大阪在住のうたうたい&絵描き&詩人 和田一憩(わだいっけい)のブログです。最新情報も随時配信していますので要チェック!!です。 携帯サイトはコチラ

2010年9月アーカイブ

『優越感』という毒も、『劣等感』という毒も、そうそう簡単に抜けるものじゃない。

人に劣等感を植え付けることで優越感を得ている人間も、そんな優越感に依存している人間に劣等感を植え付けられて、何か他のものに救いを求める人間も、田代まさしを笑う資格はない。

と、思う。

「許せない」というのは、「背負う」ということで、「許す」というのは「解放される」ということだろう。

一人を許せないと、一人の人間を背負うことになるし、二人を許せないと二人の人間を背負うことになる。そして、記憶は時に悪霊と化して自分にのし掛かってくる。

だから、キリスト教でいうところの「汝、敵を愛せ」というのは「その方がアンタの為でっせ。だってその方が楽でっしゃろ?」ってことなんだと思う。

キリストはんはなかなか良いことを言うてはる。でもいかんせん言い回しが回りくどい上に硬い。関西弁でストレートに語ってくれはったらもうちょい理解できるのにな、残念!と思う。

キリストはん、天六に「繁盛亭」っていう寄席があるさかいにそこに足を運んで落語を学びなはれ、関西弁を学びなはれ。

それから語りなはれ。聞いたるから。

「考える」ということを止めないといつまで経っても眠れない。

普通、「悪夢」っていうとどんな感じなんだろう。

どんな感じですか?

俺の悪夢には狂人が付き物だ。悪夢=狂人だ。

なんでですか?

そういえば昨夜、奇妙な夢を見た。

学校の卒業記念行事(中学の時の同級生が大勢出てきた)らしいのだが、毎年行われるわけではなく、何年かに一度行われる『楽しい行事』とのことで誰かに「ツイてるなあジブン。そういえばジブン今日誕生日ちゃうん」などとよくわからないことを言われて参加した。

ある場所にみんなで行く。と、赤い光線がみんなを照らした。不思議なことにこの赤い光線に照らされた部分だけは完全に60年代の英国で、何かにつけてビートルズが出てきて、同級生たちもみんな笑顔で楽しそうだった。でもそのうち、この光線を作り出す機械の故障とやらで、赤い光線とは別に青い光線が見られるようになってきた。赤い光線も青い光線も光源が固定されてなくて、まるでスポットライトのようにせわしなく動きまわる。赤く照らされている空間は相変わらず60年代英国テイストに溢れていて、ビートルズがそこら中にいて、みんな笑顔で楽しそう。でも青く照らされている部分はまるでこの世の終わり。中世ヨーロッパを舞台にした極端にグロテスクなホラー映画みたいな光景になって、この青い光線に照らされた同級生は皆、完全な人殺しと化してしまう。赤い光線に照らされて笑顔だった同級生が、青い光線に照らされるやいなや人殺しと化し、これがまた赤い光線に照らされると一瞬にして笑顔に変わる。赤く照らされている間は4人揃っているビートルズも、青い光線が横切ると、なぜかポール以外の3人は消えてしまう。そして、時間の経過とともに光線を作り出す機械の故障はさらに悪化。赤い光線はほとんど出さず、青い光線ばかり出し始める。まるで酔っ払いがスポットライトを振り回しているかのような光線の乱射。見渡す限りの恐怖、恐怖、恐怖。絶望的な青黒い光景と人殺しと化した同級生たち。阿鼻叫喚。逃げ惑う俺...で、目を覚ました。

完全な悪夢。我が脳に一抹の不安。夢診断を乞う。

坂本冬美の新曲のPVを3Dにする意味がわからない。

秋元康。片岡鶴太郎の5万倍嫌い。

1位(―) female

2位(―) 恋のジャンヌダルク

3位(初) ジャンヌダルク〈version―4〉

4位(―) 阿仁真里

5位(↑) 素敵な不似合い

6位(↓) 祈りの少女

7位(―) 貴方は頑張りました

8位(↑) バタフライ

9位(↓) エコーの精

10位(↓) evergreen





〈破棄〉

・深層クレオ

・ジャンヌダルク〈version―2〉

・ジャンヌダルク〈version―3〉

自分でも本当に不可解なのは、今まで漫画というものをほとんど読んでこなかったということだ。

読んだ覚えがあるといえば、横山光輝の『三国志』と、中三の時に仲間内で流行った『ツルモク独身寮』くらいのもので、あとはタイトルさえよく覚えてないようなのを通勤途中に暇潰しにちょこちょこっと読んだくらいだ。

考えてみれば俺は、小説の類いもほとんど読んでこなかったけど、漫画はそれ以上に読んでこなかった。今更ながら我ながら、「漫画くらい読めよ!」と思う。

学生時代、俺はずっと部活というものをやらなかったし、ジャンプやマガジンも読まなかった。俺の目には、部活で燃やす情熱も、ジャンプやマガジンを読んで得る楽しさも「その時だけ」に見えたんだと思う。要するに、「今は今、将来は将来」という割り切りができなかったんだと思う。

でも、今の俺。昔の俺からすると将来の俺。この有り様でしょ?部活は今でも「やっときゃ良かった」なんて微塵も思わないけど、漫画は、漫画くらいは読んどきゃ良かったかなあと思わないでもない。

