら頭の中のワイングラスは一つじゃないらしい。頭の中には無数のグラスがあって、その中にはきっと一滴もワインの注がれていない乾いたグラスが幾つかあって、これがゆえに生きていてわからないことが多々発生するんだろうけれども、考えようによってはこの空きグラスは後々の楽しみのために大切に保管しておくべきものなのかもしれず、この空きグラスを後々の楽しみのためだと捉える為には、人生のなるべく早い段階で「勉強」というものを自分なりの解釈でいいから好きになる必要があるんだろうな、ということに今、気付いた次第です。

戦さに勝てるかどうかは『地の利・人の和・天の時』という3大原則が満たされているかどうかに因る。というフレーズは三國志を読んでると何度も目にするし、言葉自体に魅力的なリズムと響きがあるので、覚えようとしなくても勝手に覚えてしまう。

『地の利』というのは、戦う場所が自分にとって有利な場所かどうかということで、要するにそこが「自分のフィールド」かどうかということ。

『人の和』は読んで字の如く、戦さに突入するにあたって味方との関係がうまくいってるかどうかということ。

『天の時』というのは要するにタイミングのこと。

『人の和』に関しては全く心配していない。ただ、俺の真逆とも言える相手のペースに引き摺り込まれて、それがそのままタイミングのズレに繋がって、自分が自分でなくなってる所へ突っ込んでこられたらヤバいなと思っている。

とにかく、自分のペースを崩さないように、崩されないように、細心の注意を払わないといけない。

絶対に挑発に乗っちゃいけない。「怒」のプロに対して「怒」のド素人が「怒」で返してたんじゃ勝てるものも勝てない。今まで「そんな威圧感に屈してたまるか!」などと中途半端な男気を出して勝てたことなんて一度たりとも無いことを忘れて、挑発に乗って、城を飛び出したらたちまち落とし穴にはめられるぞ。上から矢が飛んでくるぞ。

こうして籠城策をとっていても、城内にいるにも関わらず落とし穴にはまりそうで全く気が抜けない。というのも連日、城外から矢文が無数に飛んでくる。読みたくはないが読まないわけにもいかず、これを手にとって読む。と、その都度深い自己嫌悪の落とし穴にはまりそうになる。でも、ここは何とか踏ん張って自分のやり方を貫き通さないとな。





「我が君、何卒冷静に。冷静に大きく構えていてください。我が軍は「怒」では絶対に勝てませぬ。しかしながら我が軍には我が軍の戦い方があります。ご安心ください。敵が威圧的だからと言って決して動揺してはなりませぬ。それではまさに敵の思うつぼです。ここは一つ冷静に構えて、敵が自滅するのを待ちましょう。大丈夫です。我が君には私がおります」と、俺の隣で阿仁真里が徐庶(劉備の軍師)を演じている。

「今」をどう捉えれば良いのかということをずっと考えてきた。

俺らしく、だからいつもかなりぎこちなくはあったかもしれないけれど、それでも比較的健康的に笑いながら歩いてこれたように思っていたここまでの人生。そんな中で、突然ストンと落とし穴にハマってしまったかのようなこの奇妙な「今」という時期をどう捉えれば良いのか、どう表現すれば自分自身納得がいくのかということをずっと考えてきた。

昨日、生活雑貨や食料品がおいてある何でも屋的なお店に出掛けたところ、レジの奥の棚、お客の手に届かない場所に、昔、京都の居酒屋で一度だけ飲んだことのある焼酎が売られているのに気付いた。

『晴耕雨読』

いい言葉だなと思った。昔、京都の居酒屋でこの焼酎を頼んだ時の理由もただ単にこの銘柄が気に入ったからで、あの時もこの言葉は当時の自分の気持ちにフィットしたのだが、あれから数年経った今また、この言葉が妙に自分の気持ちにフィットして少し気が楽になった。

要するに雨読だ。ここ数年間、一切雨が降らなかった。ずっと晴耕で、後半に至っては不本意とも言える晴耕の日々だった。でも今はその逆。いつ終わるとも知れない梅雨みたいな感じで雨がしとしとしとしと降り続いている。

だから今は雨読。晴耕の日々には自分の中に何かしら蓄えるということに手が回らなかった。だから今は本を読んだり、考えたりして、自分の中に蓄えられるだけ蓄えるべき時期だ。





孔明は、劉備に三顧の礼をもって迎えられて、乱世に飛び込んで行くまでの間ずっと田舎の草庵に引きこもって読書と構想に耽っていた。だから「伏竜」なんて呼ばれてもいたし、乱世に出てからも孔明は大きな戦争の前には必ずたっぷり時間をかけて、兵士を鍛えたり、農作物の生産力を上げたり、国力の強化を怠らなかった。

ずっと晴耕していることが賢いやり方じゃないし、戦争は戦争以前の地道な蓄えあっての戦争なんだから、俺の人生に関しても、今は今でやるべきことがある大切な時期なんだ。

今まで経験したことのない種類の大きな戦さが始ろうとしている。

俺は絶対に負けない。

負けてたまるか!

負けてたまるか!

負けてたまるか!

負けてたまるか!

負けてたまるか!

不特定多数の人間が寄り集まって、何かしらの流れを成す「全体」となって、それに対して怒りや疑問を抱いた場合には俺は卑下ということをする。でも、対個人的には、俺は卑下ということをほとんどしない人間だ。基本的に分というものをわきまえているつもりだし、基本的には自己評価の低い人間だからだ。だから、そんな俺をして「こいつは馬鹿だ」と心から思わせる人間がいるとすれば、それは、そいつは、たぶん本当に馬鹿だ。

自分なりに必死こいて生きてきた。でももしこの俺の「自分なりに」ってのが気に障るんなら、人間なんて他に腐るほどいるんだから、はなっから他を当たってくれれば良かったまでのこと。そして俺は、悪意に基づいて動いたことはない。数え切れないくらい失敗してきたし、それで数え切れないくらい迷惑をかけてきたと思う。でも、その全てに悪意がなかったということだけは誓って言える。

誰も見ていなくても真相は真相。真実は真実。だから俺の人生、そんなに悪くなるわけがない。

きっと大丈夫だ。

俺は俺。和田一憩。他人にどう思われようが知ったこっちゃない。

読者の皆さんの中に、『ドラクエ』をやったことがあって、クリアしたこともあるという方に是非ともお訊きしたいことがあります。

「逃げる」ということを一切せずにクリアした方はいますか?あと、あのゲームにおいて「逃げる」っていう選択肢はナシですか?いつも卑怯なだけですか?

次に、これは読者の皆さん全員にお訊きしたい。今度は『ドラクエ』のようなゲームについてではなく、皆さんの人生に関してです。

今までの人生、一度も逃げた記憶のない方っておられますか?「無い」もしくは「逃げたこともある」とお答えになった方は本当に素晴らしいと思います。今度是非ご教授願いたい。授業料もしっかり払いますよ。

最後に俺が一番お訊きしたいのは、先の質問に「数え切れないくらい逃げてきた」と答えた方々に対してなんですがよろしいでしょうか。

逃げるたびに例外なく毎度、自己嫌悪に陥りましたか?逃げた後、あなたを待ち受けていたのは例外なく毎度、良くない結果でしたか?他人があなたに「あなたは逃げた」と言ってきた時、それは例外なく毎度、否定できない、首を垂れて認めて当然と思えるものでしたか?

教えてください。

自分は何者かという意識=アイデンティティー。

気付いた。

他人が認めようが認めまいが、俺にはこのアイデンティティーなるものがある。あまりに確固たるものとしてあるので、そのことに苦悩してきたんだ。

気付いたら後は早い。俺はこれに基づいて、これを軸にして、着実に自信を取り戻していくだけだ。自信さえ取り戻せたら、恐怖心なんて5秒で粉砕できるだろう。

少しでも俺の邪魔をするような言葉は今後一切聞き容れない。そして、そんな言葉を吐く人間は俺の物語から削除する。

それにしても一体何だ、この足枷は。忌々しい!

俺はもう俺の軸をぶらさない。ぶれさせない。手段を選ばず死守してやる。冷静に、一歩一歩階段を登っていって、今までで一番イケてる自分を拵えてやる。

大嫌いな人間や、その大嫌いな人間が属する大嫌いな世界にとっての「歩く嫌がらせ」になってやる。

死んでたまるか。糞ったれ!

昔から「自立」という言葉をよく耳にする。「お前らは蝉か!」と言いたくなるくらい人は自立自立自立自立と言っていて、今は夏で蝉がそこら中で鳴いているが、たまに本当に自立自立自立自立と聞こえる。

俺は今までずっと、人の言う「自立」なるものに疑問を抱いてきた。本当の意味をわかって言ってるんだろうかコイツらは。という疑問がずっとあったのだが、心理学の本を何冊も読んでいく中で本当の意味を知って、やっぱりあの人たちは嘘を言ってたんだな、和製英語を本物の英語だと勘違いして喋っているくらい間抜けなことだったんだなという結論に達した。

心理学の本の「自立」の項を開くと、その冒頭には必ずと言って良いほど共通して「現代人は自立の意味を取り違えている」とある。そして、「自立と孤立は違う」という言葉が続いて「現代人の多くは親、兄弟など周りとの関係を遮断、もしくは断絶することを自立だと思っているが、それは自立ではなく孤立で、この誤った解釈が現代人特有の孤独感を生み、この孤独感が今日の様々な犯罪を生み出すに至っている」とある。

じゃ、「自立」の本当の意味は何なのかというと、これに関しては心理学の世界には『二人で一人』というフレーズが昔から基本概念としてあって、『二人で一人』というのは要するに「依存なくして自立なし」ということなのだそうだ。

心理学で言う「依存」という言葉には、「帰依」という言葉があることからもわかるように「帰る場所」という意味合いもあって、帰る場所があって初めて「自立」で、帰る場所のない「自立」は「自立」ではなく「孤立」だということだ。

世の中には自立自立と声高に言いながら、親や兄弟との関係がガタガタになってしまっている人がいる。そして、そんな人に限ってまるで自分自身を正当化するかのようにまたぞろ「自立」ということばを繰り返し繰り返し誇らしげに口走っている。それはただの悪循環じゃないのか?俺としても「自立できている=大人」という考え方に異論はない。その通りだと思う。思うが、親や兄弟と良い関係を築けない人間が大人だと言えるのかどうか大いに疑問だし、親や兄弟とさえ良い関係を築けない人間が果たして親や兄弟以外の人たちと良い関係を築けるのかということも大いに疑問だ。





今までずっと、この「自立」という言葉を、本当の意味も知らぬまま蝉の如くに繰り返し繰り返し説教調に言う人たちに囲まれて、言うに言えぬ怒りにも似た疑問や違和感を抱き続けてきた人たちに捧ぐ。

今、俺には恐怖の対象が二つある。

一つは「個」で、もう一つは「全体」で、これが絡みあって大きな恐怖心になっている。

でも今朝、ある人からのメールを読んで、嬉しいことに「全体」に対する恐怖心にこそ変わりはないが、「個」に対する恐怖心が確実に和らいだのを感じた。

俺が恐れてきた「個」というのは言い換えれば強烈な「怒」なのだが、ほぼ毎日、心理学系の本を買ってきては読んだり、無心になって絵を描いたり、友人たちに会って夜遅くまで話をしたり、昼夜を問わずあれやこれやと熟考しているうちに、この「怒」が実は実に奥行きのないペラッペラなものに思えてきたのである。





ところで、俺は昔から『三國志』が大好きで、漫画や小説や分析書など、三國志に関する本を数多く読んできたのだが、これが、ことあるごとに自分が生きる上での参考、もっと言えば武器になってきた。そしてそれは今回「怒」に対して考える際にも例外ではなかった。

三國志には有名な「赤壁の戦い」以外にも数え切れないくらい戦さの場面が登場するが、戦さには勝利の方程式(いわゆる「兵法」)的なものがあって、この中には現代人の「戦さ」にも役立つものが多々ある。

