処女作、超短編小説『堀井ヴァイブル』から半年。
「起」「承」「転」「結」の4部から成る物語『木元麦乃助の憂鬱』が、2日間だけこのブログ上に載せてすぐに削除した「前編」「中編」「後編」「ボーナストラック」から成る同タイトルのいわば「雛型」とも言える物語に大幅な改良を加えて遂に完成した。
仕事中、夜勤者に当てられた2時間の仮眠時間を利用して、物語がどういった方向に流れていくのか、どういった方向に流れて欲しいのか、何てことは一切考えず、こだわらず、携帯片手にただただ我を忘れて、無我夢中、勢いにまかせて書いた。
書き終えて読み返してみて我ながら驚いた。ここ最近の俺の生活、精神状況を象徴しているかのようなエピソードが物語の中に所狭しと並んでいたのだ。だから、もし今誰かに「最近どう?」って言われたら、俺は迷わず「木元麦乃助を読んでくれたらわかる」とだけ答える。
完成後、24時間をも経ていないにも関わらず、俺はもう現時点で少なくとも3回は読み返した。そして、恥ずかしい話、自分で書いたにも関わらず毎回同じポイントで笑ってしまっている。
愛読者の皆さんはとりあえず笑ってください。深読みなんて面倒臭いことはせずに、笑える箇所があったら大いに笑ってください。それが一番嬉しい。
ちなみにあと4本。あと4本で、このブログ、200本に到達します。
2009年10月アーカイブ
「何も聞こえない。だからもう俺は何も喋らない。俺は...俺はとっても疲れた。って、あは、無の世界みたいな崇高な場所でものすごい知的なことを思ってる時に「とっても」ってフレーズはとっても滑稽に響くね。浮くね。とっても可笑しいね」などとあちら側で思って、心密かに恍惚の表情を浮かべていた麦乃助の今やただの飾りでしかないはずの耳に突如中華のオッサンの屁の音が飛び込んできた。その刹那、「じゃあかあっしゃあ!!」麦乃助は中華のオッサンのところへ走っていって眉間のちょっと下あたりをグーでドーンとやった。中華のオッサンは「グーでドーン!」と叫びながら後方へ吹っ飛んだ。それから麦乃助は首が取れそうな勢いで振り返ると、オッサンが拵えた大量の汚物的中華を「ランチの中のランチ!」と叫びながら片っ端から女刑事に投げつけた。そして声の限りに、ズボリア・ギッシーニの歌唱法に多大なる影響を受けたと某雑誌のインタビューで答えていた、ぺ・ログレスクの声で叫んだ。
俺はロックが大好きだ!
俺はロックが大好きだ!
俺はロックが大好きだ!
俺はロックが大好きだ!
俺はロックが大好きだ!
俺はロックが大好きだ!
俺はロックが大好きだ!
俺はロックが大好きだ!
俺はロックが大好きだ!
俺はロックが大好きだ!
そして最後に一言、「わかる?」と言った。
汚物で中華なランチにまみれた女刑事は口を歪ませて麦乃助を睨み付けると「あんたに味方はおらんよ..私にはおるけど」と呟いてから鼻で笑ってこう言った。
「一丁あがり!」
泣き止んだ女刑事が自分が何をしにここに来たのかを思い出すまでの束の間、冷たく澄んだ静寂が直立不動、後ろで手を組んだ姿勢の中華のオッサンの口から流れ出て部屋全体を満たしていた。
「で」何をしにここに来たのかを思い出した女刑事が沈黙を破り喋りだすと同時に、中華のオッサンは台所へ戻り再び汚物を量産し始めた。女刑事は続けた。「で、そうや、思い出した。お前やろ?やったのん。証拠はないけどこういうことは大概お前やねん。お前に決まってんねん。お前がやったって証拠もないのに決めつけてかかってんねん今、私。な?お前やろ?5年前、あの商店街の門の下にあるたこ焼き屋にスーパーボール横流ししてたんお前やろ?もうええ加減吐いたらどないや。なあ?オッサンよ」女刑事の同意を求める声と視線を背中で受け止めた中華のオッサンは自分の手元を見つめたまま「ホンマ、そいつそう見えて結構あれですわ」と答えた。麦乃助は左手に携帯を握りしめたまま、うつむき黙っていた。
中華のオッサンが汚物を量産している台所を除けば、部屋にはまだ先程の静寂の残り香が漂っていた。麦乃助はそれをありったけの想像力でかき集めて鼻クソのように丸めて固めると、自分の両耳に捩じ込んだ。
麦乃助は今、無の世界にいた。
〈続く〉
「ロック?あはは、何を言い出すかと思ったらロックってあのゴミみたいな音楽のこと?あのゴミみたいな奴らが愛してやまないゴミ的姿勢のこと?」女刑事は言い、半笑いで麦乃助を睨み付けていた。麦乃助はうっとりとした表情を浮かべてミックジャガーの唇の艶を思い描いていた。
「で」女刑事が口火を切ろうとした時、麦乃助の携帯が鳴った。女刑事は心中イラッときたが、ここで怒鳴り散らすのは社会人としていかがなものか、周り近所、友人知人に悪い印象を抱かれては困ると思い、表情一変、震える笑顔でただ一言「どうぞ、ウフ」と言った。