でも、正直、あれだ、漫画を読む暇があったら音楽を聴きたかったんだな俺は。だからだぶんあれだね、音楽を聴いて得る興奮だけは「今だけのものじゃない」と思えたんでしょうな。

はい。

心療科の病院、良い病院は一握りだと、ある本に書いてあった。

今日、行った病院は最悪だった。初診をした看護婦は威圧的で、俺の言葉を遮って「いや、そうじゃなくて」と口を挟むし、院長は俺と一切目を合わせようとせず、ずっと机、もしくは壁を見つめていて、薬の名前を口元でボソボソボソボソ呟いていて、たまに俺の目を見る時には上目線の流し目だった。

「アカン」と思った。特にあの院長に至っては、どう考えたって駄目だろう。人間的に駄目だろう。病院長、患者の関係性を抜きにしても駄目だろう。





そして、こともあろうか俺はこの病院の待合室で、これまで高級な酒をチョビチョビ呑む感じで読んできた『ジャンヌダルク』を読み終えてしまった。ついにジャンヌが火炙りにされた。

火炙りにされながらジャンヌは叫ぶ。「私に十字架を見せて!十字架を!」

「胸が締め付けられる感じ」ってこういう感じかと思った。そして、町田康がよく著書の中で言う「やれんよ..」というのはこういう事かと思った。

明日から通院する病院を伊丹の病院に移すことになった。

これはただの記録。日記。一応ここに書き残しておくことにした。ここに書いておかないと俺自身、いつ何があったのかすぐに忘れてしまうし、考えてみればこのブログは俺が主人公の小説であるとも言えるんだから。

以下3枚を破棄。

・ポイズン・アイヴィー

・欧州祇園

・悪夢除鏡

各々に各々の価値基準がちゃんとあって、各々が各々に「これは好き。あれは嫌い」とちゃんと判断できて、口にできて、それが衝突し合う状況というのは、文化的には凄く健康的な形だと思う。

本当にこの国の文化、芸術水準は底の底まで来てると思う。終わってると思う。どいつもこいつも「わからない」とプリントされたレッテルをポケットに大量に忍ばせて、ポケットを大きく膨らませた状態で歩いている。不感症なクセにめちゃくちゃ勃起してるみたいなことになっている。

何故ちっともわかろうとしないんだろう。もし、わかろうとしたけどわからなかったんだったらそれはそれ。そういうこと。それで全然構わないと思う。そんなものは自分には無縁だとして、ただ「カッコいいな」とか「綺麗だな」とか「可愛いな」とか思えたものを素直に好きと言えればそれで十分だと思う。他人は他人、自分は自分というスタンスが基本にあって、その上で「自分はこれが好きだ」って素直に言えれば本当にそれで十分だと思う。正解だと思う。

例えば好きな人ができた時に、周りの人に「私、あの人のこと好きなんですけどどう思います?」なんて聞いて回るような馬鹿な真似はよっぽどの馬鹿じゃない限りしないだろう。自分の価値基準に素直に従って、「他人の太鼓判なんていらねえよ」ってなもんだろう。なのに何故それが文化的なことに関してはできないのか...理解に苦しむ。

作り手には価値基準がある。でも、受け手には価値基準がない。だから作り手の生み出したものの良し悪しが判断できない。でも俺は、極端な話、さっきから言ってるように、良し悪しなんてわからなくたっていいと思う。そんなものは世の中に腐るほどいる評論好きな奴らに任せておけばいいんであって、要は自分の好き嫌いを自分の言葉でちゃんと言えさえすればそれでいいと思う。でも、それも言えない、わからない人間がこれまた腐るほどいて、その結果どうなるか。

『アーティスト(もちろんバンドマンを含む)がわからない』ってことになる。

こうして毎年、毎日、毎分、毎秒、物凄い勢いでアーティストが死んでいってる。

殺されていってる。

要するに、やっぱり「軸」ってことなんだと思う。今の俺には軸がない。

人は自分の中の軸を中心にして回る。そして、その軸は「原点」であって、「拠り所」であって、「帰る場所」でもあるのかもしれない。

自分の描いた絵を見ても、無意識のうちに軸を考えていることがよくわかる。真ん中に一つ象徴的なものを置くなり、一本、線を引くなりしていて、絵はその軸によって安定して、その軸がその絵の言葉の内容を左右してる。

思い込みから成るアイデンティティーは軸にはならない。俺のレベルだと、まずはアイデンティティーを思い込みの域から思い込みではない次元にまで持っていくための軸がまた別に要る。でもこれが、この軸がどこにあるんだかわからないし、どんなものを選べばいいのかがさっぱりわからない。

そういえば俺はこのブログの401本目〜500本目のタイトルを『闇独楽』としているが、あの時の気持ちを昨日のことのように覚えている。「必死こいて回ってるんやけど、誰も見てねえなあ...」と思っていた。あの時は確かに誰も見ていない、闇の中で回る独楽だったかもしれない。でも、独楽として回っていたということは一応ちゃんと軸はあったってことだ。

あの時あったものが今はない。まあ、あの時の軸が今現在の俺の軸として適当かと言うとそれはそれで違うような気も...いや、絶対違うな。違う。





軸を無くした地球儀が床を転がっている。「どうやらこの家、傾いてるみたいですよ」と言っている。本来の自分の在り方を忘れてしまっている。

既存の宗教である必要は全くない。自分なりに何らかの信仰心を持って生きていきたい。

夢のない考え方、夢のない生活、夢のない人生、夢のない...「夢のない」が冒頭にくるものの全てが耐え難い。「夢がない」ってのは「想像を相容れない」ってこと。そんな「想像を相容れない」世界全てが耐え難い。

