大阪在住のうたうたい&絵描き&詩人 和田一憩(わだいっけい)のブログです。最新情報も随時配信していますので要チェック!!です。 携帯サイトはコチラ

2009年6月アーカイブ

先日のライヴでも演奏した『金平糖』という曲を俺はものすごく気に入っている。この曲は俺にとって通算39曲目のオリジナルで、記念すべき通算40曲目となった新曲「FLOWER」の一つ前に書いた曲である。

怪しい。コード感がいい(音楽理論とかを学んだ人にはまず浮かばないコード進行)。歌詞がいい。メロディと歌詞が無理なく絡み合ってる。にも関わらず過去2回のライヴではライヴ後、誰一人としてこの曲については触れてこなかった。ってのがまたいい。

『金平糖』こういう曲が書けた時に俺は「まだまだできる」と思う。ウケようがウケまいが思う。『青空』やそれこそ『FLOWER』みたいな曲を書いた時の満足感とは似ても似つかない、実に個人的な、独特な満足感がある。そして俺にとって重要なのはこの『金平糖』を書いたあとに『FLOWER』みたいな曲を、歌詞を書けたということ。この振り幅が俺にとってものすごく大切なことで、この振り幅がある限りは俺は「表現」ということをやり続けてもいいんだろうな、バチは当たらんのだろうなと思える。

次のブログで『金平糖』の歌詞を載せます。そして、その次のブログで『FLOWER』の歌詞を載せます。俺の言わんとしてることがなんとなくでも理解ってもらえたら幸いです。

4度目のソロライヴ、無事終了。観に来てくれた皆さんと、観に来たかったけど来れなかった皆さんの気持ちに心から感謝します。

観に来てくれた人達にはライヴの模様をいま一度思い出していただくために、観に来れなかった人達にはライヴの模様を想像して楽しんでもらうために、当日演奏した曲目を発表しておきます。

〈本編〉

1/妄想狂冥利

2/金平糖

3/ドライフラワー

4/アニマ

5/FLOWER(新曲)

〈飛び入り〉

6/ハングリーマン

以上6曲でした。

★追記★

飛び入りでヨハヒフの太田くんが一曲披露してくれました。歌う前に「一憩さんみたいな曲を書こうと思って書きました」とコメントしてくれてめちゃくちゃ嬉しかった。めっちゃ良い曲やったしね。心から感謝しております。

次の一缶を口にすれば楽しくなるような気がする。

次の一缶を口にすれば楽しくなるような気がする。

次の一缶を口にすれば楽しくなるような気がする。

次の一缶を口にすれば楽しくなるような気がする。

次の一缶を口にすれば楽しくなるような気がする。

次の一缶を口にすれば楽しくなるような気がする。

次の一缶を口にすれば楽しくなるような気がする。

次の一缶を口にすれば楽しくなるような気がする。

次の一缶を口にすれば楽しくなるような気がする。

次の一缶を口にすれば楽しくなるような気がする。

一年365日。ほぼ全日、360日くらいは負けながら生きている。今日も負け、明日も負け、明後日も負け。言いたいことを言うのも怖いし、やりたいことをやるのも怖い。

10主張すれば100主張し返される。

楽しい時間の後には必ずものすごく楽しくないことが起こる。晴天の下で嵐の前触れを探してしまう。楽しい時間を過ごすというのは罪なことだから当然、罰がくだる。

10主張すれば100主張し返される。

俺の歌は絵は文章は負け犬の遠吠えだと思う時がある。でも犬が吠えて何が悪いのか。犬に喋らせようとするアンタに噛みつこうとして何が悪いのか。





俺は「ごはん!」だなんて言ってない。

あれよあれよと3日後に迫ったライヴ。会場である音太小屋へはどうやって行けば良いのか。PCや携帯で調べることのできない人がいてはいけないので、一応、簡単に説明しときます。簡単ではあるがこの通り動いてもらえれば確実に来れます。

まず、天六界隈に一店舗だけある「ゲオ」。この「ゲオ」の道路を挟んで真ん前にある「ファミマ」まで来てください。「ファミマ」の前まで来たら天六商店街のある方向とは逆方向に、右を見ながら真っ直ぐ歩いてってください。途中、焼肉の「岩崎塾」やら、百均「ローソン」などの前を通って、「音太小屋」の看板にたどり着いたらゴールです。もうひとつ目印としては、「音太小屋」のものすごく近くに「天下一品」があるので万が一、道に迷った場合には参考にしてください。