麦乃助は電話に出た。海外からの電話。英国のズボリア・ギッシーニという男からの電話だった。ズボギシは麦乃助に言った「いきなりスマン。いやね、日本にファッキングレートなロック馬鹿がいるって噂を小耳にはさんでさ。で、こうやって連絡をば差し上げた次第でござる。え?なんで日本語喋れてんのかって?それがついさっき、22世紀から来たとかいう気色の悪いキチガイファッキン猫型ロボットに出くわしてさ、ちょっと脅してやったら賞味期限の切れ倒した雪見大福みてぇな汚ねぇポケットの中から何だかわけのわからねぇ道具出してきやがってさ。何ちゃら蒟蒻とかいうやつらしいんだけど。そいつを食ったらほら、喋れるようになったわけ、日本語。で、あのね、ズバリ言うけどこっち来ねえ?俺、『ガポン』ってバンドやってんだけど最近ギタリストの兄貴が抜けちゃってさあ。なあ、一緒にやんない?『ガポン』でギター弾いてみない?」
携帯を持つ手を震わせて、麦乃助は堰を切ったように泣き出した。それを見た女刑事は最初少し動揺して動揺を隠そうと苦心したが、気付けば「アモーレ東尾!!」と叫びながらもらい泣き崩れていて、そんな二人に触発された中華のオッサンは踊りながら胡椒を自らの頭に振りかけつつ「ポロポロポロポロポロポロポロポロ、途中からロポになってるねっ!」と両の眼を充血させて怒鳴り散らしていた。
麦乃助は悔しさで胸が張り裂けそうになっていた。というのも電話の声の主、ズボリア・ギッシーニなる人物こそは他でもない、麦乃助にとって人生の師。いや、神とも呼べる憧れの人、ロックスターだったから。麦乃助は囁くように答えた「何かと忙しくて..今は今でものすごく面倒臭いことになってるし..無意味なことで身動きがとれなくて..無理です..」
ズボギシは「そっか、残念。じゃとりあえず他を当たるわ。って言うかお前、頑張れよ。アデュー!」とだけ言って電話を切った。
涙が止まらない麦乃助の中に、言うに言えぬ怒り的なものが非科学的に膨張に次ぐ膨張を繰り返していた。
〈続く〉
口が裂けても公にはできない仕事からクタクタになって帰宅した木元麦乃助は驚くべき光景を目にした。鍵を開け、家に入るとそこに刑事ドラマでよく見る取調室のような世界が広がっていたのである。
豆電球一つのみ灯る薄暗い部屋の中央に鬼のような形相をした女刑事が頬杖をつき、ものすごい勢いで貧乏ゆすりをしていて、その女刑事の目線の先には汚物のごときオッサンが火に油を注ぎつつ汚物のごとき中華料理を誰からも注文を受けていないであろうにも関わらず無闇やたらに「一丁あがり!一丁あがり!」などと喚き散らしながら量産していた。
「修羅場..」とだけ呟やいて麦乃助は急ぎ外に出よう、脱出しようと試みたが、鬼のような形相をした女刑事が視線を中華のオッサンに向けたまま微動だにせず「待て!待てやコラァ!コラーゲン。私はずっとあなたのことを待っていたのよ。待ち焦がれていたのよ。いつまで待たせるのよあなた...歯形!」と叫んだので麦乃助は立ち止まらざるを得なかった。
数分後、女刑事の言葉に麦乃助はただただ「んぺ?」としか言えなかった。女刑事は麦乃助を立ち止まらせると自信満々にこう言ったのだ。「お前やろ。いや、お前や。お前に決まってる。あの向かいの家の貧乏丸出しの汚いオバハンの汚いパンティ盗んだのんお前やろ!」と。
尋問が始まり、麦乃助は「知らないものは知らない。わからないものはわからない。だいたいちょっと考えりゃわかるだろう。この馬鹿野郎が」というフレーズ、信念を軸に、自分が無実であることを可能な限り言葉多めに繰り返し繰り返し説明したが、すればするほど女刑事は顔面紅潮(+)。納得せず、引き下がらず、怒を通り越した哀といった具合で、たまに涙を流しながら「...例えばあのオッサン。あの中華のオッサンの辛さを思えばお前、ここは自白やろ。自白しかないやろ」と、麦乃助に自白することを懇願してきたのである。
麦乃助はあまりに馬鹿馬鹿しくて辛くて一瞬、心が折れそうになった。しかしながら彼は不幸中の幸いにも、全くの無名とは言え誇り高きバンドマンであった。自分の中で渦巻いている全ての不愉快や不可解や不本意をギュッと凝縮して、ただ一言「俺はロックが大好きだ」とだけ答えた。
〈続く〉
毎日、同じ道を歩いて同じ場所に行き、同じ道を歩いて同じ場所に帰ってくる。
目と鼻の先の未来にさえ楽しみを見い出せず、気付けばまた、同じ道を歩いて同じ場所に行き、同じ場所に帰ってきてしまっている。
歩きたい道は別にあり、行きたい場所も別にあり、帰りたい場所も別にある。
左足が『現実』に根を張っていて、右足が『理想』に根を張っていて、現実と理想が離れれば離れるほど、俺はじゃんじゃんじゃんじゃん笑い的にはアリだが社会的には0点な格好になっていく。
そんな中で変わらず、そんな中だから余計に、俺の中で自由度を増して、膨張し続けて、今や爆発しかけているのが妄想や想像や空想や夢想や夜見る夢の世界だ。
もし今、自由な時間と、ペンと紙とギターがあれば、俺はものすごい名曲を書く自信がある。
のに。
パーソナルコンピューターをお持ちの方は、『YOU TUBE』で「アルファベッツ」を検索してみていただきたい。そして、この3ピースバンドのギターヴォーカルの奴が今どこで何をしているのかをご存知の方は是非ともご一報いただきたい。