で、「怒」についてである。三國志を熟読された方ならよくご存知だと思うのだが、重要な戦さの時に絶対に大軍を任せてはいけない人物像というのがあって、これがまさに「怒」の感情に流されやすい人物。頭に血がのぼりやすい短気な性格の持ち主なのである。

三國志を読んでいると本当に実感する。戦さにおいて真に強いのは、いかなる局面においても冷静さを失わない人物だ。誰の目にも多勢に無勢、劣勢で、さらに敵の総大将が世に名高い豪傑であっても、その総大将が「怒」の感情に流されやすい短気な気質の持ち主である場合には、ほぼ100%の確率で、戦う前にすでに勝負はついている。

「怒」は絶対に勝てない。

数で敵を圧倒している分、自信過剰で怠慢になり、無策にただただ数で押す。威圧する。が、いっこうに勝てない。これが続いて、ただでさえ短気なのにさらにイライラし始める。イライラして来る日も来る日も数で押す。威圧し続ける。が、やはりいっこうに勝てない。

この時、対陣している冷静な人物は敵からの威圧感を完無視。自らの心の軸をぶらせることなく、左羽扇に戦局を分析して、頭の中にはすでに自軍が劣勢だという意識すら無く、とりあえず勝つのは当然だとして、思考は「いかに勝つか」という「勝つ」ということの次の段階にまで移行していて、こんな場合、この冷静な人物が特に有能な人物(歴史的大軍師・諸葛孔明の名を出すまでもなく)であれば、選択する戦術はほぼ間違いなく「自滅させる」である。自滅させることができれば、自軍の消耗も最低限に抑えられる。で、入念に策を練る。敵の総大将の気質を最大限利用した形の策を練る。かくして、「怒」は自滅する。





というわけで、見方によっては「怒」はびっくりするくらい恐るるに足りないものなんじゃないか?と思う。というのは現に歴史が証明しているし、俺の個人的な考えとしては、「怒」という感情はある種「毒」なんじゃないかと思う。だからその都度その都度吐き出さなきゃならないんじゃないか、と。そして、中には吐き出しても吐き出しても吐き出し切れないくらい絶えず毒を生産してしまう体質の人がいて、そんな人はやはり、その体質が災いして自滅するしかないんじゃないかと思う。だからもし、そんな人物と対峙、対決しなければならない場合には「待つ」ということが何より有効な戦術になるんじゃないかと思うのです。





〈追記〉じゃ、本当に怖いものって何だろう?と考えた場合にはこれは「優しさ」だと思う。名曲『神田川』の中の「ただあなたの優しさが怖かった」という一節が、いつの時代にも聴く人の胸に響くというのは、人が基本的に、それがたとえ無意識下であっても、そこんとこをちゃんと知っているからだと思う。本当に怖いのは優しさだ。

・小悪魔SG ★★★★★

・コスモス ★☆

・エキゾチック ロマンス ★★★★

・金魚姫 ★★★☆

・日常の天使 ★★★★★

絶望的な出来事があった日の夜。耐え難く人恋しくて、居ても立ってもいられなくて、とりあえず家を出て、用もないのに近所のコンビニへ出掛けた。

到着。店内に入ると店員に来客を告げる間抜けな音が鳴り響き、女性店員がどこからともなく実に快活な声で「いらっしゃいませ!」と言った。

店内を見渡すと永遠に出世しそうにない、見るからにみすぼらしい男性客が二人だけいて、自分の中で余計に虚しさが増すのを感じた。

道路に面した窓際の通路では、500円以下で購入しておきながら500円以下の品物には酷としか言いようのない使用頻度の高さゆえにかくもボロボロになってしまったんだろうと推測される哀れなリュックサックを背負った20代半ばらしき野郎が熱心にエロ本を立ち読みしており、そこから首を右に半転させ、視線を弁当の並んでいるコーナーに移すとそこにはもう一人の客、40代前半くらいのニッカポッカを履いた野郎が左手にやはりエロ本の入った青いカゴをぶら下げて、助六弁当を買うか、ちょっと奮発して牛カルビ弁当を買うかを交互に繰り返し手に取りながら、あからさまに悩んでいた。

虚無的空間。

俺は呆然と、雑誌が並んでいる窓際をリュックサックをチラ見しながら突き当たりまで歩き、突き当たりを右折、ジュース類が並んでいるコーナーを数歩通過してから「酒類」と書かれた札がぶら下がっている所で立ち止まり、特に呑みたいわけではないが自らの習慣、習性には逆らえずビールを2本手に取ると、さらに数歩直進して酒の肴などが並んでいる突き当たりを右折、弁当コーナーとパンコーナーに挟まれた通路をニッカポッカの後ろを通ってレジへと向かった。

レジに先程の快活な声の主たる女性店員の姿はなく、俺はレジ奥の煙草が並んでいる棚に「わかば」があるのを確認してから、女性店員が潜んでいるであろうレジ内左手奥の控え室らしき部屋に向かって小さな声で「すいませ〜ん」と言ったが、返事がないのでもう一度、今度はもう少し大きな声で「すいませ〜ん!」と言うと、店の外、入口周辺で掃き掃除をしていたらしき女性店員が各種掃除道具で両手塞がりなため、背中でドアを押し開けながら「あ、お客さん、すいません!」と言って店内に入ってきてそそくさとレジの方へ向かい、俺がレジ横に置いた2本のビールを手に取り、バーコードをピッピし始めた。

この時、俺はポケットの中からジャリ銭を取り出すのに苦心しており、やっとの思いで取り出すと今度はジャリ銭の数を数え、心の中で「よし、ギリギリ買える」と呟くと、うつ向いたまま「あ、あと35番の煙草をひとつください」と言った。

女性店員は「35番ですね」と言って数秒後、バーコードをピッとやって「はい、合計で584円になります」と言った。俺は600円を払い、女性店員から釣り銭16円と商品の入ったビニール袋を受け取ると、軽く魔が差したかのような、実に幼稚なイタズラ心が芽生えて、女性店員が「ありがとうございました」と言う前に「ありがとう」を言ってこましてやろうと、この時初めて顎をあげて「ありがとう」と言おうと思ったら、目の前に立っている女性店員がめちゃくちゃ綺麗な人で、後光らしきものさえ見えた気がして、一瞬意識がとんで、「ありが...」とまで言って完全にフリーズしてしまい、「とう」が言えなかったので、女性店員は俺の「ありが」のあとに言葉を付け足す形で「とうございました」と言ってニコッと笑った。

店を出ると、一度だけさりげなく振り返って、ビニール袋からビールを1本取りだしてから、軽快な足取りで家路についた。





という空想から生まれた絵。

納得の出来です。

昔から「善良な市民」という言葉にゾッとする。

世の中には決して悪人ではないし、いわゆる「犯罪」こそ犯さないけれども、暖かい想像力や冷静な判断力みたいなものが絶望的に欠如していて、外からの情報を鵜呑みにして、それを感情に直結させてしまう人間というのが大勢いる。

もし、こういう人たちが人を裁く立場に立ったら、ロクなことにならないのは目に見えている。だから、例えば俺は個人的には裁判員制度というものに反対だったりする。

情報を受け取ってから結論を出すに至るまでの間に、いくつかの筋書きを自分なりに推測したり、仮定したりすることのできない人間が、情報に対して一切疑いを持たず鵜呑みにして、感情的に結論を出して、人を裁いたらどうなるのか。

俺が言いたいのは別に裁判員制度という社会的なテーマについてではなくて、もっともっと身近なことについて。人間、生きていれば日常的に人を裁いたり人から裁かれたりしているわけで、それはもちろん俺やアナタも例外じゃないわけで...想像力のない人間は有害だとさえ思う。感情に走って結論付けてしまった後の人間にいかに切実丁寧に、慎重に言葉を選んで事情を説明したところで手遅れ。「見苦しい言い訳は止しなさい」などと一喝されて終わりだろう。彼にはもはや「説明」と「言い訳」の区別さえつかないんだから。だから俺は、そんな人種には出来る限り近付きたくない、関わりを持ちたくない。

本当に怖いのです。

社会的に「大人」と呼ばれる年齢になったからと言って、旧友たちと接する時に社会的なルールにのっとった「大人な」付き合い方なんて絶対にしたくない。そんなのは悲しい。本当に悲しいことだと思う。

知り合った時の無邪気な心の持ち様や関わり方を捨てて、「大人な」付き合い方に大きくシフトチェンジして、何だかものすごく水臭いことになっている人たちがいる。そのうち敬語で喋りだすんじゃねえか?みたいな勢いで水臭い関わり方をしている人たちがいる。知り合った時は絶対にそうじゃなかったはずなのに。

お互いがお互いの今よりずっと若かった頃の姿を知っている。お互いの目にお互いの今よりずっと若かった頃の姿が焼き付いている。お互いの目の奥にお互いが今よりずっと若かった頃の姿が生きている。そんな目を見ながら、今よりずっと若かった頃の自分自身を見つめ合いながら語り合う時に、仮面的なものは要らないだろう。仮面みたいなそもそも不自然なものに、さらに不自然な意味合いを添えて、お互いの眼前に晒し合うような真似をしてどうするんだと思う。

「親しき仲にも礼儀あり」というが、「礼儀」という言葉の意味を取り違えている自称「大人」のいかに多いことか。

「俺(私)とおる時は仮面外して、昔の自分に戻ったらええねんで」「ほなそうさせてもらうわ。アンタもそうしてや」「もちろんそうさせてもらうよ」「オッケー」という暗黙の会話が毎度、顔を合わせた瞬間、関わり合いの冒頭、1ページ目に来るような関わり方を旧友とは続けていきたい。ま、この関わり方を「大人な」関わり方を好む自称「大人」の方々は説教口調、冷ややかな目で馬鹿にするんだろうけど、そんなのは知ったこっちゃない。生きる世界が違う。だから自称「大人」の方々は俺や俺の旧友たちの知らない所で、大人らしい細やかな気遣いと広く浅いプライドを顔面に隙間なくカパッとはめて生きて、寿命が来たら大人しく勝手に死んでくれりゃいいと思う。

一昨日の夜、俺の絵『受容』を欲しいと言ってくれた友人の家で夕食をご馳走になった。俺は夕食をご馳走してもらうお礼として絵を譲ることにし、彼の家を訪れた。

彼には4歳になる息子がいるのだが、俺が家に招き入れられ、席に着くやいなや、俺の曲が収録されているMDを持ってきてかけてくれた。心から照れた。そして心から嬉しかったし、何より彼のその行動に腰を抜かすほど驚かされた。「バンドマンロック」、「カナリア」など、俺自身長いこと聴いていない自分の曲、声が夕暮れ時の友人の家に鳴り響いて、俺はしみじみそれを聴いた。大昔の友人にばったり会ったような感覚だった。台所では友人の美しい奥さんが夕食の準備をしてくれていた。

俺は気分が高揚して、まるで自分自身が自分の手から離れたように、堰を切ったように、機関銃のように喋りまくった。

そして、夜も更け宴もたけなわといった感じになった頃、友人が一瞬姿を消した。俺はトイレにでも行ったんだろうと思っていた。

数分後、「いっけさん、これ要る?」と友人の声がして、彼の方を見ると、彼がギターを持って立っていた。「え!?」俺は一瞬自分の耳を疑ったが、彼は「絵のお礼に」と言って、俺にそのギターをくれた。

久しぶりにギターを触った。俺の好きな、ペグが左右に分かれて付いているタイプの、「By Takamine」と書いてある、薄型ボディのエレアコ。気が狂うんじゃないかというくらい嬉しくて、俺は彼と彼の家族への心からの感謝の印としてリクエストに応える形で、「バンドマン・ロック」を演奏した。皆さん、本当に嬉しそうに聴いてくれて、俺は久しぶりに足の先から頭のてっぺんまで、喜びと、今や懐かしくさえある自信らしきものの暖かさでいっぱいになった。