ちなみに「ゲオ」へは、地下鉄で来られる方は1番出口を上がってください。「ファミマ」の真ん前に出ます。環状線の天満駅から来られる方は、改札出てすぐの天六商店街内を右に真っ直ぐ、「マクド」などのある商店街の入口まで突っ切ってください。そこから右手を覗きこむと「ゲオ」がございます。

以上。

俺は自分にとって重要なライヴが近づくと決まってビートルズのライヴDVDを観る。意識的にではなく、気が付けば観てしまっているといった感じ。

一本のマイクを挟んで、向かって右にジョン。左にポール。この絵はいつ観ても神々しく美しい。

右の男は人類史上最もロックンロールを愛した男であり、左の男は人類史上最もロックンロールに恋した、恋し続けている男である。

そういえばよく「恋と愛の違いは?」ってな台詞を耳にするが、俺の考えを述べさせていただくと、まず絶対的に言えるのはどちらが上でどちらが下といったものではないということだ。一般的には恋が成長して愛になるのだから、恋よりも愛の方が上だということになるのかも知れないし、恋が子供でも持てるものなのに対して、愛はある程度歳をとった大人にしか持てないものだとする考えがあるのかも知れないが、俺はそれは違うと思う。恋と愛はそもそも別物、種類の違いなんだと俺は思っている。どちらも重いし、どちらも極端に魅力的で、基本的には人を「生」に向かわせるが、たまにその真逆方向へ追いやってしまったりすることもある。そんな「力」だと思う。

例えば、愛は自分の親に対する気持ちだと言えると思う。自分の血や肉の部分に絡み付いていて、ちょっとやそっとではほどけない、あの人達がいなければ自分はなかったという認識。自分にとって物凄い大事な存在。かと言って、あの抱きしめたい、キスしたい、正直ヤリたい娘と同じくらい常に親と一緒にいたいのかというとこれは全然違う。例えが若干下品で申し訳ないが、たぶんそういうことなんだと思う。自分の中に無い、無いがゆえに物凄く魅力的に見える物凄く魅力的なものを持っている人やものに対して抱く力が恋なんだと俺は思う。

俺はよく「俺的には愛がビートルズで、恋がオアシスだ」と言うが、なんとなくでも理解していただけるだろうか。ビートルズの音楽と存在は俺の血や肉に絡み付いてしまっている。その影響はちょっとやそっとでは拭えるものではない。手遅れ。が、今現在、しょっちゅう聴くかと言うとそうではない。はっきり言って全くと言っていいほど聴かない。しかしオアシスはあの音楽はもちろんのこと、あの兄弟の持っているものというのは、俺が一番持ちたくても持てないもので、常に聴いていたい、一緒にいたいと思う。この気持ち、この分析、わかっていただけるだろうか。

ま、誰が何と言おうが恋と愛、俺はそんな風に捉えている。ただ、本当に一番強烈なのは恋単独でも愛単独でもなく、自分の気持ちがとある対象に対して恋でもあり愛でもある場合だと俺は思っている。

俺にとってそれはロックだ。ロックだ。ロックだ。3回言うたった。

音太小屋でのライヴ。俺が出るのは5番目、16時予定。

「スイーツ」...日本人丸出しのくせに何をぬかしとんねんボケ。

「パスタ」...スパゲティと言え。スパゲティと。ただしスパゲッティとは言うな。スパゲティと言え。

「婚活」...やってる時点でみっともない。性的魅力ゼロ。最低。結婚ってそういうことじゃねえだろう。そんなこともわからねえのかクソ野郎。

コメントありがとう!

そっか、28日はマスキィもライヴか。想像力を楽しく膨らませて考えたら、当日はちょっとしたロックフェスやね。神戸ではマスキィが新バンドを率いて登場。観客は「ロケンロー!」と叫んで拳を突き上げて笑顔。日頃の鬱憤を晴らして身軽になって帰途につく。一方、大阪では俺が久々のライヴ。観客は「...!」と唸って肩を落として笑顔。何やようわからん不可解なものを背負って身重になって帰途につく。後味は違えどいずれもロック。さあ、あなたはどっちに行く?みたいな。

俺らが一緒に音だしたら結構面白いもんができると思うよ。前から思ってることやけどね。

また飲もう!で、今度は勝負するんじゃなくて一緒に音出そう。よろしく!