生きていける世界と、生きたいと思える世界があまりに見当たらない。

ジャンヌダルクって、今の俺の潜在意識的なものから来る最たるものなんだろうと思う。

ジャンヌダルクを待っているのかもしれないし、ジャンヌダルクになりたいのかもしれないし、そこんとこは自分でもよくわからない。

でも、とりあえず木製の十字架のネックレスが欲しいと思う。別にキリスト教を信じるようになったとかそんなんじゃなくて、ジャンヌダルクが首に掛けてたからという理由で。

最後の審判みたいなシーンで囚われの身、ボロボロになったジャンヌが言う。「首に掛けていた小さな十字架を返してください」

フランスを救ったジャンヌダルク。イギリス側の審判の場で「神から受けた啓示に関してはフランス国王にしか言いません」と、フランス国王に裏切られたにも関わらず言い切る。

信念の人って問答無用に好きだ。信念の人はいつも変人狂人扱いされる。でも世界を掻き回すのはいつも変人狂人呼ばわりされる人たちだ。そして変人狂人呼ばわりするというのはいつの時代もその時代の凡人の、俗物の、リーサルウェポンだ。

俺は結構いい線いってると思う。俺が変人狂人呼ばわりされたとしても誰も特に何の疑問も抱かないんじゃないか?あとはミラクルな後押し。わかりやす〜い神の啓示でもあれば何でもやってやるぜってなもんなんだけど、いかんせん、踏み出せないんだな、一歩が。

臆病で。

以下の5枚を破棄。

・メイベリーン

・喪失セピア

・マザーシップ

・戦う優しさ

・ジャンヌダルク〈version―1〉

ジャンヌダルクは今後も色んなパターンで描いていきたいと思っています。

歴史上の人物ではダントツで好きだな。描いてる時、「俺に乗り移ってきてくんねえかな」って思ったくらい。

坂本龍馬?どうでもいいよ、あんなもの。

「人生、何が起こるかわからない」って言える人が羨ましい。この言葉は未来に対して希望を抱けてる人が言う言葉だ。

例えば会話。俺は昔から自分の発言に相手がどう反応するのかを先読みしようとする癖があって、どうやらその精度的なものは年々上がっていってるらしく、最近では喋る前に相手がどう反応するのかがわかってしまって、喋るのをやめるという癖がついてしまった。だから「言うてくれんとわからへん」と言われた場合にとても困る。言ったらどうなるのかはわかっている。たぶんロクなことにならないだろうと思う。でも読みが外れてくれることを期待して喋ってみる。が、やはり読みは当たる。喋らなきゃ良かったと思う。このパターンを繰り返す中で、本音は喋らずに胸中にしまい込むようになった。そして、しまい込んだものを音楽や絵や文章で吐き出すようになった。

心理療法の分野では、この「吐き出す」という行為を『浄化』という。吐き出すということをしないと、言葉が、意思が、想像が自分の中で沈殿してそのうち腐ってしまう。俺の場合、その腐ったものの塊が一つの思想と化してしまった。何もかもが予定調和だという思想が自分の中に深く根付いてしまった。「人生、何が起こるかわからない」の真逆にある思想だ。

たぶんこうなるだろうと思う。と、ものの見事にその通りになる。それもその読みがネガティブなものであればあるほど当たる。楽しい偶然、嬉しい偶然、予想外の喜びというものが自分とは無縁なんじゃないか?と思うようになって、そうなると日々の営みはもう、工場のライン作業を思わせるルーティンワーク的なものに感じられてくる。

人生、何が起こるかだいたいわかる。厳密に言うと俺は別に占い師じゃないんだから、わかるわけがないんだけど、わかるような気がするということ自体が精神衛生上良くないことだ。

映画を観ていて、前半で結末がわかる不快感。小説を読んでいて半分まで読まないうちに結末がわかる不快感。映画館に行って、チケットを買うと同時に、映画館から出てきた奴が結末を口にし、それを聞いてしまった時の不快感。

何事もある程度の先読みをしてからでないと不安だ。でも、先読みが度を越すと未来に何の楽しみも期待できなくなる。

何が出てくるのかわからない。全く結末が読めない。絵を描いている時は楽しい。

タバコの大幅値上げの日が目と鼻の先に迫っている。

先日は先日で、TVで、仕事帰りの40代くらいのサラリーマン3人が居酒屋が立ち並ぶ通りを抜けてコンビニへ行き、発泡酒やツマミを割り勘で購入、ビニール袋を下げてマンションの狭い一室(3人のうち1人の住まい)でそれらを広げて呑んでいる場面を放送していた。「いや〜お金が無いんでねえ。以前は居酒屋で呑んでたんですが、何か注文するたびに伝票をチェックしてたりなんかして...楽なんですよ、この方が」

...何が楽しいんだろう。この国の大人。特に男。働けど働けど貧乏。発泡酒とスルメ。奥方の顔色を窺って許可を得ねば何もできない。窮屈。え?空き缶?空き缶はそこのビニール袋にまとめようや。ところで...あ、シケモク見っけ!って何だこりゃ。