さらに夜は更けて、友人宅での楽しい宴が終わると、友人はギターをチャリンコの荷台に載せ、俺を家まで送ってくれた。帰宅すると、俺は友人を自分の部屋に招き入れた。友人は朝方まで、俺の自作の絵に関する長い長い話に付き合ってくれ、午前3時頃「じゃ、帰るわ」と言って笑顔で帰っていった。

なんちゅう奴やと思った。凄い奴やと思った。俺にはもったいない人間だと思った。彼とは中学の時に知り合って以来の友人だが、彼を俺の人生に引き合わせてくれた神様に心から感謝した。





「日々これ奇跡の連続である」最近疑い始めていた、俺の昔からの信念が息を吹きかえすのを自分の中に感じて、泣けてくる。

ありがとう。

日常生活に欠かせないもの。例えば水道であったり、電気であったり、ガスであったりを「ライフライン」と呼びますね。だから、大規模な天災が起こった際には、TVニュースや新聞等で「一刻も早いライフラインの復旧が望まれる」というフレーズが繰り返し声高に叫ばれ、飛び交うわけです。

ところで俺は昔から、そして今でも、俺が音楽をやったり、絵を描いたり、文章を書いたりすることを「趣味」って言われることに言葉にならない苛立ちを感じる。腹の底からムカッとくる。かといって「ライフワーク」っていう言われ方にも全然納得がいかない。「とりあえず横文字にしとけば大人しくするだろうこの馬鹿野郎は」という魂胆が見えて気に食わない。黄色人種をナメるな。だいたい「趣味」が英語で「ホビー」なのは知っているが、「ライフワーク」はこの「ホビー」を気持ち神妙にしただけの、いわば中身は同じ物だがちょっといい感じの包装紙で包んでみました的なニュアンスを感じるし、俺の耳には実際の所(本物の英語なのかどうか)を抜きにして、安物の和製英語にしか聞こえないから生理的に受け付けない。

もちろん、俺はプロじゃない。音楽や絵や文章で食ってるわけじゃない。でも、プライドだけはプロ並みだ。なぜなら、音楽や絵や文章は俺の生命線であって、俺の人格、人生にとって唯一の、本当に唯一のプライドらしいプライドだからだ。「ライフワーク」だなんて冗談じゃない。介護職専門派遣会社の名前じゃないんだから。

弊社、『(株)ライフワークビジネスサービス』では登録社員を募集しております。施設入職後、3ヶ月勤務していただいた方には祝い金3万円支給...って要らねえよ。

それにひきかえ「ライフライン」っていいね。これはしっくりくる。生きる為に必要不可欠なもの―ライフライン。いい。横文字だけどいい。やっぱりほら、英語万歳!みたいなとこあるやんかあ、俺ら黄色人種。あと、ひょっとしたら和製英語かもしれないね。でもいっこうに構わない。もし万が一、和製英語ならこの言葉を考えた人のセンスに脱帽だね。くるりんぱ。

弊社、『(株)ライフラインビジネスサービス』では登録社員を募集しております。施設入職後、3ヶ月勤務していただいた方には祝い金3万円支給...ってこのご時世に祝い金を出そうという姿勢だけでも信用に値するよ。伸びるね。この会社は伸びるね、確実に。

です。

インドや中国の建築様式をミックスした無闇にきらびやかで広大な料亭。「ジョンローンぐらいしか来んやろ。こんなとこ」と心ひそかに思っている俺の目の前に絶え間なく運ばれてくる宮廷料理らしき料理。何からどうやって食やいいんだかさっぱりわからない。そんな得体の知れない料理が所狭しと並ぶ巨大な円卓のぐるりには、俺以外にも奇妙な格好をした人間が数名いるが、俺はこの人たちのことを全く知らない。誰一人知らない。って言うか、できれば素性を知らずに済ませたい気色の悪い面々。俺はなぜ自分がここにいるのかさっぱりわからない。状況が全く飲み込めないので、代わりに「酒池肉林」と躊躇なくプリントされたラベルが貼ってあるただ甘いだけの、しかしながらアルコール度と価格だけは高そうな酒をらっぱ飲み、ガブガブ呑んでいると、あっという間に酒がまわって、店を彩る装飾品の赤色や金色に目が回り始める。と、そこへ突然銅鑼の爆音が一発鳴り響いて、宮廷音楽ってたぶんこんな感じなんだろうなという感じの妖艶な音楽が演奏している人間がどこにいるんだかさっぱりわからない状態で流れ始めて、円卓を囲む面々が待ってましたとばかりに奇声をあげて拍手をしだした。「な、な、何が始まるんや?」と思っていると、円卓から5メートルくらい離れた所に2つの小さな滝に挟まれたやはり赤色と金色を基調にした大きな舞台があり、そこへ、複数の踊り子が現れて踊り始めた。目が回る。「酒池肉林」でふにゃふにゃになっている俺の頭の中では、赤色と金色と宮廷音楽の音色と同席の気色の悪い面々の奇声と拍手が一つの巨大な渦と化して竜の如くに意思を持ち、暴れまわり始めている。と、その時!舞台の上、踊り子の一人と目が合って、一瞬で恋に落ちてしまった。





その踊り子。

一番夢のある想像、物語はSGとコスモスが大親友だという設定だと思う。

SGはいかに妖艶であろうが、男(時には女をも)を自由自在に翻弄できようが、基本的にはただの売れないバンドマンであるから、その日のライブの出来によっては大いにヘコむこともある。周りが「良かったです!」と誉め称えたところで、本人が駄目だったと思えばそれは駄目で、周りの安易な称賛は彼女の傷口を広げるばかり。そんな時に、夜、彼女がギターを抱えてアポ無しで訪れるのが、大学生が多く住んでいそうな白いマンションの4階の一室、コスモスの家だったりして、インターホンを押すと、SGの心境を察したようにコスモスが笑顔で出てきて「よっ!」と言う。SGは覇気なく「よっ..」と答える。SGはギターを玄関脇に置いて、狭いながら綺麗に整頓されてある部屋の中央に置いてある白い丸テーブルの所で腰を降ろし、テーブルの上に丸眼鏡を置いて深くため息をつく。そこへコスモスが冷蔵庫からキンキンに冷えたサッポロ黒ラベルを2本持ってきてテーブルの上に置き、何も言わずにSGの背中をポンと叩く。「かんぱ〜い!」とコスモス。「乾杯..」とSG。

ちょっとした沈黙の後、SGが呟く。「今日は、全然、アカンかったわ..」コスモスは「ま、そんな日もあるって」と言ってから「今夜は大いに飲みませう!」とSGにビールをすすめる。グビグビグビっとSG。

時は経ち、テーブル上には空き缶が散乱。午前0時を回った頃には、二人とも顔を真っ赤にして笑顔で、いつのまにやら会話の内容が昨夜のライブの話からお互いの恋愛観に関する話に移行しており、こうなると今度は立場が一転して、コスモスがあれやこれやとSGに対して敬意をもって相談を投げ掛けており、SGはあぐらをかいて的確に「それはね」と、それぞれの問いに答え続けている。

翌日、二人とも休み。仕事、休み。コスモスは元々休みだったが、SGは職場に連絡を入れて「熱が出まして..」と仮病。15時くらいまで向かい酒などたしなみつつのんびり過ごし、化粧などを済ませ、女として万全の準備を整えてから快活に街に買い物に出掛ける。と、それぞれのファッション、化粧具合、身長差、オーラから、周りの目にはどう見てもSGが姉貴分でコスモスが妹分的な存在に見える。実際、買い物中もコスモスが「これどう?」とSGに尋ねるシーンが多々見られる。でも、コスモスがどう考えているかは別として、SGはよくわかっている。コスモスは自分にとってかけがえのない大親友で、コスモスの前でだけは自分は仮面を外せて、もっと言えば、コスモスは自分にとって母親的な存在でもあるんだということを。

まだまだ明るい夏の夕方、二人は買い物袋を下げて、ソフトクリームを食べながら帰途に着く。二人の影が二人の後ろに長〜く伸びており、その上を老人施設のバスがゆく。

昨日描いた2枚の絵をぼ〜っと眺めている。

24時間以内に描いたこの2枚の絵の降り幅の広さって一体何なんだろう。『小悪魔SG』の女は邪悪だが妖艶な感じで攻撃的な性格が伺える。一方『コスモス』の女の子は素直で健康的、温和な性格が伺える。この正反対のものが24時間以内、外からの影響を一切受けない環境の下で自分の中から出てきたというのが考えてみれば面白い。

もし、どちらになりたいか?と問われればそれはもちろんこれを描く際のテーマがテーマだったように『小悪魔SG』の女(ちなみにこの女は俺の想像上では、普段は、青レンズの丸眼鏡をかけている)なのだが、じゃ付き合うとしたらどっちが良い?と問われた場合には「『コスモス』の方」と迷いなく答え...られる男になりたい。

ほぼ毎晩のことながら、眠たいけれど寝たくないので、コーヒーをガブガブ飲み、煙草をバカバカ吸い、おぎやはぎの深夜放送を聴きながら、テーマ的なものを一切決めずに漠然と絵を描いていたら、自分が33歳の男であることが恥ずかしくなるくらい可愛らしいのが出てきて我が目を疑った。

俺の絵を欲しいと言ってくれる人が現れた。『受容』を欲しいと名乗り出てくれたのだ。

名乗り出てくれた人物が人物なだけに、そして、俺としても抜群のナイスチョイスだと思ったので、喜んで讓ることにした(交渉は後日)のだが、いざ『受容』を譲り渡すとなると、今、『受容』が貼ってある壁の一部が余白になってしまうので、そこに貼る新作を新たに描こうという意欲が湧いてきて、猛烈な勢いで描き上げた。

この絵はあらかじめ楽しいテーマを決めておいて、そのテーマに沿って描いた。

俺は昔から「もし生まれ変われるとしたら何になりたい?」との問いに動物とか虫とかではなく「人間の女」と答えてきたのだが、じゃあ、実際に人間の女に生まれ変わるとしたら具体的にどんな女に生まれ変わりたいのか?ということを考えて、頭に浮かんだその女の顔を絵にしてみた。

俺はもし人間の女に生まれ変われるんならこんな女になりたい。そして、一方では自由自在に男どもを翻弄する悪女として名を馳せながら、もう一方では刺激的な音を鳴らすロックバンドで、世の中を舐めたような顔をしてセクシーに赤いSGを掻き鳴らしたい。

最後にもう一度、絵をよく見ていただきたい。こういう女に男は非常に弱い。よな?男性諸君。

煙草屋さんで煙草を買う時、笑顔で「ありがとう」って言えます。

だから僕は、少なくとも、悪人ではないと思っています。

他人の顔色を窺いながら生きてきた。

ことなかれ主義と言われればそれまでだが、極力、自分と他人、他人と他人が衝突しないようにしないように動いてきた。

酒以上に自分の言葉を飲んできた。

本当は自分のせいだと思っていなくても、自分のせいだと言うことで、他人の眉間から皺が消えるのならそれはそれで良いと自分自身に言い聞かせて生きてきた。

他人の「怒」を極度に恐れて生きてきた。

常時ビクビク怯えて、緊張していたから、たまに自分の中で何かが切れて、めちゃくちゃなことをしたくなった。

その結果が「死ね」だった。

体に、頭に、長い時間をかけて蓄積してきた毒を、蓄積に要した時間より遥かに短い時間の中で洗い流さなきゃいけない。

もし自分自身を大いに奮い起たせることができるようになって、「次」を想うことができるようになったとしても、その後真っ先に触れなければいけないのがこれまでの人生で経験したことのない巨大な喪失だということは間違いないし、不可避なだけに、恐怖心と無駄な思考が頭を占拠して、今、何をどう考えて、何に何をどう備えておくべきなのかということがさっぱりわからない。