遊びたい。

俺はあんたといずれ出逢う。

俺はあんたが社会的なルールやマナーに疎く、社会人として多少残念に仕上がっていてもちっとも気にしない。あんたがええ奴ならそれが全てだ。

俺の友人観は「量より質」ではない。かと言って「質より量」でもない。「量も質も」だ。

あんたはイケてる。その残念な部分も含めてイケてる。

28日のライヴにはチケットというものがない。その代わり、このブログの読者の皆さんの中でライヴを観に来てくれる方々には是非とも持ってきていただきたい物がある。

「約束」である。

何を約束していただきたいのかと言うと、28日は絶対にこのブログの事を口にしないということを約束していただきたいのである。

28日に音太小屋を訪れるのはこのブログの読者の皆さんだけではない。だから本来であれば俺はステージの上からでもこのブログの存在を大々的に宣伝して読者層の拡大にこれ努めるべきであるし、それがこのブログを作成、管理してくれている剣吾くんへの礼儀でもあるが、今はまだそのタイミングではないというか、今すべきはこのブログをこのままの形で死守することだと俺は個人的事情を踏まえて強く強く思っておるのです。

以前、申し上げたようにこのブログは俺にとって最後の砦であり、同時に秘密基地でもあります。まだまだ歴史が浅く強度に不安の残る最後の砦です。今、安易に世間の風にさらすような真似をして、俺は、俺の言葉を吐き出す唯一の場を失いたくないのです。

28日は「約束」を持参のうえ、ご来場ください。よろしくお願いいたします。

ジョン・レノンやカート・コバーンの苦悩はカッコ良い。それに比べて、俺の苦悩はどうしてこうカッコ悪いんだろう。彼らの苦悩は絵になるのに俺の苦悩は全く絵にならない。

たぶん、彼らの苦悩が金では解決できないものであるのに対して、俺の苦悩みたいなもんは金さえあればほぼ解決してしまうものだからだと思う。そこんとこの違い。天と地の差。

金がないって最低だ。全く絵にならない。もう本当に絶望的にカッコ悪い。働けど働けど金がない。感覚的には時給25円。給料日がちっとも嬉しくない。

苦悩は苦悩。背負っていると死ぬほど重くて惨めで辛いのにただただカッコ悪いだけ。金がなくて良いことなんて何もない。金がないってのはすなわち、金がないってことで、そこから何も生まれない。金が腐るほどある中でのジョンやカートの苦悩は何かものすごいものを生むような気もするし、崇高な感じがするが、金が死ぬほど無いという俺の苦悩はただただ貧相でみっともないだけだ。





小室哲哉は「音楽で罪を償いたい」と言ったが、音楽はこんな馬鹿野郎を許して、再び食わすのだろうか。俺には10円玉一つくれないくせに。

あなたをあなたの意思を完全に無視して俺のコアなファンに認定します。

ガガーリン、アニマ、檸檬。素晴らしい並び。ドンジャラ。俺としては嬉しい限りのリクエスト、選曲です。

「アニマ」は10年以上前に書いたかなり古い曲で、バンド時代に数え切れないくらいの回数演り倒したにも関わらず、飽きるということが全くない、ソロ転向後のライヴでも欠かせない曲だし、「檸檬」はソロ転向後に書いた曲の中でも特に気に入っていて、過去3度のソロライヴでは毎回欠かさず演ってきたし、「ガガーリン」に至ってはリプライズ解散直後に書いて、結構気に入ったがゆえにレコーディングまでしたにも関わらずまだ一度もライヴで演ったことのないレアな曲。早い話、3曲とも今回のライヴのセットリストに入る可能性があります。

なんだかんだで約二週間後に迫ったライヴ。セットリスト、熟考して今日中に決定しようと思っております。

もし自分以外の誰かになれるんだとしたら、俺は迷わずリアム・ギャラガーになる。リアムになりたい人って結構いるんじゃないかと思う。特に男は。

言いたいことを言う。やりたいことしかやらない。他人の意見は知ったこっちゃない。気に食わない奴はとりあえず殴る。自分の事が死ぬほど好き。好きなものや人に一途。自分で自分が賢い人間だとは微塵も思っていないので、音楽に関すること以外では、でしゃばった行動や発言はしない。ルックスがイケてる。女には優しい。兄貴には弱い。抜本的に滅茶苦茶。そして、自他共に認める世界最強のヴォーカリスト。

彼に比べたら俺みたいなもんはただのオカマだ。

皆さんはお気付きだろうか。って俺も今気付いたんやけど、ちょっと前に書いた「自動車ぎらい」と、一本前に書いた「融合させる」は基本的に同じことを言ってる。でも「自動車ぎらい」を書いた時よりも「融合させる」を書いた今現在のほうが俺は精神的にずっと安定している。それこそ本当に「見えて」きてる気がしている。