まだ音楽活動を続けていて、その辺のライブハウスを性懲りもなく転戦して歩いているのかもしれないし、天六の関テレのふもとの公園でブルーシートに横たわって、中国人カップルが喧嘩している声を心中笑いながら聞いているのかもしれない。いずれにせよ、彼の「今」がとても気になるのです。
彼に言いたいことはないが彼に言われたいことが山ほどあるのです。
説教され飽きた。
「一度も病気になったことのない人間は友人にするに値しない」というのは昔から語り継がれている古人の言葉。そして、一大モンゴル帝国を築き上げたジンギスカンは、将軍の役職を決める際、「部下の気持ちがわからないから」という理由から、あえて屈強で勇敢な者は選ばなかったらしい。
巷には「強くならねば」的メッセージの歌が溢れかえっているが、強くなって一体どうしようというのか。皆がその弊害についてろくに考えようともせず、ただ周りに流されるように盲目的に強くなろう、強くなろうとする中で、弱い人間は一体誰に胸の内を明かせばいいのだろう。
弱い人間にはただただ話を聞いてほしい時というのがある。ただただ笑顔で頷いて欲しい時というのがある。そんな時に反論や説教は要らない。でも強い人間はとりあえず何か喋ろうとする。弱い人間に有難い言葉を恵んでやろうとする。酷い時には「しっかりせえ!」なんて怒鳴ったりもする。かくして、弱い人間は黙ることを覚える。吐きだすべきものを吐きだすべきタイミングで吐きだせない日々が続いて、本当にどうしようもないところまで追い込まれていく。死ぬほど辛い。
弱い人間が強い人間の顎に一発ぶちかます方法もあるにはある。が、ぶちかました後、うずくまった強い人間が目の当たりにするのは弱い人間の死体だ。
俺はあんたの言葉をちゃんと聞く。あんたが喋ってる最中に、聞いてるフリをして、同時進行で「でも俺はこう思う」的言葉を頭の中で組み立てるなんてことはしない。あんたが喋ってるんだから、あんたの時間。ちゃんと聞く。俺の意見なんて二の次。まずはあんたの話をよく聞いて、あんたが心から欲している言葉をよく見定めた上で、意見を求められたらちゃんと自分のフィルターを通して誠意をもって答える。
友達になって欲しい。
再びの来寺、心より感謝します。あんたがコメントを寄せてくれなかったら『書込寺炎上』なる文章を載せるつもりでした。
俺は「やっちゃってください」って答えると思う。いや「やっちゃってくだちゃい!」って答えると思う。その神様だかペテン師だかが現れた時にタイミング良く俺、酔ぉてたらね。でも、もしシラフの時にその怪しい奴らがそうやって怪しいことを吐かしてきたら、「生きます」って答えると思う。いや「生きまちゅ!」って答えると思う。
いずれにせよ、俺のナメた口調にご立腹して「...いや、お前に選択肢はない。やろ思たけどない。お前みたいなもんはぶち殺す!」ってなったらそれこそ俺の思うつぼ。一番望む形かなと思う。
ただ「でもお前、痛いで、苦しいでぇ〜」とか言われたら、スーツに着替えてネクタイを正して土下座して「生かさしてもらいまふ」って答えると思う。
再びのコメント、ありがとうございます!
俺の文章は本を全く読まない人間の文章丸出しで、それはトモコさんの文章と比較すれば一目瞭然です。
俺は音楽が大好きだから、無意識下でかなりの知識を得つつ音楽をやってきたし、絵が好きだから、親父が絵描きだということでこれまた無意識下でちょっとだけ得ていた知識を元に絵を描いてみたりしているわけですが、こと文章と言うものに関してはこの「好きだからやる」という1+1=2的数式というか、「やろう!」と思い立つまでの自然な流れみたいなものが全く見当たりません。というのも、俺は生まれつき言葉と言うものが大嫌いで、死ぬほど嫌いで、嫌いで嫌いで大嫌いで、ゆえに本も活字も大嫌いだと言い切れて、今までに何冊か「文豪」と呼ばれる人が書いた「名作」と呼ばれるものを読むには読んだけど、言葉が昇華されてる感じがムカつくというか、それによって言葉が「アタシ綺麗でしょ?」的に調子にノってる感じがさらにムカついて、いつしか「言葉なんか死ねばいい」なんてことを言い出すに至ったわけですが、しかしながら残念ながら不本意ながら言葉というものの持つ力、影響力みたいなものは認め過ぎるくらい認めてきたし、ゆえにまたムカついて...というのが俺が言葉とか文章とかいったものに抱き続けてきた印象だったりするわけです。
あえて今こそ「本は読まない!」と深く心に誓っております。気付けば文章だけが、「知識なく作る」ということができる貴重な存在になっていたからです。
自分の中の意外な場所に未開の地を発見したことの喜びと、その地を自分のやり方で開墾して、言うに言えぬ、自分でも良いのか悪いのか判然としない得たいの知れないものを生み出すことの楽しさに身をやつしながら、立ち止まることなく無闇やたらに乱暴に、言葉をちぎっては投げ、ちぎっては投げ、していこうと思っております。
カート・コバーンは言いました。「ギターの弾き方なんて知らなくていいんだよ。自分で考えりゃいいんだ」
というわけで、今後ともご愛読のほど、よろしくお願いします!