昔『思えば遠くへ来たもんだ』っていう歌があったけど、俺の場合は「来た」の前に「流れて」がいるな。何しろ今現在、ここに至るまでの道程の一体どこに自分の意思があったんだかまるで思い出せないんだから。

この立ち位置は一体何なんだろう...。

これで700本目だ。

7枚目のアルバムタイトルは『インナーチャイルド』。今作のタイトルはこれ以外に無いだろう。

残念ながら、やはり今回も音楽ではなかったけれども、絵が音楽にとってかわる形で、今までで一番創造的なアルバム、100話になったと思う。

このブログがいずれ、俺の音楽活動にまつわる話題で満たされる日が訪れることを切に祈っているが、実際には、現実的には本当に本当に難しい。

音楽と俺の間の距離がいっこうに縮まらない。周りの人たちがどう思おうが、俺は今までずっと縮めようとしてきたし、縮めようとしているが縮まらない。そんな遠距離恋愛。

片想い。でも恋は恋。遠回りであろうが何であろうがそのうち必ずものにして見せるよ。

あれも好き、これも好き。あれも大事、これも大事。でも音楽以上に好きなもの、大事なものは無い。





以上、700本到達に寄せて。

「人間は考える葦である」などと訳の分からないことを言ったのはトルストイだったと思うのだが、この「人間は〇〇である」っていうフレーズ。このフレーズの俺バージョンを、介護の仕事をしていた時、休憩時間に施設横のベンチに腰かけて公園を眺めながらよく考えていた。

「人間は歩く混沌である」というのが浮かんだ瞬間、もうこれしかないだろうと思えた。「考える葦」って言われてもなんだかよくわからないが、「歩く混沌」なら実にわかりやすい。

人間の中にはありとあらゆる要素がぐっちゃぐちゃに混ざりあったものがある。これがもう本当にぐっちゃぐちゃで、絶えず変化を繰り返している。どんな要素がどんな具合に混ざりあっているのかは人それぞれだし、自分の中にどんな要素がどんな具合に混ざりあっているのかをどんな風に把握したつもりになるのかも人それぞれだし、それが正しいのか間違いなのかということはたぶん一生わからない。ただ、自分の中のそんなこんなをある程度把握したつもりにならないと、自分という人間の輪郭が自分自身見えてこないし、この輪郭が見えてこないと、見えたつもりにならないと、自分が生きるということに対して方向付けができない。

「つもり」が積もり積もって人間。思い込みの塊が人間。実際のところは定かじゃない。自分は実際はどんな人間なのか。死ぬまで定かじゃない。

だからこれは別に悪い意味じゃなくて、死ぬまで自分で自分のことがわからないのが人間で、でも、少しでも多くわかろうわかろうとする健気な姿勢が人生だと思っている。

ところで、他人に対して少しの躊躇もなく「それは違う」みたいなことを言い切る人がいるが、俺はそのもの言いが違うと思う。自分で自分のことがわからないわかっているつもりの人間が、自分で自分のことがわからないわかっているつもりの人間に対して自信満々に「それは違う」などと言って、自分と他人の違いを認めようとしないのは物凄く傲慢なことで、その姿というのは物凄く滑稽で間抜けだと思う。

アンタに俺の何がわかるのか。俺にもわからない俺という人間の何がわかるというのか。もし俺以上に俺のことをわかるというのなら頼む、代わってくれ。俺を生きてくれ。俺を上手く生きて見せてくれ。と、いつも思う。もちろん、声には出さへんけどね。

日本人ってのは本当に「自己犠牲」ってのが好きだな。ストレートに「自分がやりたかったからやりました」って言やあ潔くて立派なのに、行動や言動のどっかに必ず自己犠牲的なニュアンスをくっつけて、「これ、絶対に忘れないでくださいね。あと、お返し。楽しみにしております」みたいなことを目で訴えてきよりますな。困ったもんだ。

本来は凄いことだと思う。清い自己犠牲はそれこそ「崇高」とも呼べるくらいのもんだと思う。でも、コンビニに並んでいる感じ、庶民にも手が届く感じのお手軽で使い捨て可能な自己犠牲は崇高の真逆をゆく愚の骨頂だと思う。

恩着せがましい。見返りを求める。何か不都合なことが起こるとすぐに人のせいにする。最終的な局面において絶対に負けず、同時に相手を負かすことのできる強力な「陣形」としての自己犠牲。

口論になった際には印籠としての効果をも発揮する自己犠牲。常に胸ポケットに入れて持ち歩いている。使い方は簡単。ここぞというタイミングで胸ポケットから火のつく勢いで素早く取り出して、相手の顔にブチ当たる勢いで見せ付けて、一言「おわかり?」と涼しい声で言い、どや顔をすれば完了。かくして全戦全勝...の、つもり。最低でしょう。

でも、ま、便利は便利なんだろう。よっぽど便利なんだろう。安価な割りにはめちゃくちゃ便利なんだろう。だからこんなにも普及したんだろうし、もう十分普及しているにも関わらず、そんな社会情勢や需要と供給の仕組みなんかを一切無視してまでも、さらに人に奨めたくなるんだろう。「こんな便利な物を独り占めしてたんじゃバチが当たるんじゃないかしら」とかなんとか、商店街でネギの突き刺さった買い物かごをぶら下げながらふと立ち止まって呟いて、「善は急げ。だって私は伝道師」などと訳の分からない気違い染みた言葉をまたぞろ呟いて、面識のない、全然知らない人の家の前に立ち止まりインターホンをピンポーンと鳴らして「あのね、これね、めちゃくちゃ便利なんでござあすよ」なんて宣伝して廻るんだろう。間抜けにも程がある。宗教の勧誘か。そんなくだらないものを人に奨めるんじゃねえよ。だいたいアンタは何なんだ?誰なんだ?俺はアンタを知らない。人の昼寝の邪魔をするな。無闇やたらに人の家のインターホン鳴らすんじゃねえよ馬鹿野郎。言っとくけどさ、アンタさ、そういうのを「強要」っていうんだよ。俺はそんなくだらないものいらねえよ。さっきから何度も言ってるだろう。お、れ、は、い、り、ま、せ、ん。

お引き取りください。

〈image―1〉

元々、自分は社会的能力に乏しいことを痛いほど自覚しながら生きてきた。そこへもってきて先日、病院でテストの結果として言われたのが「集中力、決断力、記憶力の低下。いわゆる『社会的レベル』が低下しています」だった。元々無いものがさらに無いというのは、本来であれば砂や土を積み上げて山を拵えるべき地面に、スコップやつるはしでもって逆に掘り下げていってるようなものだ。で、掘り下げてたら突然カキン!と音がして、ここ数年来封印してきた創造力みたいなものがものすごい勢いで湧き出してきた。という映像。

〈image―2〉

金魚すくいの時に使うアミ。あの紙で口を覆った壺が自分の中に無数にある。壺の中に何を封印してあるのかというと、今まで押し殺してきた感情だったり、決して思い出してはいけない記憶だったりして、もし今、多量に酒を呑んだら、酒の流れ込む角度によってはこの壺が密集して保管してある部屋に酒が降り注いで、各壺の封印がいとも容易く解けて、溶けて、俺自身手がつけられなくて、立ち往生するのみ。といった映像。







〈image―1/考察〉

あくまでもポジティブなシンキングありきの映像。そしてもし、この映像にタイトルを付けるとすれば『不幸中の幸い』ということになるだろうか。自信が無過ぎるということが、皮肉にも自分を掘り下げるという行為に繋がって、自分を掘り下げてたら、今度は逆に自分が自信を取り戻す為に必要不可欠なものが凄まじい勢いで湧き出てきたといった感じ。

〈image―2/考察〉

本当はここであえて一度、荒治療だと腹をくくって、全ての壺の封印を溶かしてしまった方が良いんじゃないかとも思う。そう言ってくれる友人もいる。ただ、実際にこれを行動に移した場合にどうなるのかを想像すると、周りの人たちに多大なる迷惑をかけてしまうことは目に見えてるし、自分自身、その後に津波の如くに押し寄せてくるであろう自己嫌悪に耐えられるかどうかも疑問だしで、どうしても行動に移せない。でも、だからと言ってこの壺の中のものをこれから先も今まで通りだらだらと発酵させ続けたところで、数年後に中身のものを瓶詰めして、その瓶に「〇〇年物」などと記されたラベルを貼って、高値で売りに出せるわけでもないし、俺はこの壺、壺、壺を今、そして今後、どう取り扱えば良いのかさっぱりわからないというのが本音だ。

・page―1 ★★★☆

・心のゴキブリ ★★

・Family〜雨の日も無邪気に ★★★

・女性師 ★★★★

・ジャンヌダルク1号 ★★★★☆

33年6ヶ月と19日生きてきた。

今、このタイミングで絵を描きまくっているということが、今の俺の精神的なものがどうのこうのといった目先の話じゃなくて、俺の人生全体の流れの中で何らかの意味があるのかどうかを知りたい。

『聖地』に帰ってきてからというもの、気が付いたら描いていて、気が付いたら出来上がっているといった感じをずっと繰り返している。

これは一体なんなんだろう?この絵たちは一体なんなんだろう?





なんでもいい。贅沢は一切言わないから、俺のこれから先の人生に対して今やっていることが、そしてそこから生まれたものが、何らかの意味なり力なりを持ってくれることを心から祈る。

アイデアがじゃんじゃんじゃんじゃん湧き出てくる。

止まらない。

止める気もない。

さすがに2枚連続で描くと、やっぱり描きながら色んなことを考えてるんだろう(ほとんど自覚はない)、頭の中が空っぽになる。だから楽しいことを考えるならまさに今、このタイミングだ。どうせまたすぐに頭の中いっぱいいっぱいになるんだから。

で、ここぞとばかり何か楽しいことを考えようと思ってたら、そういえば最近『BEST10』をやってなかったことに気付いて、じゃ今回は何について考えようかなと思ったら、つい最近話題にもしたことだし、そういえば今まで発表したこともなかったし、自分でも興味あるし、最新版『俺の好きな女性芸能人BEST10』を熟考、発表することにした。

読者の皆さんにどう思われるのか。やはり「趣味悪っ!」みたいなことを思われるのだろうか...的なことは一切考えず、素直に、しかしながら慎重に、好きな人を好きな順に。

「自分やったらどうなるやろ」みたいなことを考えつつご覧ください。では発表します。





1位 松坂慶子

2位 川瀬智子(ブリリアント・グリーン)

3位 矢口真里

4位 内田恭子

5位 中川翔子

6位 メグライアン

7位 安藤美姫

8位 麻木久仁子

9位 はしのえみ

10位 葉山エレーヌ





《私的総評》1位、2位はここ数年来不動。4位の内田恭子と6位のメグライアンも、順位に変動はあれど常連。今回特筆すべきはやはり矢口真里、中川翔子といった「女の人」というよりは「女の子」としての魅力溢れる2人の躍進。7位の安藤美姫はリンク上の彼女を見て綺麗だと思わない男はいないに決まっているし、10位の葉山エレーヌは普段はあまり意識していないが、たまにTVで目にする度にドキドキさせてくれるダークホース。8位の麻木久仁子は年齢的には女王・松坂慶子に次ぐ年齢でありながら、丸顔で可愛らしくいつもイキイキしているところへもってきて知的で品があってスタイルが良くて素晴らしい。そして、9位のはしのえみは実はもうちょっと上位でも良いんじゃないか?と思うくらい、昔から好きな人。好きな顔。あの顔はどう見ても可愛いだろう。欽ちゃんファミリーであるということがそんなにマイナス要素なのか?それとも彼女の芸能界におけるよくわからないポジションがマイナス要素なのか?とにかく、彼女、はしのえみに関しては過小評価も甚だしいと昔から心密かに憤慨しておりますが9位です。

以上、最新版『俺の好きな女性芸能人BEST10』でした。

俺が蛇年だということを知らない親友から、綺麗な蛇の脱け殻の写真が送られてきた。

タイミングがタイミングだけに感慨深くて嬉しくて、受け取るやいなやここに載せることにしました。

本当に綺麗でしょ?