タバコの大幅値上げの日が目と鼻の先に迫っている。

邦楽のシングルCDに必ずと言っていいほど収録されている「インストゥルメンタル・ヴァージョン」。CDの帯にはこのトラックを含めて「全〇曲収録」と書いてある。完全な詐欺。カラオケ全盛時代の名残だか何だか知らないが、あれは絶対に要らない。

洋楽のシングルCDの場合、タイトル曲の他に収録されているのは「アルバム未収録曲」とか、「デモ・ヴァージョン」とか、「リミックス・ヴァージョン」とか、「ライヴ・ヴァージョン」とかで、ファンに対する愛情みたいなものを感じさせる仕上がりになっていて、「インストゥルメンタル・ヴァージョン」なんて馬鹿げたものは見たことがない。

部屋で一人、リモコン片手にわざわざ「インストゥルメンタル・ヴァージョン」をチョイス、流して、これに合わせて歌ってるような奴とはお近づきになりたくないと思うのは俺だけでしょうか?気持ち悪くないか?そんな奴。

昔、友人の車で夜のドライブを楽しんでいた時のこと。10人くらいから成る暴走族に前後左右を包囲されたことがある。何を言ってるのかはさっぱりわからなかったが、左右の族は我々に向かってヘラヘラと笑いながら罵声を浴びせかけており、前方の族は速度をギリギリ限界まで落として蛇行運転、我々の邪魔をした。俺が友人に「なんでこれを轢いたらアカンのかな」と言うと、友人は怒りに震える声で「そやな」と言った。

一方、一つ屋根の下では、ある友人がグーで壁に穴を開け、俺は頭でテーブルを叩き割っていた。

あの夜、友人が怒り心頭、族どもをビビらせるべく急にハンドルを切って、ガードレールや電柱に突撃しなくて本当に良かったと思う。

やり返す術を持たぬ怒りが沸点に達すると人は、ただ相手に自分の意思を伝えたいがために自虐的行為に及ぶことがある。

昔、親鸞さんが人間は言葉の使い方には十分注意を払わないといけないという意味で「人は口の中に刃を持っている」と言ったらしい。





ところで、「男の人は女の人より力が強いんだから、男の人は女の人に絶対に手を上げちゃいけない」というのは今まで耳にタコができるくらい聞いてきた言葉だが、「女の人は男の人より口が立つんだから、女の人は男の人に絶対に弁を奮ってはいけない」という言葉は聞いたことがない。

言葉が肉体と同じくらいの力を、場合によっては肉体以上の力を持っていることは誰もが知っているし、使いようによっては十分凶器となり得ることも知っているはずなのに、法的にはもちろんのこと、道徳や倫理の縄でキツく縛られているのはいつも腕や足といった肉体だけで、舌は、言葉は全く縛られていない。

手錠足枷の男と料理上手な女。





さて、問題です。無茶苦茶な運転をしているチャリンコを車が轢きました。裁かれるのはどちらでしょう?

『evergreen』は写真を見ながら描いただけなのでランキング外にしようと思っていたのだが、朝の4時に目が覚めるやいなや机に向かい猛烈な勢いで描き始めたという尋常でない経緯から、ただの写生ではないというか、自分の精神的なものを強く感じて、特別にランキングに加えることにした。同時に、他の絵に関しても自分の精神的なものを優先して新ためてしっかり順位を考え直してみることにした。以上のことを踏まえて導き出した最新ランキングは以下の通り。





1位(―) female

2位(―) 恋のジャンヌダルク

3位(初) evergreen

4位(↑) 阿仁真里

5位(↑) 祈りの少女

6位(―) エコーの精

7位(―) 貴方は頑張りました

8位(―) 素敵な不似合い

9位(↑) バタフライ

10位(初) 蠍の刺青





〈破棄〉

・エキゾチック・ロマンス

〈壁から剥がして保管〉

・葡萄の涙

今日、百均で購入。

昔、独り暮らしの友人のうちに行って「灰皿ある?」って言うたら大概これが出てきたような気がする。逆に現在、結婚してたりなんかして奥方主導の友人のうちに行くとこれは絶対に出てこないような気がする。

人間、一人残らず老いていくし、死んでいく。

美人も男前も例外なく衰えて、老いて、死んでいく。

放っといても衰えて老いて死んでいくんだから、過剰な怒りや憎しみや恨みは無意味だ。無駄に時間とパワーを消耗するだけだ。

例外なく、早かれ遅かれみんな死ぬんだから、焦ることはない、おおらかに生きていけたらそれが一番良いじゃないか。

基本的に「癒し」という言葉には抵抗があるけども、俺にも唯一、「癒し」と呼べるものがあって。

俺にとって「癒し」とは、今も昔もこの人の声です。

女性としても大好きで、本当は松坂慶子よりも好きかもしれない。

何しろ、今まで何度も何度もこの人に、この人の声に救われてきたもので。

要するに別格なんです。

毎日のように「うんこ」呼ばわりされる。でも気にしない。

友達も、先生も、親も、私の頭のことで勝手に頭を悩ませてる。でも私はこの頭と、信念を曲げる気はない。みんな全然わかってない。

ある優等生の女の子なんか「あれはきっとヤドカリを意識してるのよ。『私、殻に籠りたいの。放っといてよ!』っていう私たちへの無言のメッセージに違いないわ」って言ってたけど、とんだ見当違い。私、放っといて欲しかったら「放っといて」って言うわよ。