「誰がホームレスやねん」というフレーズで思い出してしまったのだが、俺は過去に一度、梅田のど真ん中でヤクの売人に間違えられたことがある。失礼にもほどがあるだろう。
酒の味を覚えたての頃、幼なじみと、今食えば決して美味いとは思えないであろう居酒屋で「うまっ!」とかなんとか知ったかぶって言いながら飲んでいて、ゴキゲンに店を出て、ちょっと歩いて、その幼なじみが「ちょっと電話」と言って一瞬俺の側を離れたすきに、サングラスをかけた中尾彬みたいなあからさまに極悪そうなオッサンと、同じくサングラスをかけた横山やすしの生まれ変わりみたいなチンピラ然とした小悪魔的オッサンと、一世風靡セピアみたいな格好をしたいつまで経っても一世を風靡できないであろう怖すぎるお兄さんたち数人に包囲されて「で、どこで売ってんの?」と尋ねられたのである。
最初は「この人たちは一体何を言ってるんだろう」と思ったが、一分も経たないうちに自分が今、どういった立場に立たされているのか、どういった素性の人間だと勝手に決めつけられているのか、ということに気付いたのである。あまりの恐怖に、逆に、ものすごく開き直れてしまっている自分は極めて冷静な声で「知りません。いや、ホンマに知りませんて。ただ、あそこは東通商店街といって梅田屈指の飲み屋街ですから、あそこに行けばあるかも知れませんねぇ」と答えた。すると、横山が「いや、お前は知ってるはずや」と言い、俺は「いやいや、ホンマに知りませんて」と応戦したが、このタイミングで、ここぞとばかりにこの何だかよくわからないチームの首領的存在たる彬がニュッと顔を突き出してきて「俺の目は誤魔化されへんで」的ニュアンスを含ませて俺にこう言い切ったのである。「いや、お前は知ってるはずや。その目は知ってる目や!」
どんな目やねん。
先日の夜、書斎で、発泡酒を傍らに置いて左手に携帯を持ち、このブログに寄せる文章を作成していたところ、結構お歳を召した警察官のおっちゃんがよちよちチャリンコを押して近づいてきて、実に申し訳なさそうな表情を浮かべながら俺にこう言った。「あ、すいません。いや、ホンマすいません。いや、何てこたあないんですがね。あのね、最近ね、この公園にホームレスが出るという通報がね、この近隣にお住まいの方からありましてね。そんな人、見かけませんでした?」
誰がホームレスやねん。
変態じゃない奴なんていない。
基本的に、女性というのは凄い生き物だ。ちょっと頑張れば、ちょっと自分を大事にすれば、ちょっと自分を飾る遊びの精神とセンスがあれば、ちょっと男を「騙す」腕があれば、みんな本当に強いし、綺麗だし、エロい。
基本的に生物的に女性は、男性が女性を好きなほど、男性を好きではないと思う。
当然だと思う。俺も含めてほとんどが期待外れだから。
ただ、世の中の男性の中にも、残念ながらほんの一握りだが、俺自身、同性ながら惚れてしまうくらいいい奴、「いい男」というのは確実にいて、いるにも関わらず彼の存在に気付かないというのもまた女性だと思う。
根底にちゃんと優しさがあれば、その優しさの出し方を知らなかったり、出し方を間違えたりして人にとやかく言われたとしても全くもって気にする必要はないと思う。
優しさの「出し方」一つ取ってもそう。いちいち形式にこだわって、ことあるごとに中途半端な自己犠牲的動き方をして、自己満足ののちに自己完結してしまえるのが、俺が忌み嫌う「社会人」であり「大人」です。
うどん屋のレジの前で数人の大人が口論している。「ここは私が出します」「いやいや、ここは私が」「何をおっしゃる。今日、お誘いしたのは私なんですから私が出します。それが筋というものです」「いやいや、そんなことをしてもらってはこちらとしても申し訳が..」「そんなに気を使わないでください。お誘いしたのはあくまで私ですから」「いや、いや、そちらこそ気を使わないでください。是非とも私に出させてください」「じゃ、こうしましょう。ここは私が出しますから、今度、ごちそうしてください」「そ、そうですかあ..」
片っ端から死ねばいいのにと思う。
カリカリカリカリ、こうやって文章を書き連ねていると、自然と「一体何の為に書いてるんやろ?」ってなことを考えるようにもなってくる。
先日、管理人である剣吾くんと会って酒を酌み交わした際に、パソコン上でこのブログのアクセス数の推移を具体的に棒線グラフと数字で見せてもらって驚いた。アクセス数が先月だけで600に迫る勢いだったのである。そして、読者数的にはこれまた先月だけで70人に迫る勢いだったのである。俺がこのブログの存在を知らせたのは今のところごく身近な人たちだけで、多くても15人くらいだ。あとの50人近い人たちは一体...と、顔の見えない人たちのことを思うと嬉しくなって、嬉しい責任感みたいなものを少なからず感じて、それが今月の俺の「物書き」としての勢いに繋がっているのである。
音楽や絵に比べると、俺は俺の書く文章というものをあまり評価してこなかった。っていうか「俺の文章を評価してもらいたい!」なんてこと、考えたこともなかった。が、読んでくれている人たちが確実に、しかも少なからずいるということを知った今となっては、文章は文章で音楽や絵に次ぐ自分の第三の武器として、一生懸命打ち込む価値があると思っている。
音楽にも絵にも、そして文章にも魔法を起こす力があると、俺は血と肉のレベルで信じている。音楽や絵で表現することがままならない今、俺の想像力や、創造力のすべてはおのずとこのブログに寄せる文章に流れ込んでいる。
今、俺が魔法を起こせるとすれば文章だけだ。一生懸命、嘘のないものを書き続ければ何かが起こるかもしれない。ここから外に出られるかもしれない。いや、出てやる。
崇高な、救いの言葉はゴミ箱へ。
純朴な、優しい言葉は神棚へ。
元々強烈に才能のある人が、元々強烈に才能があるところにもってきてさらにそのピーク的な境地に突入しているがゆえに万能感みたいなものに背中を押される形で嬉々として表現というものをしている時、俺は、そういう人は、性別を越えて、性別を越えた綺麗な顔になると思っている。
例えば、あの有名なPV「イマジン」を歌っているジョン・レノンの美しさったらないし、ウッドストックだかワイド島だかのライブで「シー・ミー・フィール・ ミー」を演奏、腕をグルングルン回してギターを弾き倒しているザ・フーのピート・タウンゼントの顔も別嬪だとしか言いようのないくらい綺麗だ。本来は英国ロック界屈指の不細工なただの鼻デカ野郎のはずがこの時の映像に限っては本当にうっとりするくらい綺麗だ。