伊丹最北端産24作目。

前作完成直後に着手。ほとんど修行。

俺、右手、ちぎれかけてます。

さらに手直しをしました。

別に間違い探しをやっているわけではありませんが、一ヶ所でも気になる部分があると寝るに寝れんのです。

三度目の正直。これで完成。

一度は完成したと思ったが、眺める度に「もっと!もっと!」という声が聞こえる気がして、結局もう1日かけた。

細かい部分がちゃんと写らないのが本当に悔しい...。

毎日、「楽しいなあ〜、嬉しいなあ〜」なんて言って過ごしてる訳じゃないんだよ、俺。

ま、そんなこともわからないくらい想像力のない人は俺の周りには居ないと思うし、そう願いたい。





ある特別な感情を抱きながら、引き摺りながら生きていて、それが結構辛いとしても、その感情が「怒り」だとしたら、それは、その苦悩はたいしたことないと思う。「怒り」を抱けてるというのは、自分で自分を、自分で自分の考え方を「否」としていない証拠で、パワーに変えようと思えば変えられもするものだからだ。

本当に辛いのは心から誰かのことを「いとおしい」と思う気持ち。そしてさらにそこに罪悪感が絡んだ場合だ。これは本当に辛い。これは逆立ちしてもパワーには変えられないし、変わらない。ただ普通に生きているだけで「息継ぎ」という発想が出てくるくらいのものだ。

「怒り」なんてたいしたことない。俺を縮み上がらせるにはそれで十分足りるだろうけど、俺みたいな基本的に臆病な人間を縮み上がらせて一体どうしようと言うのか。

縮み上がってる人間に眉間にしわ寄せて「背筋伸ばせや!」みたいなことを言うのは無茶な話だ。冬、めちゃくちゃ寒い日のポコチンに「それでも男か!」って怒鳴ってるのと同じくらい間抜けな話だ。

以前、このブログ上で「凡人なんていない」ということを書いた。人は一人残らず何らかの天才で、要は自分が何において天才なのかに気付けるかどうかだということを書いた。

気付けてる人、もしくは気付けてると信じて生きている人にとってそれは、「これだけは誰にも負けない」と思っているそれは、生きる上で絶対に欠かせない、大切な、唯一の「売り」と呼べるもので、いわば生命線だ。

生命線―これはまさにその人にとっての生きる理由で、「生きたい」とまで思わせてくれる宝物で、「親しき仲にも礼儀あり」ってことも含めて、周りの人間、中でも特に近しい人間は本当に大切に、かといって別に妙に慎重である必要はないけれど、最低限の暖かい敬意に基づいて接するべきだと思う。

だからもし、彼(彼女)の生命線自体の輝きと、彼(彼女)の生命線に対するプライドの持ち様に惚れたんなら、惚れたことに責任を持つべきだと思うし、ここで言う「責任」というのはなにも難しい話じゃなくて、敬意を払い続けることだったり、可愛らしく愛情を抱き続けることだったりすると思う。

そしてもし後に、その生命線の輝きが、生命線に対するプライドの持ち様が、たとえ一銭にもならなかったとしても「裏切られた」なんて言うのは筋違いだろうと思う。

「裏切られた」なんて思うのは「惚れた」じゃなくて、「惚れさせられた」っていう意識があるからだろうが、そんなことは知ったこっちゃない。

さかのぼって考えてみれば、その時、その季節、彼(彼女)の売りが売りとして売りらしく、その店のその時々の売りを置くべき一段高い場所に置いてあっただけの話で、あなたはただ偶然にその店の前を通りかかって、店先に一段高く売りとして置いてあったものに、素直に惹かれて飛びついたというだけの話なんだから。

2日かけて描いた。

『仮面』よりずっと時間がかかった。

これは言葉です。切実な。

白い空から傷口に

そっと舞い降りて

傷が癒えるまでの間

笑顔を浮かべてそこにいて

傷が癒えたら静かに

消えてなくなる雪のようなものだと思っていた





ところが振り子

大きな音を立てて

不自然に急に

優しさに振れて

不安

不安

不安





優しさは優しさで

優しさのまま消えてなくなる雪のようなものだと思っていた

自作の絵をぼ〜っと眺めていて、ふと思ったのだが、俺の絵って売れるんだろうか?欲しい人っているんだろうか?

といって別に本格的に画家になって、これで飯を食っていくとかそういう話じゃなくて、ただ単に、このブログの読者の中にもし欲しいと思ってくれる人がいるのなら、「売る」もしくは「物々交換」みたいなことを楽しくやってみたいなと思ったのです。

そりゃ、ま、俺はプロじゃないんだから、欲しいと思ってくれればその気持ちが嬉しいし、嬉しいからタダであげるってのが筋なのかも知れないけど、それじゃなんか面白くない。譲り渡す方にも、受け取る方にも、〇〇ごっこ的な可愛らしい夢が欲しい。

だからもし、万が一、欲しいという方があれば、何らかの形で願い出ていただきたい。もちろんお売りするのは原画で、一点もの。作者である俺の思い入れによって、価格はピンキリあるけど、ペンで描いたB5サイズのものはだいたいが数百円で、気に入ってるものに限ってのみ4桁になる感じ。クレパスを使って描いたものに関しては、サイズ的にも大きいし、ほぼ全作品気に入ってはいるので4桁からのスタートになると思います。要は、ま、交渉しだいです(この「交渉」ってのも一度、やってみたかったし)。

俺自身、特に気に入ってる『葡萄の涙』と『寝顔』に関してはちゃんと額に入れて飾ってるけど、なかなかのインテリアになってるよ。

あなたも一点いかが?

是非とも俺にBOOK・OFFの特価コーナーで人生初の大人買いをさせてください。よろしくお願いいたします。

皆さんは『曼陀羅』という種類の絵をご存知だろうか。そう、あの宗教的な意味合いの塊の細か〜い絵。あれは長時間、蝋燭の灯りに照らされて、筆や、時には砂を駆使してまさに無我夢中となって描くこと自体に修行的な意味があるのだが、その次の段階。じゃ、描いたものをどう扱うのか?ということにも大きな意味があるということを先日知った。

というのもあの絵、『曼陀羅』は本来、俗世間と離れた神聖な異空間、いわば「聖域」を生み出すためのもので、部屋の壁に隙間なく所狭しと並べて貼って、異空間、聖域を生み出して、その中で祈りを行うためのものらしいのだが、この発想に俺はものすごく感銘を受けた。というのも、最近、ここ伊丹最北端の俺の部屋を訪れた方ならご存知の通り、俺の部屋がまさに今、自分の描いた絵でもってそんな感じに仕上がっているからである。

部屋の壁や棚に所狭しと自作の絵が並んでいて、まさに異空間と化している。何しろ赤絨毯の狭い部屋に、大小合わせて22枚の絵が貼ってあって、さらにそこへビートルズやジョニーロットンのポスターや、矢口真里の写真集が並べてあるんだから、結構壮観...っていうか異様である。

住人が異様だから部屋が異様なのか、部屋が異様だから住人が異様なのかは、「鶏が先か卵が先か」みたいな話なので、これ以上深入りはしないが、近所に住む昔からの友人たちがこの部屋を気に入ってくれていること、中には「伊丹最北端の聖域」なんて呼んでくれてる奴がいるということを本当に嬉しく思っている。

ま、本音を言うと、今の俺にとってこの部屋は聖域というよりは「結界」で、もっと言うとこの愛すべき伊丹最北端地域全体が結界みたいなもんなんだけれども。

最初は『心のダースベイダー』とか、こいつを一掃出来れば人間はもっと良くなるといった意味合いで『ダークセラピー』とかにしようとも思ったけど...こいつの名前に詩的な要素はいらんか..。だいたいこいつはそんなに甘っちょろいもんじゃない。と思って、ゴキブリ。『心のゴキブリ』と命名しました。





一匹見つけたということは...。

ある親友がメールで送ってくれた自作の絵。

俺の絵はペンとクレパスを使って、輪郭をはっきりさせてるから、テーブルの上のコップのような「そこにある」感が強いけど、この人の場合は水彩画な上に絵の構図が構図なので、浮遊感があって、例えば真白いテーブルの上に置くと絵が溶け出して、テーブル全体にそっくりそのまま移ってしまうような感じがあって面白い。

『page―1』→『ミノルとシンジ』という流れの中で、読者の皆さんも大変にお疲れだと思うので、あえてこのタイミングを選んで載せさせて頂きます。





このブログを見ている中で、「自分も描いてみよう」と思い立って、その絵を俺に送ってくれて、で、それを俺がブログに載せて。この流れと関わり方を凄く誇りに思っています。

《実年齢と精神年齢との間にかなりの距離を感じる。そして、その距離はここ数年で一気に広がってしまったように思う》





とある競技場にランナーが二人。二人は歳の近い実の兄弟で、兄の名を『ミノル』、弟の名を『シンジ』といい、二人は「ソウルメイト」とでも呼べる程に仲の良い兄弟(若干、口は悪いが)であった。そして、親から一体どんな教育を受けて育ったんだか、お互いに「二人で一人」的認識があって、兄弟間でのライバル意識や競争心といったものは昔から皆無に近く、その代わりに「二人なら最強」という、端から見ると不可思議で正直ちょっと気持ち悪い、漫才コンビさながらの強い絆があった。したがって今回、二人揃ってこの競技場を訪れ、一緒にグラウンドを走るというのも、決してスピードを競おうというのではなく、ただ単に「たまには体を動かさねば」的な動機だったのであるが、動機は動機、過程は過程、結末は結末、予定は未定。いざ走り出してみたら...!?

な、物語。

よくTVのマラソン中継の感動的ラストスパートシーンで見かける、楕円形の大きなグラウンド。人気はなく、雲の上から見るとごくごく小さな影が二つ動いているだけといった感じに違いない平和な昼下がり。「雲の上から見ると」平和な昼下がり。

ミノルがシンジの前を走る。そしてグングングングン差を広げていく。シンジが後ろから「お前は待つということを知らんのか、ボケ!」と叫ぶ。と、ミノルが振り向いて「それは俺の脚にゆうてくれや、アホンダラ!」と怒鳴り返している。

誰もいないはずのスタンドでは、イチャつきながらコンビニ弁当を食べていたカップルがこの光景を見て腹を抱えて笑っている。そして、そのカップルの女の方がおもむろに鞄から携帯を取り出して友人にTEL。「い、今、め、目の前、め、めちゃくちゃオモロイことになってるから、で、出といで」などと言っている。

一方、グラウンドではなおも二人は走り続けている。無闇に走り続けている。何故か走り続けている。二人の差は広がる一方で、差が開けば開くほどに二人の声は大きくなっていく。

「お、お前、ちょっとは手ぇ抜け..っていうか脚抜けやボケ!」「アホンダラ!この状態で脚抜いたら俺、転がっていってまうやんけ!」「そこをなんとか!」「だからそこをなんとかしたら俺、転がっていってまう言うてるやんけ!」「じゃあ転がったらええやんけ!転がってしもたらええやんけ!」「お前、走ってる最中にいきなり自分の脚抜いて転がってる奴見たことあるんか!?」「斬新でええやんけ!」「アホか!!」

その頃スタンドでは、先程の女が呼んだ友人が友人を呼び、その友人がまた別の友人を呼び、その別の友人がまた別の...と絶えず連鎖を繰り返し、今やその笑い声は競技場全体を揺るがさんばかりの渦となり、それに気付いた近隣の住人はじゃじゃ馬と化して我先にと飛び出してくるわ、警察は出動するわ、競技場のぐるりには先を争うようにたこ焼き、いか焼き、とうもろこし焼きなどの出店がその筋の方々に無許可に次々と出たりして大変な騒ぎとなっていた。