でもそれも、この安定感も、実は一つの秘密の上に成り立っている。この秘密がバレたら崩れたら...想像もしたくない。だいぶ前にも書いたように、俺は良くも悪くも精神年齢16。

「人生万歳!」なんて口が裂けても言えない。たぶんそんな歌は死ぬまで歌えないだろうと思う。

そうか、そういうことか。と思った。

例えばジョン・レノンは「問題に対する答えは、その問題とは全く別のことを考えている時に浮かぶ」と言っていた。

例えば北野武は「2つのことを並行してやる。振り子みたいに2つの間を行ったり来たりすることで面白いものができる」と言っていた。

最近ダラダラ考えていたことにちょっとだけ答え的なものが出た。

夢世界と現実世界を別々のものとして捉えずに、2つの世界の間に壁を拵えずに、合体、融合させて一本のレールの上にポンと置いてやるような生き方ができれば今より随分楽に楽しく生きていけるのではないか?ということを思ったのである。現実世界に夢世界のものを持ち込んで、夢世界に現実世界のものを持ち込んで、実際には2つのことを並行してやってはいるが、自分の中で意識しているレールは一本。この感覚を時間をかけて自分の中で熟成させていこうと思う。

ちょっとだけ「見えた」気でいる。

ごめん。中山秀征が好きになれない。

萬田久子ってブサイクだ。

昔から俺は何かと擬人化する癖がある。この癖、自分らしくて気に入っている。

小学生の時、俺はサッカーが好きだったのだが、自分の中で燃える試合が翌日に迫ると風呂場で、浴槽の中で、効き脚である右脚に「明日、頼むで!」などと話かけていたし、音楽をやり始めたらやり始めたで自分のギターに名前を付けては愛でてきた(例えば、リプライズ後期に使用していた黒いレスポールは「ドロンジョ」と呼んでいた)。

この癖は今も治らない。気に入ってるんだから治す必要はないわけで、今、俺は自分の左腕を「西山さん」と呼び、右腕を「村本さん」と呼んでいる。西山さんも村本さんも女性で、仕事上の尊敬すべき大先輩であり、ごく短期間の内に二人との直接的な関わりはなくなってしまったが、それでも俺がこの二人に出逢って得たものは計り知れないものがある。

西山さんは職場で出逢った。いつも目がキラキラしていた。身体が小さく細かったが、多分に肉体労働的な要素を含むこの職業を流れるようにこなす凄い人だった。俺はその流れるような動きを見て心ひそかに「南斗水鳥拳の西山さん」と呼んでいた。一方、村本さんは実際に先生として、俺にこの仕事のやり方、考え方を教えてくれた人で、かなりシリアスな事柄について語る場合にも「ま、私みたいなもんが言うのもなんやけど」的ニュアンスがあって、いつも砕けた感じの物言いをしたが、その根底にはいつもこの仕事に対する深い深い愛情が見てとれて俺はこの人の授業が大好きだった。柴田理恵を少し可愛くした感じのガッチリした体格の人で、プライドと愛嬌が絶妙に絡みあったような独特なオーラを放っていた。

今、仕事帰りの電車の中でこの文章を書いている。今日も右腕(村本さん)と左腕(西山さん)は俺の一部として頑張ってくれた。

次のライヴで俺はもちろんギターを弾くが、その際、コードを押さえるのは西山さんで、ピックを持ち、弦をかき鳴らすのは村本さんである。ほんのつかの間ではあるが、西山さんと村本さんに仕事のことを忘れていただいて、ジョン・レノンやノエル・ギャラガーのいる俺のフィールドに案内して差し上げようと思っている。

コメントありがとう。一緒にバンドをやってた時同様、選曲に苦心しております。何しろ40曲の中から5曲選ぶわけやからね。

剣吾くんで思い出したけど「クリスティン」って曲もあったねぇ。検討します。

それにしても「弾き語り」。この貧乏臭い名称何とかならんのだろうか。何故「語り」なのだろうか。うたうたいは歌うのであって叫ぶのであって囁くのであって、断じて「語る」のではない。もし仮に、南こうせつが素人目にも高級そうな例のアコギを自慢気に撫でるように弾いている前で、瀬戸内寂聴がイヤらしい笑顔を浮かべつつ「私も平民」などと仏教について語っておればこれは、この気持ちの悪いコラボは、「弾き語り」だと思う。