俺にもそんな時期があった...とは言わない。恥ずかしくて口が裂けても言えないし、さすがに自分がそこまで才能のある人間だとは思っていない。本当です。ただ、俺みたいなもんでもバンドをやってた時、写真を趣味にしていた友人の友人の女の子に「あなたは私のフォトジェニックだ!」なんて言われたことがある。俺はその時「フォトジェニック」なる英単語の意味を知らなかったが、なんとなく有難いお言葉を頂戴しているということだけはわかったので「あ、ありがとうございまぁす!」とだけ返事したが、後でその意味を知った時、嬉しすぎて腰が抜けそうになったと同時に「にも関わらず何でこんなにモテへんねやろ..」と若干へこんだのを昨日のことのように覚えている。それに引き換え、今の俺はどうだろう。両目とも結膜炎になっちゃって、だいぶ赤みが引いたとはいえ目全体が情けなく腫れて水死体で発見される直前の、「ロックンロール・サーカス」出演時のブライアン・ジョーンズみたいになってしもてるし、このブログ上では喋りに喋るものの、普段はシリアスキャラを演じている時の竹中直人並みに無口だし、暇さえあれば酒ばかり飲んで、休日ともなればたちの悪いムッツリ自暴自棄野郎と化してしまっている。
何とかせねばなあ〜と思う。でも金もなけりゃ時間もなけりゃ根性もなくて..。
以前にも同じようなことを書いた。でもまた書く。何度でも書く。
「忙しい=偉い」という幼稚な考え方、これ本当に何とかならんのだろうか。自分の時間の作り方も知らない、下手をすれば自分の時間の使い方さえも知らない人間が「大人」だなんてちゃんちゃらおかしい。
「忙しい=偉い」と思っている人間は馬鹿だから、自分の時間を大切にしておおらかに生きている努力の人のことを分不相応にも、あろうことか上目線で馬鹿にする。「この怠け者が」的視線を飛ばす。「自分の時間」というものが理解できず、理解できていないことにも気付かず、ただただわけもわからず惰性的にイライライライライライライライラして他人に当たってばかりいる人間は「自己管理」という点において完全な怠け者だ。
「いや〜最近バタバタしててさあ〜」って、うるせえよ馬鹿野郎!ジタバタしてるだけじゃねえか。
俺が生まれ育った伊丹最北端。
俺が子供の頃は、近所に同じような年頃の子供がいっぱいいて、少し声をかければ20人〜30人はすぐに寄ってきて、大きな山の遊具がある桑田公園という公園で陽が沈むまで遊んだ。そして、夕方になるとそこら中の家から晩ごはんのいい匂いが漂ってきて、その匂いを合図のようにして、「俺、帰るわ」「私、帰るわ」と、一人また一人と家に帰っていって、公園はその日その日の役目を終えた。
夏になり、盆踊りともなると、夜というものに興奮しきった子供が走り回って、大人は大人で子供のような顔をして笑っていた。
気付けばあれから、あの風景から、もの凄く遠ざかった場所に自分はいる。周りを見渡せば疲れきって、常にイライラしていて、お互いに監視し合っているかのような目の泳がせ方をした大人が無闇に地面に影を落として、自分の落とす影に見入っている。
ものすごく優しい人が現れて、ものすごく優しい目で、ものすごく優しい声をかけながら背中をポンと叩けば、みんな、泣き崩れるんだろうなと思う。
「社会はそんなに甘くない」などと、子供の頃の心象を忘れきった物言いをする馬鹿な自称大人に読ませる文章はない。聞かせる本音はない。
俺は優柔不断な人間ではない。
野球というスポーツには実に多くの教訓が眠っている。そういう目、「何か、人生を考える上でプラスになる『何か』を得よう」という目でみると、頭の一部、俗に「つむじ」と呼ばれている部分から、教訓と呼べそうなものが一つ、また一つと飛び込んでくる。
で、今回、語りたいのは「連敗から抜け出せないのは何故か」ということであって、いわゆる、「連敗街道」の仕組みについてである。
「連敗街道」というのはなぜ生まれるのか。ということを考えるに当たっては、かつての、たけし軍団に負けた、弱すぎる阪神などを参考にしても何も見えてこない。あれは誰の目にもただの抜本的絶望的戦力不足が原因で、連敗街道は当然で、抜け出したければ幹部が動いて、金を出して、要らぬ選手を吐き出して、有能な選手を一人でも多く迎え入れれば済むだけの話だからだ。教訓となるのはそういったケースではなく、かなり良い選手を揃えている、はっきり言って優勝だって狙えるチームが連敗街道に陥ってしまうという不可解なケースについて考えた場合である。
考えられるのは「悪循環」である。そして、悪循環というものには必ず「悪習慣」が絡んでいる。したがって、悪習慣を断てれば、悪循環はおのずと断てるのだが、人間にとってこの「習慣」ほど厄介なものはなくて、そうそう簡単に断てるものではないから悪循環も断てなくて、気が付けば悪循環自体が習慣化してしまって、朝、新聞、朝刊をみたら俺、最下位だった...みたいなことになってしまうのである。
打つ手としては「カンフル剤」というのがある。「もう何らかの変化をのんびりと待っておるような時間はない。すぐに何とかせねば!」といった場合には有効な、全く別の角度から全く異質なものを持ち込むことによって、自分の各細胞に一喝、緊張感を抱かせるといった手法だ。
嗚呼、もはや野球の話ではない。人生において、この「カンフル剤」に何を持ってくるのかというのは極めて大きな問題だ。
俺は何をもってカンフル剤にしようか。ちょっとヤバめの、ちょっとキツめの物じゃないとカンフル剤にはならないが、ゆえにちょっとチョイスを誤るとえらいことになる。
「えらいこと」がカンフル剤になるのかもしれない。
二番目に向いているであろうことで、社会的にちゃんとやっていかないといけない。
二番目に向いているであろうことが金にならないと、一番向いていることができない。
一番向いていることが金にならない。二番目に向いているであろうことがなんとか金になる。
でも、俺が「二番目に向いていてくれ!」と願う世界には「これが自分に一番向いていること」と断言できる人たちがそりゃ当然のようにいて、そんな人たちには、当然、俺は敵わない。
二番目に向いているであろう世界で評価されないというのは独特に辛い感じがある。