四方八方から圧し寄せる怒号のような笑い声の渦の中、兄弟はデッドポイントを越え、ついにはランナーズ・ハイの境地に突入。狂ったように笑い始めていた。訳もなくただただ笑い始めたのだ。

「ウヒャヒャヒャヒャ!」「ふにゃふにゃの冷やし明太子を一回カッチカチにしてからまたふにゃふにゃにしてみました!」「ウヒャヒャヒャヒャ!」「里見浩太朗はマヨネーズの足の裏です!」「ウヒャヒャヒャヒャ!」

スタンドから笑い声の渦。グラウンドから兄弟の狂笑。上空にはよろめく報道関係のヘリコプターの羽音。

と、突如、これら全ての音が一つとなり、この世の最も低い所から最も高い所へドーン!と打ち上げられて、ヘリコプターがやはり同じくドーン!と音を立てて落下炎上した瞬間、このグラウンド、スタンド、競技場を中心とした周辺地域全体が完全なる静寂、無音の世界に包み込まれた。それはちょうどグラウンド上、周回遅れでシンジがミノルに追い付かれてしまった瞬間の出来事だった。

物音ひとつしない無音の世界。スタンドの人々は兄弟二人を監視するように凝視し、二人は立ち止まって顔を見合わせ、冷たい鉄の棒のようになって突っ立っていた。

見ると兄ミノルは子供のような表情を浮かべて、静かに涙を流していた。そして一言、「ごめん..」と言った。その言葉を聞いたシンジはしばらく何も言わず、黙って、自分たちの足跡でいっぱいの地面を見つめていたが、やがてゆっくりと顔を上げ、後ろ手に後ろを向き、スタンドを見渡した。

スタンドで自分たちを見つめている人々は、二人の間に次に何が起こるのかを見逃してたまるかとばかりにまばたき忘れてドライアイ。カッと目を見開いていたが、中に一人だけ、スタンドの一番高い所、大きな男二人に挟まれて座っている女の子だけが鼻筋に両の手の親指のラインを沿わせるように手を合わせて、目を閉じているのが見えた。

シンジはその女の子に向かって「そこのスタンドの一番上でアホみたいな顔した野郎二人に挟まれて窮屈そうにしてる女の子ぉ!おーい!」と笑いながら呼び掛けて、「わーった。わーった。わかったよ。君に免じてな。あくまでも君に免じてやで、ホンマに!」と言い、ミノルの方を振り返るや何も言わずにそっと抱き締めた。

すると、スタンドの人々は次々に立ち上がり、口々に二人を罵りながら、我先にと蠢く虫のように出口に群がり、競技場から出て行った。

その後、炎上するヘリコプターから這い出てきた見るからに情けない劣等感の塊のような男の頭を左足で踏みつけた姿勢的には実に不安定な状態のシンジの腕の中で、ミノルは笑い泣きながら「転がれるんやったら転がっとるっちゅうねん、はなっから」と言い、シンジは「そやな」と言ってウヒャヒャヒャヒャ!と快活に笑った。

スタンドでは先程の女の子が満面の笑みを浮かべながら手を叩いていて、その周りにはまるで女の子を護衛しているかのような形で男女合わせて10人くらいの優しそうな人たちが軽く腕組みをして立っており、笑顔でミノルとシンジを見つめていた。

考えてみれば。

自分はこんな人間だと(実際とは異なる偽りの自分像)思ってもらいたいがゆえに、今までいかに自分自身に、果ては他人に嘘をついてきたことか。

例えば「好きな女性芸能人は誰?」って尋ねられた際に今まで俺はどう答えてきたか。

「松坂慶子とかぁ、天海祐希とかぁ、高橋真梨子とかぁ、土谷アンナとかぁ..」って松坂慶子以外完全なる眉唾だ。

「俺はね。どちらかと言うとね。可愛いタイプより美人タイプが好きなわけよ」って嘘ばっかりだ。

俺は自分の趣向が「美人寄り」であることを主張する中で、自分のセンスはあくまで知的なものだとアピールしつつ、周りの野郎たちの健康的で純なセンスを心中見下して笑ったり、女の人たちからの信用を得ようとしてきた。

この卑屈野郎が!

じゃ、真相はどうなのか。本当のところ、俺のセンスは如何なものなのか。俺の好きな女性芸能人って一体どんな人たちなのか。

カミングアウト。

まず、松坂慶子が好きだというのは事実だ。これは間違いない。大好きだ。一番好きだ。でも彼女以降となると実は中川翔子が好きだったり、矢口真里が好きだったり、はしのえみが好きだったりするし、それこそ昔は2つ前のブログでも述べたように篠原ともえが大好きだったりした。

ここまで読んで、読者の皆さんのほとんどは、馬鹿みたいなことを語っていると思っているに違いない。どうでもいいじゃないか、と。どうでもいいわりには熱いじゃないか、と。でも、これは実はかなり重要、深刻なことで、もし「馬鹿みたいなこと」と思われているとすればそれは今、俺が取り上げているテーマがテーマだからで、何しろ「好きな女性芸能人について」だからだ。でも、俺がここで一番言いたいのは何かと言うと、俺が自分自身に嘘をつくという行為は長い時間をかけてこんな些細な、いわば「どうでもいい」事柄にまで浸透してきたということで、これはちょっと視点を、テーマを変えて拡大していくと、俺は小さな事から大きな事まで、自分にまつわるありとあらゆることに関して自分自身に嘘をついてきたということになって、だから今日、こうやって自分を大きく見失うという結果にたどり着いたんだということになるのである。

「こう見られたい」が数限りなく嘘を生んで、それが積み重なって、ふと立ち止まってみた時に「あれ?俺、誰やったっけ?」みたいな感じ。

謝罪。

本当に申し訳ない。ごめん、俺。俺はアンタを騙し続けてきた。アンタが何を言おうと、俺はそれを軽く受け流したり、あるいは審判的な返事をしたりして、そしてそのほとんどは否定的なもので、時には無視さえしてきた。

先日、モーニング娘。のベスト盤を買ったというのは、俺としてはアンタへの罪滅ぼしの第一歩のつもりで、アンタはそもそも、モーニング娘。の音楽は実は結構面白いと評価していた。その声を俺は聞いた。でも俺は「あんなものただの馬鹿騒ぎじゃねえか」と、ちゃんとその音楽に触れることなく、分析することなく、一蹴した。

さぞかし辛かったろうと思う。不満の塊だろう。アンタは親に無視され続けてきた子供みたいなもんなんだから。で、今回こうやって爆発してみせたんだろう。爆発させるまで我慢させてきた自分が情けない。本当に。

アンタは中川翔子が好きだ。じゃ、俺も好きだ。

アンタは矢口真里が好きだ。じゃ、俺も好きだ。

アンタははしのえみが好きだ。じゃ、俺も好きだ。

アンタはモーニング娘。で胸躍る。じゃ、俺も躍る。

そういえば今日、あの近所のBOOK・OFFに矢口真里の写真集が450円で売ってたね。俺はまたしてもアンタの声を無視して「はじめての心理学」を買っちゃったけど。

明日、行こう。必ず行こう。買いに行こう。矢口真里写真集を買いに行こう。

な!

お気に入りなので、もう少し光を当てて、拡大して。

欲求、日常、不安、安心。この絵は今の俺そのものだ。

この絵『page―1』は、『祈りの少女』より少し大きくて、『7』より少し小さい絵です。

いつも通り何も考えず、『コックリさん式画法』で描いたんだけど、不思議と今自分が特に強く意識しているイメージがあちらこちらに出てきてて面白いなと思ってます。

あと、これはちょっとした笑い話。しかしながら事実。この絵を描いている時に何故か頭から離れなかったイメージは、昔大好きだった篠原ともえでした。

力強いコメントをありがとう。

これを書くことでこれまで書いてきた文章の意味がグッと浮かび上がってくると思ったし、これを書いとかんと、これから先書く文章がどれも奥歯に物が挟まったような物言いになるような気がしたから気合いで書いたよ。

書いて良かったよ。ありがとう!

今の自分の状況。生活。

2点だけいつ終わるんだかわからないという不安にまみれた本当に耐え難い、辛い部分がある。

一つはとある人物への異常なまでの恐怖心。怒り狂っている顔を声を思い浮かべるだけで、手が震えて、疲れがドッときて、身体が動かなくなってしまう。

もう一つは以前も書いたが、酒を呑まないと音楽が、ロックが全く聴こえてこないということ。それはまるで3Dのテレビが目の前にあるのに、それに対応する眼鏡が手元にないといった感じで、聴いていても悲しいくらい気分が高揚しない。

この2点だけは本当に辛い。本当に本当に辛い。

世間に「残念」の刻印を押されたとしても、ま、どうってことないか。自分で自分に押すのと比べれば屁でもないやね。

ここに至った過程がどうであれ、今まであんなに欲しがっていた「自分の時間」が持てるようになったら、今度はその時間の使い方に困惑している自分がいる。

それは例えば、駄菓子屋の前に立っている子供。いつもなら数あるお菓子の中から1個か2個を厳選せざるを得ないくらいの微々たるお小遣いしか持たされていない彼が、今日に限ってどういう風の吹き回しか「今日は特別に」と親がいつもよりかなり多めにお小遣いを持たせてくれた場合に、突然選択肢が増えるという慣れない状況の中で、一体何を買えば良いのか、自分は一体何が欲しかったのかがわからなくなって、結局何も買わずに家に帰って親にお金を返してしまう...みたいな感じとでも言おうか。

昨日、その辺の事をよくよく考えてみようと思って、『立ち止まる』ということの重要性を説いた本を買ってきた。

現代人は習慣的に気が付けば急いだり焦ったり、とにかく「何かせねば」という強迫観念にかられてしまうが、自分自身のことや周囲の状況をしっかり理解しようとすれば「立ち止まる」ということが、立ち止まって何もしないということが、次にいずれかの方向に向かって歩き出す場合にいかに重要かということが書いてあって、中でも次の文章には「なるほどな」と静かに唸らされた。

「緩やかさと記憶、速さと忘却の間には、ひそかな関係がある。ごく平凡な状況を考えてみよう。ある男が道を歩いている。突然、彼は何かを思い出そうとするが、記憶が戻ってこない。彼は自然に歩く速度を緩める。逆に、いましがた経験したばかりの辛い出来事を忘れようとする者は、その出来事からすぐに遠ざかりたいかのように、いつの間にか歩調を速めている。緩やかになれば思い出すことが多くなり、急いでいれば忘れることが多くなる」

今こそ俺は、しっかり自分自身のことを見つめなおさなきゃいけないし、そのチャンスだし、今、しっかり自分自身のことを見つめなおしておかないと、この先、中途半端に前進した所でまた道を誤ってしまう。

立ち止まる。

出来る限り、何もしない。

待つ。

ただひたすらに、自分のこと、周囲のこと、これから先のことについて何かしら見えてくるまで、ただひたすらに待つ。

この本の中ではこの「立ち止まる」ということ。立ち止まって出来る限り何もせず、「待つ」ということを誰にでもできる決して難しくない『瞑想』だと表現されていて、目からウロコが落ちた。

悲しい、完全に予想外の受け止め方をしてはります..。

誤解です。それは完全に「誤解」です。違う。違うよ。

コメントありがとう。

お互い、時間をかけて徐々に徐々に自分を「再構築」(←これまた素晴らしい心理学用語)していこう。焦らず、着実に!