私はいつも疑問でいっぱいなの。「誰が本当のことを言ってるんだろう?ひょっとしてみんな嘘言ってる!?」なんてことを四六時中考えながら生きてるのよ。

私は本当のことを知りたい。嘘はいらない。騙されたくない。で、この頭にしたの。うんこでもヤドカリでもなくて、バベルの塔なのよ。他の人より1cmでも神様に近い所で見たり、聞いたり、考えたりしたいと思ってこの頭にしたのよ。

うんこは私の頭をうんこっていうあの子たちの頭の中にあるものがうんこよ。

気付けばこのブログ、遠に900本を越えていた。この文章でなんと940本目だ。

皆さんご存知の通り、このブログでは文章100本毎に一区切り、一つの作品、一枚のレコードと捉えてそれぞれにタイトルを付けてきた。過去のものを振り返ると次の通り。

1st『ヴァイブル』

2nd『麦乃助の憂鬱』

3rd『V』

4th『闇独楽』

5th『花とヘドロ』

6th『少年零記』

7th『インナーチャイルド』

8th『籠城と創造』

というわけで、遅ればせながら9枚目のアルバムタイトルを付けなくてはならないが、これはもう迷う必要はない。考えるだけ無駄。9枚目のアルバムタイトルは『female』に決定。

では、記念すべき1000本まであと60本。「無」となって突っ走ります。

司会「今日のゲストは自称アーティストの和田一憩さんです。皆さん、どうぞ拍手でお迎えください!」

一憩「あ、どうも、よろしくお願いします」

司会「いや〜、やっぱり一憩さんの芸術、表現と言えばね、一言でいうことを許していただけるのであれば実にあれですよね〜」

一憩「何ですか?」

司会「いや、やっぱりね、一憩さんの作品に触れた全ての人が間違いなく私と同じ感想を抱いてる!と、私なんかは信じて疑わないわけなんですけどね」

一憩「え、いや、だから何ですか?」

司会「と、いうわけで皆さんさようならぁ〜!」

一憩「終わりかい!」

映画『エイリアン』、誰でも一度は観たことがあるでしょう。

あの映画を観てるとよくあるシーンが、狭い通路の上下左右から際限なく現れては追ってくるエイリアンに、デカいマシンガンを撃ちまくりながら逃げるシーン。

「走れぇ!」「ブッ放せえ!」「キリがねえ!」「弾をくれえ!」

撃っても撃っても次から次へと現れるエイリアン。でもあれ、撃ってる間は、エイリアンとの距離を必要最低限保てるわけで、もしマシンガンがなかったら、あっという間に追い付かれてるわけで、だからマシンガンに意味がないとは口が裂けても言えないわけで、一見役立たずに見えるマシンガンが実はめちゃくちゃ役に立ちまくってるわけですね。





俺が絵を描きまくっているというのはまさに、あの映画におけるマシンガン乱射と同じ意味合いです。

1位(―) female

2位(―) 恋のジャンヌダルク

3位(初) ポイズン・アイヴィー

4位(↓) Nの心象

5位(―) 阿仁真里

6位(↓) エコーの精

7位(↓) 貴方は頑張りました

8位(↓) 素敵な不似合い

9位(↓) 祈りの少女

10位(―) バタフライ





〈破棄〉

・The Fuckin’Girl

・曼陀羅

眠れないので、もう一枚描こうと。

ちょっと原点回帰。黒と赤の2色のみを使って、女性画を描いてみた。

やっぱり得意な画法だけはある。良い出来だ。

今夜はもう一枚いける気がして描いたらいけた。紫の『ポイズン・アイヴィー』

これまたタイトルは絵を見て閃いたのをそのまま採用。ホリーズ等、60年代のビートバンドがよくカヴァーしてた曲の名前だが、意味は知らない。

黒、青、赤、緑、紫ときて、次は何色でいけば良いんだろう。でも、ま、とりあえず今日のところはこれくらいにしておこう。

黒の『胡蝶蘭』、青の『欧州祇園』、赤の『赤い面影』に続く単色美人画第4弾、緑の『メイベリーン』。

タイトルは絵を見てパッと閃いたものをそのまま採用。確かチャック・ベリーの曲名だったと思う。

一切何も考えず、まさに「無」の状態で、8分くらいで描き上げた。もちろんいつもいつも上手くいくわけじゃないけど、最近たまにこういうことができるようになってきた。

『恋のジャンヌダルク』の幼なじみで、女王『female』の侍女。女王の身の回りの世話をしたり、ジャンヌの鎧の手入れをしたり、毎日忙しく走り回っている。

真面目過ぎるくらい真面目で、笑いというものが全くと言っていいほど理解できず、ほとんど笑顔を見せないので、女王からよく「もう少し笑うようにしたら?」などと言われている。こんな時、ジャンヌはよく女王の後ろから首を出して「女王のおっしゃる通りよ。あなたに冗談を言うたび、私がスベったみたいになるんだから」と口を挟むが、カトリーヌは「スベる」という言葉の意味が理解できず、キョトンとした表情を浮かべるのであるが、女王はカトリーヌのこのキョトン顔がたまらなく好きで影では「私のキョトンちゃん」などと呼んで寵愛していたりする。

あれ?そういえば今夜は裏庭から鈴虫やコオロギの鳴き声が聞こえない。完全な静寂だ。

「蛙が鳴くと雨が降る」みたいな感じで、この時期に鈴虫やコオロギが鳴かないということにも何か意味があるんだろうか。何かの前触れなんだろうか。

明日、何が起こるんだろう。良いこと?悪いこと?