そんなことは言われなくても百も承知だからだ。
俺のブログならではの斬新な試み「書込寺」。俺としてはこれを何としても定着させたい。
通常、基本的にブログというのは一方通行なもの。でも、こと和田一憩のブログに関してはそこんとこが違うんだよ。読者あってのブログなんだよ。というのを分かりやすく全面に押し出したいのだ。
勇気を出して、参加してみてください。返事は必ずします。今回の締め切りは10/24(土)です。
寺の前の石階段に遠い目をして座って煙草を吸いながら、皆さんのお越しを心よりお待ちしております。
今日、俺の書斎がある神社で秋祭りがとり行われる。夜店の人たちが朝から忙しそうに準備に追われている。
晴天。なんて平和なんだろう。
今日、俺は夜勤だ。ということは夕方、少しだけ、祭りに参加できる。
夕方、少しだけ来て、この神社に棲まう神様に、「俺、復活します。力を貸してください」って、手を合わせようと思っている。
一方、雲の上ではクリスマスはクリスマスで人一倍浮かれている俺を毎年のように見かけているジョン・レノンが呟いている。
「おい、一憩さんよぉ。和田一憩さんよぉ。お前に節操というものはないのか?だいたいお前は俺の曲「神」をちゃんと聴いたんか?お前の心の師たる俺の曲を、言葉を、都合よくアウトオブ眼中ってか?え?アウトオブ眼中って今や死語なの?そ、それは知ら...い、いや、知ってたよ。ユーモアやんか、ユーモア。ほら、レノンと言えばユーモア、みたいなとこあるやんか〜。いやホンマ、知ってたって!もちろん知ってたよ。だって僕、ジョン・レノン。でも、ま、なんや、その、要するに、お前の復活に関しては、なんていうかその...出来る限り応援させてもらうよ」
厳密に言うと、俺は音楽好きではない。俺はただただロックが好きなのであって、決して音楽が好きなのではない。
ハワイアンや、カントリーや、ユーロビートや、日本人のいう「R&B」は生理的に受け付けず、吐き気がするくらい嫌いだし、クラシックやジャズはなんだかよく訳がわからないわりには敷居の高い感じがあって、はっきり言って退屈だとしか思えないし、ブルースは「ブルース好き」を自称する胡散臭い奴らの雰囲気を思うとやはり吐き気がするし、サザンを代表とする歌謡曲の大半も「使い捨て感」があってこれ我慢ならない。
この国の人はなぜこんなにもロックを聴かないんだろう。みんな、もっとロックを聴けばいいのに。
ロックほど等身大な音楽、文化、思想はないのに。
好きになれば、あなたの人格や人生に沿った、あなただけのものになるのに。
4月16日に載せた『DNA』というタイトルの文章を皆さんは覚えておられるだろうか。これは、熟考の上、あえて「順不同」にはせず、ちゃんと順位を付けた上で俺の好きなバンド、アーティストBEST10を発表したものであった。
で、今回発表したいのは、いわばその最新版。『DNA』発表からちょうど半年を経て、日々の地味で地道な分析の末、導き出された俺の大好きなバンド、アーティストBEST10である...と言いたいところだが、なんと今回の選考には僅かに5バンドしか残らなかったのである。この5バンド以外、要するに「6位以下」にも好きなバンド、アーティストはもちろんたくさんいるが、彼らはみんな横並び、長所もあれば短所もあり、特に、俺の人格と人生の核的な部分にまでその魅力が絡み付いているかどうかといった点では上位5バンドには到底及ばない、ということにこの半年...いや、本格的に音楽を聴くようになった子供の頃から2009年の今現在に至る時間の中でついに気付いてしまったのである。
というわけで、以下に挙げる5バンドこそが、和田一憩という人間の音楽的創造力を支える、三國志で言うところの「五虎大将軍」である。この五人さえ、この五人の音さえ常に側にあれば、俺の音楽的創造力はもちろんのこと、音楽的探求心、そしてロックへの愛情が枯れることはない!
発表っ!!
ンバジャァァァ〜ン!(銅鑼の音)
英国はマンチェスターが生んだ世界中のロクデナシどもの希望、オアシス!
ンバジャァァァ〜ン!(銅鑼の音)
英国はリバプールが生んだメロディの神様、ザ・ビートルズ!
ンバジャァァァ〜ン!(銅鑼の音)
日本代表。京都が生んだ世界に誇る奇跡のロックンロールパンクバンド、村八分!
ンバジャァァァ〜ン!(銅鑼の音)
英国はロンドンが生んだロックンロールの神様、ザ・ローリング・ストーンズ!
ンバジャァァァ〜ン(銅鑼の音)
英国はグラスゴーが生んだメロディの天使、ティーンエイジ・ファンクラブ!
方向が定まった。あとは動くだけだ。
俺はやっぱり、バンドがしたい。
俺が職場で履いているベッポンセン(この言葉の由来は過去のブログ『ギリギリ』を参照の事)の写真。より心臓に近い左足の方にひとつだけ、この189円の「宝物」を取り付けて、日々、悪戦苦闘している。
この言葉が身体のどこかに張り付いているだけで、俺は、通常の俺よりだいぶ頑張れる。苦境に立たされた時など、この言葉をちょっと視界に入れるだけで「死なばもろとも」なり「南無三」なり、要するに「玉砕」と意味的に似通った言葉を心のなかでとっかえひっかえ叫びつつ、何とか踏ん張れる。
これまで通り、そしてこれからも、俺はこの言葉に救われながら、誤魔化し誤魔化し生きていくんだろうと思う。
誤魔化し誤魔化し生きる。
誤魔化し誤魔化しの何が悪いのか。誤魔化せるだけ有望。それもたった189円。たった189円で確実に明日を迎えられる俺の性質って実は決して捨てたもんじゃないんじゃないか?と、いうことを思わせてくれるROCK。
普通、自分を奮い起たせようとすればもっと金がかかるだろう。ただ、中にはおられるのかもしれない。「189円では節約になっていない。俺は128円あたりで自らを奮い起たせたいぜ」という見上げた節約魂の持ち主。そういう方はここをまっすぐ行って突き当たりを左、階段を降り倒してすぐの「FOLK」のドアを叩いてください。
「優しい」って最強だ。
旧友。地元、伊丹の学生時代の友人と呑んだ。久しぶりに会えてものすごく嬉しかったし、ものすごく楽しかった。が、会話の合間合間に昔にはなかった沈黙があって、皆、所々で重い表情を隠し得なかった。皆、そんな歳になった。
解散後、強烈に寂しくなって、駅構内のコンビニに立ち寄ってビールを購入、ビールを口にしながら電車に揺られて家路についた。