・ロックンロール〈衝動〉

・旧友、親友〈支持〉

・恋〈希望〉

3つとも「夢」という言葉を輝かせる。

そして

3つとも「生への執着」に繋がる。

内なる子供を癒し解放するプロセスとして、一番有効な手段は、支持的で安全な人に話を、自分の物語を聞いてもらい、そうやって話している自分の言葉を自分自身が聞くことなのだそうだ。そして、その場合には話を聞いてもらう相手をしっかり見極めねばならず、例えば人の話を聞く時に「審判的」な返しをする人を相手に選ぶというのは、かえって内なる子供を窒息させてしまうことになるらしい。

そういえば俺はだいぶ前、このブログ上、『呟き』というタイトルで「説教され飽きた」と書いたことがあるが、あの時、自分の中で「説教」という言葉に違和感があった。「説教じゃない。説教じゃなくて、自分の言葉を〇か×で断言される感じが嫌で..」と思っていたのだが、「審判的」まさにこれだと思う。俺はあの時「審判的な会話に飽きた」と書くべきだったと思う。

ちなみに、例えば内なる子供を解放していく中で、審判的な物言いをする人と離れて生きることを心理学的物言いでは「解毒」と呼ぶらしい。

心理学って本当に面白い。

インナーチャイルド、内なる子供、真の自己、を癒して解放してやることを「変容」という過程を経て「統合」と呼ぶらしい。統合させることができれば、自分は、人生はもっともっとよりよいものになるが、長い年月をかけて抑制、抑圧されてきたものだけに、統合させるにはかなりの時間と努力を要する。というのが結論みたいだが、俺はもうこれしかないと思っているし、方向が見えたこと自体が嬉しいし、言いたいことを言ったり、やりたいことをやったり、程よく肩の力を抜いたり、適切に何かに誰かに「委ねる」ということをしたり、心から笑ったり、素直に怒ったりできるようになるために、今から時間をかけてじっくり、こいつを、この子供を解放させていこうと思っている。酒で垣間見たり、束の間呼び覚ますだけじゃなくて、常に自分の軸として伸び伸び呼吸させてやりたいと思っている。

今までずっと見て見ぬフリしてきたこと。その声を聞こえないフリをしてきたことをまずちゃんと謝ることから始めようと思う。

なぜ、見て見ぬフリをしてきたのか。なぜ俺自身の本音とも言えるその声を聞こえないフリをしてきたのか。それは33歳の大人として、社会人として、不特定多数の人に認めてもらうためだったが、結論、全く上手くいかず、堕ちる所まで堕ちることになってしまった。

ちゃんと子供に戻ろう。経緯がどうであれ、俺が今、このタイミングで自分が実際に生まれ育った場所、伊丹最北端にいて、そこでそう強く決意しているというのはきっと良い流れだ。

現時点では体育座りをして塞ぎ込んでいる俺の中の子供。彼が目覚めたら、彼が俺を許したら、「統合」できたら、俺は今までで一番良い自分になれると思う。

夢ができた。

もう二度と死にたいだなんて思わない。

「インナーチャイルド」は例えば人間の創造力をも司っているものらしい。だから俺は伊丹に帰ってくるやいなや、気付けば気が狂ったように絵を描き始めたんだろう。内なる子供を解放させようとして描き始めたんだろうと思う。あの「阿仁真里」だってたぶんそういうことだ。

ところで、先日、病院でカウンセリングを受けた。カウンセリングの内容はいわゆる心理テストで、テーブルの上に1M四方くらいの大きさの白い砂の入った木箱があって、その横の棚に小さな人形やら、ミニチュアのキッチンやら、時計やらとにかくありとあらゆる小物があって、これを自由に形を変えた砂の上に、好きなものを好きなように置いていくというものだった。で、俺は迷いなく棚から野球のボールくらいの大きさのガラス玉だけを手に取ると、箱の中の白い砂を全て箱の真ん中にかき集めて(砂を退けると、箱の底の色はブルーで、俺は水、砂の山を取り囲む「外堀」をイメージした)山にしたものの頂にポンと置いて「できました」と言った。そして「タイトルは?」との問いに「こわれもの」と答えて、「この時、あなたはどこにいますか?」との問いに「箱の周りをぐるぐる歩いてます」と答えて、「テーマは何ですか?」との問いに「崇高」と答えた。最後の問いに関しては「純粋」でも良かったと思う。とにかく、このテストで俺が表現しようとしたものも、ひょっとしたら内なる子供だったんじゃないかと思っている。

テスト中、「壊されたくない」と強烈に思っていたから。

「インナーチャイルド」というのは心理学的には「真の自己」とも言うらしく、これに対して、社会的に上手く生きていく為の偽りの自分、仮面の自分を「共依存自己」と呼ぶらしい。

「共依存自己」は「公共の自己」とも呼ばれていて、これに重点を置いて生きていると、「プライベートな自己」とも呼ばれる「インナーチャイルド」は窒息する。でも、自分の本当の願望や欲求。やりたいこと、言いたいことを知っているのは「インナーチャイルド」の方でこれを窒息させていると、人間は本来、それがたとえ無意識下であってもこの「内なる子供」の存在を知っているだけに、ここに無理があって、ストレスがかかって、苦しくなる。

アルコール依存性の人間は、この「内なる子供」を束の間垣間見るために、束の間呼び覚ますためにアルコールに手を出すようになるのだそうだ。

そもそも、ACという言葉も「インナーチャイルド」という言葉も、アルコール依存性である人間の治療法を試行錯誤する中で生み出された言葉らしく、不幸中の幸い。とりあえずは俺、この辺の言葉にたどり着いた、巡り逢えた所まではツイてると思っている。

「自分の中の子供」には、実は大阪にいる時から薄々気付いてはいた。やらねばならないこと漬けの窮屈な綱渡り生活の中で「やりたいことがあるんとちゃうの?」という心の声が毎日のようにうるさかったが、じゃ、あの声の主は一体何なのか。誰なのか。3月の後半というタイミングでブログ上に登場した「阿仁真里」という女の子は一体なんだったのか。なぜ俺はあの存在を出したのか。その必要があったのか。考えれば考えるほどに「自分の中の子供」というイメージが膨らんでいった。

そこで、以前から気になっていた「アダルト・チルドレン(以下AC)」という言葉が思い浮かんで、本を買って読んでみた。ACというのは、子供の時に受けた親からの影響、抑制、抑圧が成人後も残り、それに苦しめられ続けている大人のことを指すのだが、この本の中に「インナーチャイルド」という言葉が出てきて、これがまさに「内なる子供」という意味で、西洋の精神療法では癒しの対象といて使われる言葉らしく驚いて、今度はこの「インナーチャイルド」について詳しく書かれた本を読むことにした。

「インナーチャイルド」こんな言葉があること自体が嬉しかったし、この言葉に自分が良くなる鍵のようなものが隠されているような気がして、猛烈な勢いで読み始めた。

翌日、大阪に帰る前に家人に連絡を入れた。「昨日はごめん」と話を切り出したが、俺が前述の旧友に会ったということもあって、向こうはもう怒り狂っていて、「あなたは今まで頑張ったことがない」と言ったあとに「お願いやから死んで」という言葉が飛んできたので、俺は頭の線がそれこそ本当に、物理的に「キレた」ようになって、強引に電話を切った。

結果、元々わかっていた本当の問題に直面することになり、堕ちる所まで堕ちて、大阪に帰れなくなった。以降、今日に至るまでずっと伊丹にいる。

今は、大阪にいる時に通っていた心療科の病院(以前の脳神経科には疑問があったので、病院を変えた)に通ってカウンセリングを受けながら、ああでもないこうでもないと日々、いろんなことを考えている。新たに診断書を出してもらい、仕事も辞めることにして、自分で自分のことを考えに考えている。

そんな中で、自分の中で触れられるんじゃないか?というくらい明確に見えてきたものが、最近、ちらほらこのブログ上でも出てくる「自分の中に子供がいる」というイメージだった。

病院でもらった薬を飲みながら、わけのわからないタイミングで眠たくなって寝る。という休職後2ヶ月の生活は、それでもまだマシだった。何が問題なのか。何が問題で自分はこうなったのかを自分は本当はわかっていたが、それを見て見ぬフリをすることができた。が、家人の目を盗んでは酒を呑んでいたし、それがバレたりなどもしていたが、そうなると今度は妙な知恵がついて、やはり酒が絶てないでいた。それでも、本当の問題と直面していない分、まだマシだった。

6月に入るとすぐ、普段なかなか会うことを許されない両親と神戸の新長田で会うことになり、夜になると、昔、俺がまだ幼稚園児の頃に、親父を迎えに行っていた王子公園にあるとある居酒屋で呑んだ(両親にはアルコール依存性のことは内緒にしていた)。ここで俺は酔った勢いもあり、神戸在住の旧友を呼び出した。彼は数年前に俺と俺の家族に対して決してしてはいけないことをしたので、それ以来、長いこと顔を合わせてなかったが、最近、彼の父親が亡くなったこともあり、情が移り、一度だけ謝るチャンスをやろうと思った。で、やって来た彼に「謝れ」と言った。が、彼はちゃんとあやまらなかった。頭にきた俺は何度も何度も「謝れ」と言った。が、彼はちゃんと謝らなかった。気付けば俺は手をつけられない勢いで号泣していて、親父に身体を支えられながら店を出て、大阪ではなく、地元の伊丹に帰ることになった。

今年の3月の終わりに「うつ病兼アルコール依存性」だと診断された。





大阪での生活は毎日が緊張の連続で、去年の4月25日にこのブログ上で発表した小説『堀井ヴァイブル』は、まさにそんな大阪での生活を表現したもので、俺としてはちょっとしたSOSのつもりだった。

『堀井ヴァイブル』の主人公は綱渡り師で、綱渡りをする際の恐怖心を両手に持ったビールを左右交互に口にすることでやりすごそうとする姿を描いたものだったが、あの姿はそっくりそのまま、大阪で暮らす俺の姿だった。

家庭でも、職場でも「間違えられない」という強迫観念があって、一歩でも踏み外すと奈落の底だという恐怖心があって、そんなこんなを忘れられるのは酒を呑んでいる間だけという毎日があって、そんな日々を綱渡り師の物語として表現したものだった。

あと、大阪での生活は「やらねばならないこと」だらけで、自分の内側から「やりたいことがあるのに!」という声がほぼ毎日、耳鳴りのように聞こえたが、聞こえないフリをしたり、やはり酒を呑んで誤魔化したりして、「しようがないじゃねえか..」と何度も何度も自分に言い聞かせていた。

明らかに酒の呑み方が変わってきていた。

そして今年3月の終わり、職場の同僚と飲み会があった翌朝、それまでずっと気になっていた不整脈がいよいよもってひどくなっていることに気付いて、冷や汗もひどかったし、仕事を休んで内科を受診した。結果は「確かに不整脈はあるものの微々たるものです。でもこれは今、あなたがリラックスした状態にあるからで、不安になったり、緊張したりするとまた全然違ってくるのかもしれません」というもので、確かに検査中は自分でもいつもの心臓のリズムの乱れ、ドクン!をあまり感じなかった。

病院を出ると、もの凄く納得のいかない自分がいて、そして何故かもの凄く気が滅入っていて、何かがおかしいと思っている自分がいて、脳神経科の病院を受診したら即、「うつ病です。あと、アルコール依存性でもあります」との診断が下って、診断書を作ってもらい、3ヶ月間、休職させてもらうことにした。

今、灯りを消した薄暗い部屋の片隅で、昔、アルファベッツ時代にドラマーから譲り受けたジョン・レノンの写真集を眺めている。

残念にも程がある。

俺は本当に丸眼鏡が似合わない。今まで眼鏡屋で丸眼鏡を見掛けるたびに試着してみたが、鏡で一見するやいなや食欲が無くなるくらいの勢いで似合わなかった。

誰にも言われたことはないが、俺はレノンに顔、雰囲気ともに似ていると自負している。顔と雰囲気が似ているのに、眼鏡が全くしっくりこない、似合わないというのは一体どういうことだろう。