良いことではないような気がする。

以前、極めて身近な人がある友人に関してこんなことを言った。「プロでもないのに自分のことをアーティストって言うのっておかしいと思う」





プロじゃない。でも俺はアーティストだ。

大人として男として社会人として終わってても、アーティストとしてイケてるんならそれでいい。

人間が生涯を通して死守すべきはアイデンティティーだ。自分は何者かという自覚であり、プライドだ。人はアイデンティティーがあるから生きていける。そして、俺は、俺のアイデンティティーは、「俺はアーティストだ、馬鹿野郎!」ということだ。

アーティストとして見てもらえたら、アーティストとして求めてもらえたら、俺は応えるよ。全力で応えるよ。

ところであなたのアイデンティティーは?もし教えてくれたら俺はそのアイデンティティーに沿ってあなたを見て、あなたに求めるよ。

もちろん、本当は教えてもらうなんてことなく、そんな大切なことを言葉に変えさせるなんて無礼なことをせず、俺があなたのそれにいち早く気付けたらそれが一番良いんだけどね。

より良い関係。お互いのアイデンティティーを尊重し合うこと。

言いたいこと、表現したいことが山ほどある。もっともっと吐き出さないとどうにもならない。

俺の中から出てくるものの中には、いくつか素晴らしいものが紛れ込んでる可能性があるよ。

審判的な受け方をしない人には、包み隠さず、全てをありのままに打ち明けたい、披露したいと思う。

いちいち審判的な受け方をする自信過剰な人や、いちいち妙な誤解をする感受性に乏しい人には俺は何も提供しない。たとえ提供したとしても、結果的には提供しなかったのと同じことになるだろう。

俺はあの手この手でありとあらゆるものを吐き出す。中には掘り出し物があるかもよ。

見つけたらそれはあなたのもの。喜んで差し上げます。でも、見つけたらとりあえず俺にもそれを見せてください。それが自信に繋がりますんで。

『female』って本当に綺麗だ。

懍としていて、表情のどこにも疑いや憎しみの相がない。

祈りがあって、許しがあって、芯の強さと大きな優しさを感じる。自分の中からこれが出てきたことを奇跡的に思う。

この絵があるのは、この女の人がいるのは世界で唯一、俺の部屋だけ。そして、この絵は俺のもの。これが俺のものだという事実!これが凄い。死ぬほど嬉しい。

夜、眠れない時はこの絵を眺めるに限る。時間がゆっくり、優しく流れていく。

スピードが速すぎるんだな。あと、何もかもが両極端で、両極端なところにもってきて選択肢はいつも二者択一で、その上さらにありとあらゆることが多数決の世界なんだな。で、この「多数」ってのがまた烏合の衆、要するに馬鹿の集団で手に負えねえんだけどどういうわけだか馬鹿の分際でものすごい力を持ってやがんだな。

どこにも真ん中、ニュートラル、中間層が見当たらねぇんだな。何事においても中間層は「どっちつかず」なんて「例外」扱いされておしまいだけど、本当はこの中間層、例外にこそ人生の妙ってのはあると思うんだけどなあ。違うのかなあ。

速い。喧しい。眩しい。野球で言うところの「走攻守」みたいなもんで、今の世の中は「速喧眩」だな。しかしまあヤな3拍子が揃っちまったもんだ。落ち着けねえったらありゃしない。その一方でみんな、どいつもこいつも「癒しだ癒しだ」と喚き散らしておりますなあ。「癒し」という言葉を安易に連呼するあたり、馬鹿ですなあ。喧しいですなあ。あと、あれだ、世の中の流れと、この「癒し」という言葉の間の距離感、違和感、不協和音というのはものすごいものがありますなあ。これはこれでまためちゃくちゃ喧しい、めちゃくちゃ両極端な光景だと言えますわなあ。

わかりませんなあ。何をどうすりゃ良いんだかさっぱりわかりませんなあ。どこで何をすりゃ良いんだかさっぱりわかりませんなあ。方向がわかりませんなあ。そこら中に一方通行の標識...従いたかねえなあ。窮屈だなあ。

全くもって。

誰かがギラギラしてる時は、誰かが休んでる。

誰かが休んでる時は、誰かがギラギラしてる。





絶えず「前向きでいなきゃ」とか、絶えず「ギラギラしてなきゃ」とか思ってたら疲れるだろうし、疲れるのは当たり前だし、それはカッコ悪いことでもなんでもない。

7回まで投げて、コントロールが定まらなくなってきたんならリリーフピッチャーに後を任せりゃいいし、こりゃ今日は打てねえぞ、だって全然ボール見えねえんだも〜んと思ったんなら監督に「も〜ん」と言って代打を出してもらえばいい。

広い視野が要るな。あと、長い目も要るよ。

アンタがちょっと休んだからといって、誰もアンタを怠け者だなんて思わないよ。だってみんな、常日頃のアンタの頑張りをよ〜く知ってるんだから。

大丈夫!