我が家の冷蔵庫に見覚えのない絵が貼られていることに気が付いた。2才になる娘が俺が旧友たちと酒を酌み交わしている間に描いた俺と俺の奥さんの似顔絵だった。
俺の似顔絵にはちゃんと髪があって、眼鏡を意識して描いたと思われる目があって、唇があった。
涙が出そうになった。
奥さんにビールを一缶、譲ってもらった。
昨日、梅田のかっぱ横丁内にある、人相占いの店の前を通りかかって、足が止まった。
何種類か人の顔の絵、人相の絵が貼り出されてあって、その中のひとつがまさに俺だったからだ。
各絵の下にはその人相の特徴が箇条書きされていて、俺のにはこう書いてあった。「眉の端に乱れがあり、瞼は二重で、睫毛がしっかりと生えている」この箇条書きだけ見ると、実に曖昧だが、とにかく、絵が完全に俺だったのだ。
俺は一体いかなる相、運命を持って生まれたのか。興味津々。とりあえず読んでみたら、以下のようにあった。
「邪恋型」・・・不可能な夢を追い続け、叶わぬ恋に身を焦がし、終いには身を滅ぼす相。
笑ってしまった。
書込寺への参拝、感謝します。
たぶんあんたはあのひと。俺がよく知っている人。あんたも俺のことを子供の頃からよく知っているし、あんたも俺も鴻デパでプラモを買ったことがある。
以下、あえて短い文章をお返しします。
ノエルの「次」も、リアムの「次」も、あんたの「次」も、俺の「次」にとって必要不可欠なものです。
そして
ノエルの「次」より、リアムの「次」より、あんたの「次」より、俺自身の「次」より、その隣の良き香りのするお姉さんが美人だったのか不細工だったのかが気になっている俺は駄目です。
俺がビートルズのアルバムで死ぬまでかたみ放さず持っていたいのは、聴き続けたいのは「A HARD DAYS NIGHT」だけだ。あとはいらん!
以上!
「本音を言え」みたいなことを「お前の為に言ってやってんだ」みたいな顔をして言う馬鹿がいる。
「本音を言え」などと促されただけで本音を言えるくらいなら、「本音を言え」などと言われている人間は元々「本音を言え」などと言われるような人間にはなっていない。
そもそも「本音を言え」って、自分が何を言っているのかわかってるんだろうか。たぶんわかってないんだろうな、馬鹿だから。
人間の「本音」というものを見くびり過ぎている。だから、ま、人に「本音を言え」みたいなことを安易に言える奴の本音みたいなもんは、どれだけ高く見積もってもせいぜい50円くらいのもんだろう。馬鹿だから。
もし俺が分不相応に偉そうな顔をした奴に「本音を言え」と言われたら、「ホンマにええの?」と158回くらい訊ねた上でただ一言、「死ね」と答える。
「今何てゆうた!」キレるんでしょうな、馬鹿だから。
ヤバイな...と思う。
ちょっと気を抜くとすぐに気が重くなる。
ほんの数年前まで俺はもっと笑う人間だったし、しゃべる人間だったのに、今じゃふと気が付くと俯いて無口になってしまっている。
笑うと、しゃべると、足元をすくわれる気がしてならない。笑った分、しゃべった分、「あなたはこれだけ笑ったんだから」「あなたはこれだけしゃべったんだから」と、笑ったこと、しゃべったことの代償に何らかの責務を負わされそうな気がしてならない。
ちっとも楽しくない。
書込寺へようこそ、マスキィ!そして、新バンド始動おめでとう。
まず「エレキテル1.3」ってバンド名がマスキィ流に言うところの「イカしてる」、俺流に言うところの「ファッキングレート」やね。あと、3ピースで紅一点がおるというのも素晴らしいね。マスキィのことやから音的にも問答無用にロケンローなんやろな。想像するだけで楽しいし、マスキィがまだ最前線でバンドをやってるってことが、ものすごく羨ましくて、ものすごく嬉しいよ。
今回は俺、どうにもこうにも観に行かれへんけど、そのうち必ず観に行くからガンガン前進してって!
愛読者の皆さん、俺が「ロック馬鹿」ならこのマスキィという男は生粋の「ロックンロール馬鹿」です。彼ほど「ロックンロール」という言葉が似合う男はおりません。是非ともライブに足を運んで、彼の熟成された強烈なロックンロール愛を体感してみてください。よろしく!
台風にさらされて座ることもままならない俺の大切な書斎の周りを「マヌケ」の文字を顔に浮かべた鳩どもがうっろうっろうっろうっろしている。
何が平和の象徴だ。ただのマヌケな浮浪者じゃねえか。
ジョン・レノンが書いて、レノンの死後十数年後、残されたビートルズの面々が奇跡の再集結を果たして、レノンのデモ音源に音を重ねて「ビートルズの新曲」として発表された名曲「FREE AS A BIRD(鳥のように自由に)」の「BIRD」に鳩が含まれていないことを心から祈る。
こいつら鳩は中国では普通に食卓に並んでいる。が、レノンが英国において普通に食卓に並んでいるという話は聞いたことがない。
丸眼鏡は喰えない。丸いから喰えない。
そりゃ俺だって人の子、鬼じゃないんだから、たまには面と向かって人に優しい言葉のひとつやふたつはかけたりもする。
そして、そんなごく稀に人に優しい言葉をかける時だけ、自分の声が自分の母親の声になっていることに気付いて驚いた。
一般的な解釈としてはやはり、大半、いや、全体の9割を占める人間は「凡人」ってことになるのだろうか。
俺は世の中に凡人なんていないと思っている。全ての人間が実は何かしらの天才だと思っている。ただ、問題は自分が何に関して天才なのかに気付けるかどうかであって、幸運にも気付けた場合には、自分をちゃんと自分の能力を発揮できる場所、自分を天才たらしめる場所に連れていけるかどうかだと思っている。
いつの日も、自分にとって最大の理解者は自分で、自分は自分が絶えずしっかり期待してやって応援してやらないと結果を出さない。
150本目に到達した。150、なかなかに記念すべき数字だと思うし、我ながらものすごいペースで書いてきたと思う。だから、ここで一発、デカイ花火を打ち上げたいと思います。今、爆発的に思っていることをドカーンと一発。
静寂。
俺は俺の友人たちのことが大好きだ!俺は俺を友人だと思ってくれてるみんなのことが大好きだ!死ぬほど好きだ!俺の財産だ!宝物だ!みんな頑張れ!っていうか踏ん張れ!負けるな!負けてくれるな!あんなアホどもに負けてくれるな!あんたらはイケてる!大丈夫、イケてる!