レノンの丸眼鏡みたいに、俺にも一見してそれとわかる、いちいち自己紹介的なことをしなくても「あ、この人はあっち方面の人やな。その筋の人やな」ということが一発で伝わる何かが欲しいなと思う。

ところで、俺は昔からよく「あんたは謎やな」とか言われてきた。ちょっと前の職場でも上司から面と向かって言われた。最初は嬉しかった。なんかかっこええな、と思った。でもすぐに「違うな」、「はっきり言って嫌やな」と思うようになった。というのも、自分のことを一から説明しないといけないからだ。「自分はこういう人間です」なんて逐一説明しないといけないからだ。でも、この説明がめちゃくちゃ難しいんだ。ちゃんと伝わったためしがない。っていうかちゃんと伝わるわけがない。だって俺自身、俺がどんな人間なのかさっぱりわかってないんだから。

めちゃくちゃ面倒臭いわりにめちゃくちゃ無駄足。

で、日々、自己紹介的なことをする。が、これが間違いだらけで、その間違いだらけの自己紹介を間違えた捉え方をされて、その間違えた捉え方によって縫製された人物像を手渡されて「はい、じゃこれを着てください」なんて言われて着てみるが、これがまた丸眼鏡どころではないくらいにしっくり来ず、似合わず、またぞろ食欲が無くなるのだが、一度貼られたレッテルはなかなか剥がれず、作り直しも効かず、かといって誰にどうクレームをつけたら良いのかもわからず、結果、自分を生きるということに関して完全な迷子となってしまったのである。

享楽都市の孤独。

世の中の大半の人は仮面を付けて生きている。繁華街は仮面舞踏会みたいなことになっている。俺はたぶん、仮面は付けていない、もしくは付けていたとしてもお祭りの夜店で売っているお面のようにうっすいうっすいものだと思う。ただ、俺は完全なる迷子。賑やかな仮面舞踏会、地に足の着いた立派な大人たちの快活な笑い声の渦に揉まれて埋もれてたまに両手を上げてくるくる回転しながら唇を尖らせてアップアップ言って窒息しそうになっているピカチュウのお面を付けた迷子だと思う。

俺には元々、女性崇拝的な頭がある。だから、つい最近まで女の人と喋るのがめちゃくちゃ苦手だった。特に学生時代なんて、喋りたくても喋れない苦悩の塊だった。

そんな俺の女性崇拝的思想が本格的に程よく崩れ出したのは介護の世界に足を踏み入れてからのこと。周りの先輩が女の人ばっかりで、野郎は自分一人だけといった状況が続いて、でも仕事は仕事、喋らないわけにはいかず、喋っている内に、接している内に、良い意味で「女の人も人間やねんな」なんてことを思うようになって、女の人とそこそこ普通に喋れるようになって、女友達もちらほらできるようになった。作れるようになった。

が、そうこうする内に今度は自分の中の女性崇拝が完全に崩れ去るような流れがやって来て、キレイに崩れ去ったら、その直後に津波のような勢いで来たのがその反動、いわゆる「リバウンド」で、自分の中に「いやいやいや、違う違う違う!女の人は綺麗な生き物や!崇高な生き物や!少なくとも俺の人生においては本来そうやったはずや!」という考えがたくましく芽生えて、爆発して、気が付けば女の人の絵ばかり描くようになっていたのである。

女性崇拝。これは俺が、自分の嫁の絵しか描かない親父を見て育ったことに由来するのかもしれない。親父はよく「俺はあのひと(親父にとって嫁。俺にとって母親)を描いてるようであのひとを描いてるんじゃない。その向こう側の、もっと大きな存在としての女を描いてる」って言ってたが、今は俺、その言葉の意味がよくわかる。

俺はやっぱり、女の人は俺の夢や憧れの象徴でい続けて欲しいと思う。これは別に完璧でいて欲しいなんて言ってるんじゃない。いっぱい失敗して、照れ笑いを振り撒いて、男を魅了しながら、俺の創造力の源であり続けて欲しいなと思う。

女の人がいないと、女の人の魅力がないと、女の人の魅力に振り回されないと、男の一生なんて無味無臭無色のスッカスカなんだから。

女の人が優しい時、そこに地球上で一番綺麗な芸術があると思う。

愛は苦い。黒に近い赤。

恋は甘い。鮮やかな桃色。

愛にはまがい物が多い。ほとんどが奇形で、間違いだらけだ。

恋は抱きしめたいと思ったり、抱きしめられたいと思ったり。馬鹿で、素直で、純度が高くて、間抜けではあっても間違いがない。





ギリギリだ。

別に変な意味じゃなく..いや、やっぱり変な意味か?

俺が最近描いた絵に『女性は綺麗』というタイトルの絵があることからも知れるように、俺は、俺という男は人間は、本当に女性という生き物は綺麗な生き物だと思っているらしい。

昨日は昨日で信号待ちをしている女の人がサンダルの紐を結び直すためにしゃがみ込んでいるその「形」を見て綺麗だなと思ったし、今日は今日で電車内、ドアにしがみつくようにして爪先立ち、外の景色を興味津々眺めている女の人を見て、絵になるなあ、魅力的だなあと思った。

しかしながら実際に深く関わってみると、女性という生き物は極めて複雑な生き物で、男からしてみれば一番好きで一番苦手なものとも言えるし、女性の中には「鬼」を地でいくような人が男が冗談めいてかなり多めに予測する数の数倍はいるみたいだし、実はめちゃくちゃ厄介な生き物。「歩く単純」とも言える男よりずっとずっとずっと厄介な生き物らしいのだが、女性はそうやって極めて厄介な自分を自覚しているがゆえに、それを隠そうとしたり誤魔化そうとしたりする意識が強く働くことによって、全体像が捻れたり滲んだりブレたりして、結果、もの凄く抽象的で魅力的な現代美術みたいなことになって、それはそれで本当にミステリアスで綺麗なのだが、女性が一番綺麗なのは(と、俺が勝手に思うのは)たまに気が抜けて、自分の素の部分を隠すことや、誤魔化すことを怠った時、その瞬間だと思うのである。

その時、その瞬間、本当に、心から、綺麗だなあと思う。





最後に、男性諸君に一言断っておくが、俺が言う女性の「隠す」「誤魔化す」に化粧は入らない。何故か。俺が入れたくないから。俺は昔から「女はやっぱり素っぴんでしょう」みたいなことを言う男が理解できない。信用できない。想像力が希薄。化粧が上手いに越したことはないし、それは立派な技術だし、何より「化粧しないと自分は...」と思っている女の人の方が魅力的に決まってるじゃねえか。

なにはともあれ、女性はみんな基本的に本当に魅力的で綺麗です。

「鬼」を除いて。

先程、とある親友からメールがあって、自分は『アラジン』とか『越乃歓梅の女将』とか『祈りの少女』とかが好きだとあった。俺、実は密かに自分の最近の絵への外からの評価を聞いてみたかったので嬉しかった。

その親友は女性なので、そのことを踏まえて考えると、この3点が好きだというのはもの凄く合点がいくし、そんなこんなを分析するのは描き手として本当に楽しい。

ちなみにここ、伊丹最北端の男友達の中には『お手上げ天使』が好きだと言ってくれる奴が数人いて、その内の一人などは持って帰ろうともしたぐらいで、俺が取り返すとちょっと怒っていたが、それでも俺としては持って帰ろうとしてくれたこと自体が実はめちゃくちゃ嬉しかったりもした。

絵にせよ、音楽にせよ、作り手と受け手の間に評価の違いがあるというのは本当に面白い。作品が一人歩きしてる感があって、本当に面白い。楽しい。

《6月》

・女帝の心臓 ★★★★★

・7 ★★★

・チキン ★★★

・父性 ★★☆

・お手上げ天使 ★★★

・邪涙神→破棄済

・寝顔 ★★★★☆

・アラジン ★★★

・儀一郎→破棄済

・救援 ★★★★★

・迷信卿→破棄済

・鎖帷子 ★★★☆

・祈りの少女 ★★★★★

・受容 ★★★★

・女性は綺麗 ★★★

・キャリアウーマンの微笑 ★★★★☆

・収穫祭と恋 ★★★★

・葡萄の涙 ★★★★★

・居酒屋「越乃歓梅」の女将 ★★★☆

・19 ★★★★☆

・口車 ★★☆

《7月》

・危険な女 ★★★★

・仮面 ★★★★★





※以上、現在所有画数20点。自己評価平均点 3.87点。

15cm×15cm

「仮面」は今、俺にとって重要な題材。昨日の午前中から何かに取り憑かれたかのような勢いで描いた。

俺の右手。中指のペンだこがサイの皮みたいな質感で膨れ上がってしもて、親指なんて今にも疲労骨折しそうだ。

執念。

以前にも何度か述べたように、俺は男というのは一生「男の子」だと思っている。これはきっと事実で、女の人の中にはこのことをよくよく理解して潔く諦めた上でおおらかに男と接している人と、あくまでも「男の人」であってもらわねば困ると考えて、しかしながら何故かそうはならなくてイライラして、来る日も来る日もまるで子供を叱るような感じで、結局は不本意とはいえ「男の子」として男と接してしまっている人がいると思う。そして、これまた俺の完全な個人的意見だが、前者の女性は若さを保ち続けることができるが、後者の女性はかなりのスピードで老いていくような気がする。

だから「人間何事も諦めが肝心」というのは言い得て妙で、確かにそのとおりだと思うが、ただ「諦め」という言葉を受容的な意味で捉えるのか、断念的な意味で捉えるのかによって話は大きく違って来るように思う。ちなみに仏教の世界では「諦め」は、「明らかにする」という意味があるらしい。

ところで、実際は知らない。実際はどうか知らないが、俺が大好きな女優、松阪慶子さんは男をはなっから男の子として見てくれそうな気がする。だから大好き。笑いながら諦めてくれるような気がする。だから大好き。ここでちょっと夢を見させていただくと、もし俺が松阪慶子さんの彼氏だったとしたら、あのひとは俺が一生涯「男の子」なんだということを当たり前のように明らかにしてくれるような気がする。あのひとにはそんなオーラがある。だからほら、ね、あのひと、ず〜っと若いでしょ?綺麗でしょ?

男と女。お互いに良い意味で暖かく優しく潔く諦め合えばいいんじゃないかと思う。

彼氏彼女であろうが、夫婦であろうが、結句、男には女がわからないし、女には男がわからないんだから。

実はこれっぽっちも悪いと思っていないことについて謝ったり、実はこれっぽっちも納得していないことについて同意したふりをして頷いたり。

本当にそれで良いのか、野郎ども!

インポ野郎ども!

使用後、手入れを欠かさない愛用クレパス36色。

弾丸「みたい」じゃない。俺にとっては正真正銘の弾丸。立派に弾丸。

護身の為に欠かせない物としてクレパスを挙げるのは世界中探しても俺くらいのもんだろう。

俺はこれで着実に自信を取り戻していく。そして俺はこれで、俺に対して妙に絶対的な優越感を抱いている馬鹿野郎に対抗してやる。





「ピストルを握ると万能感を得られる」みたいな話を以前聞いたことがある。

居酒屋よりBarを好み、「ヴァイオレット」から始まる名前のカクテルを口にし、電球より蝋燭の灯りを好み、音楽より静寂を望み、会話の際はLSDでもやっているかのような遠い目をしながら決して声を張らず、言葉少なながら発言の内容は妙に的を射ている。

心に揺れる紫色の炎は見えそで見えず、見えそで見えず、見えそで見えず、男心はたまらない。

そんなイメージ。

プロフィール

いっけい

ビートルズ好きの両親の元、ビートルズを子守唄に育ち物心が付く前から音楽に慣れ親しむ。
学生時代からいくつかのバンドを結成し関西を中心にライブに明け暮れる。
現在はソロでの音楽活動に加えイラストも手掛けるマルチアーティストとして活動の幅を広げている。

いっけいの楽曲が聴ける!! MySpaceはこちら

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