浮かれてる人が羨ましい。

「浮かれる」というのは素晴らしいこと。全然悪いことじゃない。浮かれられる状況、精神状態にあるんなら躊躇なくじゃんじゃん浮かれたらいいと思う。

もし、「浮かれる」ということに罪悪感みたいなものを感じて歯止めを効かせようとしてる自分に気付いたら、その時は一度自分の置かれてる状況や生活全般に対して疑いの目を向けてみるべきだと思う。





本音は本音。大切にすべきもの。「本当はこうありたい」という気持ちは隠すことはできても、殺すことはできない。居心地の良い場所に置いてちゃんと呼吸させてやらないと、そのうち爆発してろくでもないことになるよ。

夕方、公園のベンチに座って煙草を吸っていた。

俺が座っているベンチの真向かい、7mほど離れた所にブランコがあって、中学3年くらいかと思われる女の子2人が話し込んでいた。

「熱しやすく冷めやすい」とか「会ってもうたら好きになる」とか「かっこいい」とか「好き」とかいう言葉が聞こえてきた。

俺の頭に「人生の華」というフレーズがポン!と浮かんだ。

俺にとって「大人」は演じるもの。「男」だって同じ、演じるもの。俺は不思議なくらい大人であることにも男らしくあることにも魅力を感じない。そして、「演じる」というのはそうそう長くは続かないしもたないし続かなかったしもたなかった。

どう考えても俺は子供。性別さえもはっきりしない子供、ガキンチョだ。

もし、この奇妙な存在感に価値的なものがあるのであれば生きていける。誰かが必要としてくれるのであれば生きていける。無いのであれば...ちと難しい。

週2くらいのペースで「思ひ出収集車」って廻ってきてくれないだろうか。要らない思ひ出を回収、処分してくれる。

楽しいのから順に、片っ端から出したい。

頭の中には楽しい思ひ出がゴロゴロ転がってる。でも、現在進行形で肌が常時感じ取ってるのは憎しみとか恨みとか。

この落差は辛い。頭と肌の間のこの落差は辛い。この落差、このフォーク、イチローでも打てないよ。イチローに打てないものが俺に打てるわけがないじゃないか。

明日は月曜、思い出収集車が廻ってくるのは何曜日だっけ?

アンタは「当たり前じゃねえか」って言うんだろうけど、そう、その通り、薬なんかより酒の方が全然効くよ。アンタの声がよく聞こえるんだ、呑むと。

アンタならわかるだろう、「音楽が聴こえない」っていかに最低か。

とりあえず、アンタの新バンドの音を心から楽しみにしてる。オアシスの10倍良いんだって?俺の知る限り、アンタは今まで嘘をついたことがない。嘘のつき方を知らないからな。だから100%信じるし疑わないけど、頼むから裏切んなよ、この期待。

世界中にいるんだ。アンタの姿勢と声を必要としてる人間が。何万人といるんだ、アンタの姿勢と声を必要としてる人間が。

リアム!

リアム!

リアム!

リアム!

リアム!

この絵は読者の中でも特に、このホームページを管理してくれている剣吾くんと、このブログに定期的にコメントを寄せてくれている旧友、須磨ですまんの〜氏に捧げます。

この絵がいかにユーモアに富んだブッ飛んだものなのか、そしていざこれを描くとなるといかに難しいものなのか、さらに、世界中探してもこれを描こうだなんて奴は一人も居ないであろうことを、あの2人なら遺憾なく理解してくれることでしょう。

背景色や俺のサインのデザインにもそれぞれ、ちゃんと意味があって、これ一枚仕上げるのになんと6時間もかかった。

間違いなく『傑作』でしょう。

あ、あと一応断っておきますが、これは女性画です。決してオッサンではないので悪しからず。

『female』を見るたび思う。

「お前誰や?」

どこかで見た気がする。

公園で小さな子供が遊んでいる。それを大人がベンチに座って見守っている。

大人は「平和だなあ」くらいの間抜けな感想を抱くのが精一杯で、子供に見えている世界は絶対に、一切見えていない。

もし子供がギターや、絵筆や、万年筆を思い通りに操れたら、大人は、大人の才能は、大人の「天才」と呼ばれる人たちは、その辺の普通の子供たちの足元にも及ばないと思う。

人間が生涯に発揮できる能力が40%に満たないというのは、こういうカラクリから成り立ってるんだと思う。

大人の想像力は、子供の想像力の40%に満たないし、子供の表現力は、大人の表現力の40%に満たない。





想像力の無いのを「大人」という。

『GAIN100』見るに耐えない。

『スパーキング・オレンジ』見るに耐えない。

破棄。

毎日、夕方になると、賑やかなアイツが側に居ないことを実感して。

「あのぅ、すいません..」と声がするので振り向いたらGAIN100。

「え?何?」と聞くと彼女は言った。「私、生まれてきたテーマがテーマなもんですから、女であることはある程度捨ててます。喜んで捨ててます。でも、あの、私、人間であることまで捨てたいとは思ってません。お願いです。私を..私を人間にしてくださいませんか?」「え?いや、もう十分人間やと思うねんけど」「いえ、もう少し..もう少しじっくり私を見てください。ね?何かおかしいでしょ?このままじゃ私、ただのダッチワイフです。お願いです。気付いてください。ね?どこかがおかしいでしょ?」と言われて「あっ!」と俺。





歯を描き加えた。

さすがにこの顔で、この頭で、現実的にも季節が変わってだいぶ肌寒くなってきているというのに裸は可哀想か...と思って紫色のドレスを着せてあげた。ドレスを着せると今度は首回りが寂しいな...と思って、以前、実際に京都かどっかの商店街で見かけたネックレスを付けてあげた。