そういえば以前、「俺のCDウォークマンが壊れた...」という絶望的な文章を載せたが、その後、俺のその辺が、死活問題が、どうなったのかを報告します。
結論から言うと奇跡が起こったのだ。
全く嬉しくない給料日の翌日。新品にはとても手が届きそうにないので、近所のガラクタ屋に赴いたところ、定価で買うと¥15000はするソニーのウォークマン(厳密に言うとソニー以外の会社が作ったものは「ウォークマン」ではないのだ。「ウォークマン」はソニーの登録商標やからね。いわゆる「ブランド」やね)をたった¥1000で手に入れたのだ。しかもそのガラクタ屋のガラクタみたいなオッサンは「これも付けたるわ」と実に面倒臭そうに、恩着せがましく言うと、これまたソニーの、定価で買うと¥6000くらいするウォークマンをオマケとして添えてくれたのだ。
愛読者の皆さん。中でも、俺の作る音楽を気に入ってくれていて、俺のことを「ロック馬鹿」としてしか捉えようとしない、俺にとってはどこまでも有難い、かけがえのない皆さん。俺はそのガラクタみたいなオッサンのお陰で、日々、ちゃんと音楽を聴けてるし、日々、ちゃんとロックを学べています。
皆さんの生活同様、俺の生活にもごくごくたまに、妙な被り物を着た天使が現れます。
何か新たなことを始めた場合には、その初回と二回目との間に極力ブランクを作らない、というのが俺のポリシーだ。
というわけで、早くも「書込寺」、第二会を開催します。
前回同様、書き込みの内容は一切問わないし、もちろん、匿名での参加大歓迎です。
今回の締め切りは10/13(火)となります。皆さんの勇気に期待します。よろしくお願いします。合掌。
最近、突然、居ても立ってもいられないくらい寂しくなる時がある。その都度、心があまり美味くない居酒屋で出てくる、実際より若干重く見える、全く食欲をそそらない「キモ」みたいなことになっている絵がイメージせられて、グゥーンと低い音が聞こえて辛くなって、絶望的に人恋しくなって、例えば朝、仕事なんてブッチして、京都なり神戸なり伊丹なりに単身出向いていって、ビール片手に目標なく歩き回ったり、座り込んだりしたいという社会人として0点な衝動に駆られる時がある。
3日でいい。好きに、だらしなく過ごしたい。
俺はこんなキャラだから、日々、結構ぼんやりしているように見えるかもしれない。日々、結構のんびりしているように見えるかもしれない。日々、ほどよく息抜きをしながら生きているように見えるかもしれない。
世の中には「誤解」という言葉がある。自分の中の定規的なものを信じて疑わず、基準として人を計るから誤解が生まれる。それこそ前述の「優等生」と呼ばれる人たちは、日々、誤解の連続だと思うし、ゆえに周りからも誤解され続けるんだろうと思う。
何をどれだけ得れば満足なのか、何をどれだけ我慢すれば不満なのか、その許容範囲は人それぞれ違うはずなのに、この世の中は問答無用に、さほど査定せずに、とあるパターンを、人種を、「例外」と呼んで外へ外へ追いやろうとする。「例外」は世の中の菌か?
巷に「除菌・抗菌・殺菌」の文字が溢れかえっている。売り文句として溢れかえっている。
かくして人体は弱くなる。
ピンポーン。
宗教の勧誘にきた人の額には必ずと言っていいほど「助けてくだちゃい」と書いてある。
たまに絵に描いたような「優等生」がいる。ルックスもイケてりゃ、社会的ルールにも精通していて、何をやらせても他人より器用に、涼しい顔をしてこなす、俗に言う「できる人」、俺の言う「地に足のつきまくっている人間」がたまにいる。
俺はそんな「優等生」が持っているものの全てを持っていない「絶望的に地に足のつかない人間」。ただ、そんな「優等生」が唯一、持っていないもののみを俺は持っている。
「優等生」は皆、俺みたいな人間をものすごく苦手とする。不可解過ぎて、どう接したら良いのかわからないといった感じの表情を浮かべて困惑して、一週間もすれば目を合わせようともしなくなる。
「優等生」が唯一持っていないもの―俺、思うに「表現」というのは、理論的なものから逸脱すればするほど、ルール的なものを無視すればするほど、面白いものができると思う。例えば、「言葉」なんてのはその一番良い例で、存在自体がルールの塊みたいな物だけに、壊せば壊すほど面白くなるし、壊して断片を並べて遊べば絵だって描けてしまう。そして、さらにこの絵に「語らせる」という離れ業をやってのけることが出来た場合には、もっともっと面白いことになって「作品」と呼べるものになる―この社会的に上手く生きていく上では全く何の役にも立たない感覚、能力においてのみ、俺は「優等生」よりも優れている。
彼ら「優等生」から見れば、俺みたいなもんは「なんでそんなんで生きていけるんやろう?」的疑問を抱かずにはおれない存在だと思う。でも、俺は「それはこっちの台詞だ」と思う。
昨日、友人と語らった。そしてその友人が身近なとある「優等生」に対してただ一言「(生きてて)なにが面白いんやろうと思う」と言った。笑ってしまった。
「土踏まずしかない人間」と、「土踏まずがない人間」とでは、「土踏まずしかない人間」という表現の方が圧倒的に面白い。
最近のコメント