あれ?いや、違うな。これは「パンク」です。この気持ちの悪いコラボの場合はラモーンズ以来とも言える純度100%のパンクであって、「弾き語り」の真逆を行くものです。

じゃあ「弾き語り」って一体何なんだ?例えば誰がそれをやってるんだ?と熟考した結果、頭に浮かんだのが長渕剛、その人である。彼こそが「弾き語り」そのものである。ソロ形態であろうがバンド形態であろうが、形態に関わらず、彼こそが「弾き語り」である。

まず彼は音楽がさほど好きではないに違いないので、生まれてこのかた音楽らしい音楽を聴いたことがないに違いない。したがって、メロディというものがわからない。「メロディ」はスイス在住の小さな女の子か何かの名前だと思っている。しかしながら彼はカリスマ。説教がしたい。で、気が付けば一撃Tシャツを着て、南こうせつよりも高そうなギターを「壊れろ!」などと叫んで無闇にかき鳴らしながら、たまに瓦などを叩き割りつつダラダラダラダラ説教をしている。そんな熱血漢、長渕剛。かれこそが「弾き語り」で、彼のやってるようなことが「弾き語り」である。





弾き語るくらいなら死んだ方がマシだ。

リクエスト、感謝します。

「ストーカー」ときましたか。「ドライフラワー」と同じく生誕10周年を迎える、制作した記憶の一切ない、一瞬の閃きから生まれた、自画自賛、疑いの余地無き名曲です。が、申し訳ない。結論から言ってこれは十中八九演らないと思います。なぜならこの曲をアコギ一本スタイルで演るというのは、よっぽどのアレンジが浮かばない限りダダスベりに終わる可能性が極めて高いからです。俺が書いたものの中でもこの曲だけはバンドサウンド無くしては表現不可かと思われます。

「ストーカー」に頼らなくとも、ロックなライヴになるよう最善を尽くします。大丈夫。俺は「弾き語り」をする気は毛頭ございませんから、はい。

やっぱりオアシスだ。最高だ。文句のある奴はかかってこい!

先日、彼らのファッキン・グレートなニューアルバム、聴けば聴くほど味が出るいわゆる「スルメ盤」の中のスルメ盤、早い話が傑作、「ディグ・アウト・ユア・ソウル」から3枚目のシングル「フォーリング・ダウン」が発売された。2曲目に新曲が収録されているがこれはまあどうでも良い。正直、「あれ?」だ。が!3曲目と4曲目が凄い。もの凄い。両方ともタイトル曲「フォーリング・ダウン」のリミックスなのだが、これがもの凄いことになっている。特に3曲目は20分にも及ぶ、正当に評価されればリミックス史上に残るであろう大作で、聴く人の血と肉をかき混ぜて、そうやって20分の長きに渡ってかき混ぜておきながら最終的に便器に叩き込んでおるかのような恐ろしくもの凄い出来。そして4曲目は一転して極めてシンプルなギターロックアレンジ。サイケ色の強い原曲からサイケ臭を取り払って、シンプルなバンドサウンドに仕上げていて強烈にカッコいい。

このブログの愛読者の中にもオアシスファンの一人や二人はいるだろう。

買いましょう。聴きましょう。死にましょう。

リクエスト、ありがとう。ここにコメントを寄せるというのは想像以上に勇気と根性を要するものらしいのに、あなたはそれをやってのけた。あなたの勇気と根性に心からの賛辞を送ります。





ドライフラワー。この曲を書いたのはたしか22歳の時。当時、俺は数年間に渡って過去の恋愛を女々しく引きずっておって、「終わっても美しい」もしくは「終わったがゆえに美しい」といった意味を込めてこの極めて痛々しいラブソングに『ドライフラワー』なるタイトルを付けたのであった。この曲はバンドを本格的にやり始めた頃から特別人気が高かったので今まで数え切れないくらいの回数演奏した。にも関わらず、奇跡的に、俺が部屋に立てこもってアコギ一本で書き上げた瞬間の形から一切アレンジが変わっていない、いわば一憩度100%の曲である。

10年前に書いた曲がリクエストされるというのはとても感慨深い。「ドライフラワー10周年」か。やるかもしれんな、これは。

プロフィール

いっけい

ビートルズ好きの両親の元、ビートルズを子守唄に育ち物心が付く前から音楽に慣れ親しむ。
学生時代からいくつかのバンドを結成し関西を中心にライブに明け暮れる。
現在はソロでの音楽活動に加えイラストも手掛けるマルチアーティストとして活動の幅を広げている。

いっけいの楽曲が聴ける!! MySpaceはこちら

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