たかが絵。されど女の人。最近、普通に情が湧くようになったが、一番湧いているのは俺の頭の中かと思われる。

とにかくブッ飛んだのを描きたくなった。

タイトルは他に『R&R』、『PUNK』、『LIAM』、『森羅万象ファックオフ』と、4つほど候補があった。が、描き進めば進むほどに「俺はバンドマンだ、馬鹿野郎!」って気分が猛烈な勢いで昂ってきて、まずギターアンプが頭に浮かんで、次に「GAIN」のツマミが10までしかないことに考えが及んで、10までしかないやつを無理矢理100まで回してこましたれ!と思って『GAIN100』になった。

描いている途中でピンクのクレパスが真っ二つに折れるというアクシデントに見舞われたが、即座にうち片方を「見舞うな!」などとわけのわからない言葉を吐き捨てながらゴミ箱に投げ捨てて、勢いを止めることなく完成地点まで突っ走った。

要するに、「どうにでもなりやがれ!ファッキンクソ馬鹿野郎!!」っていう絵だ。

朝、ニュースを見ていた。

コメンテーターが口々に「馬鹿だ」「腹がたつ」と言っていた。

すると、玄関のドアの開く気配がして、無言で俺の部屋へと続く階段を登る足音が聞こえた。

ゆっくりと後を追って部屋に入ると『戦う優しさ』が他の女の人たちと同じようにビニール袋に収まって涙を浮かべていた。

1位(―) female

2位(―) 恋のジャンヌダルク

3位(―) Nの心象

4位(―) エコーの精

5位(―) 阿仁真里

6位(―) 貴方は頑張りました

7位(―) 素敵な不似合い

8位(―) 祈りの少女

9位(初) 瞑想

10位(↓) バタフライ





〈破棄〉

・戦友の死

1位(―) female

2位(―) 恋のジャンヌダルク

3位(―) Nの心象

4位(―) エコーの精

5位(―) 阿仁真里

6位(―) 貴方は頑張りました

7位(―) 素敵な不似合い

8位(↑) 祈りの少女

9位(↑) バタフライ

10位(初) 戦う優しさ

1位(―) female

2位(―) 恋のジャンヌダルク

3位(―) Nの心象

4位(―) エコーの精

5位(―) 阿仁真里

6位(―) 貴方は頑張りました

7位(―) 素敵な不似合い

8位(↑) 祈りの少女

9位(↑) バタフライ

10位(初) 戦う優しさ

自信過剰から来る下品な優越感が許せない。

人を許せない人と、人に許しを乞えない人が許せない。

獣と化したくっだらないプライドに喰われて泣けばいい。

俺は助けない。他を当たってくれ。

以前、田代まさしを応援する本が出版されたことがあるらしい。一人の人が書いたものではなく、連名で田代まさしを応援する文章を書き、これをまとめて一冊の本にしたものが出版されたことがあるらしい。

そして今回、再び彼が逮捕されたことを受けて、この人たちが「裏切られた!」と喚き散らしているという話を聞いて、俺は本当に頭にきた。頭が痛くなった。

何が「裏切られた!」だ。自分たちの言葉に一体どれくらいの力があると思っているのか。お前らはキリストか。仏陀か。勘違いするな。勝手に本を出版して、一方通行、押し付けたのは優しさじゃなくて、ただのプレッシャーだろう。プレッシャーで生き死にの境をさ迷ってる人間を救えるはずがないだろう。そんなこともわからんのかボケ!

「裏切られた!」と言ってしまった時点で、その本はただの偽善の塊だったってことになる。自分自身を責め倒してる瀕死の人格に対して自分たちの一方的な声が届かなかったからといって怒鳴り散らして、責め立ててどうする。お前ら、一歩間違えたら人殺しやぞ。

何が「裏切られた!」だ...。

そして、俺、この絵を描いた。本当に心を込めて描いた。田代まさしを救うことのできる人を描きたかった。





まさに今、この人は田代まさしのもとへ向かっている。彼のもとへ向かう道中、「裏切られた!」と喚き散らしている集団に出くわす。まるで彼女の道を遮っているようだ。彼女は構わず前進し、集団の前に立ち、この表情、この目で言う。低い声で、囁くように言う。

「そこをどきなさい」

田代まさしがまた薬物(コカイン)所持で捕まったらしい。

ちっとも笑えない。

彼の側には優しい人、いるんだろうか?

阿片中毒の浅田真央...みたいなのが出てきた。写真じゃわからないだろうけど、この絵、かなり小さい。

A4は駄目だな。クレパスの太さにも、伝家の宝刀の芯の太さにも合わない。例えばこうやって伝家の宝刀で描いても、細部の調整にどうしても普通の芯の細い鉛筆を使わざるを得なくなる。で、無駄に緻密になって、中途半端に写実的になって、こぢんまりとして...ヤな感じ。

女性画はやっぱり、多少線が粗くても、全体的な印象でドーン!といかなきゃ。A4はまた何か、別の使い方を考えよう。

この絵はたぶんすぐに棄てるでしょう。ま、こんなボツもあるということで。

よく見ていただければわかるように、ビートルズ的マッシュルームカットの女の子が、ツェッペリン的ロングヘアーのヅラを被っている絵。女の人の髪を描くのが好きな俺、以前から「ヅラ」というアイデアはあったのだが、それがようやく形になった。

背景色が黄色になったのはどう考えても、昨日手に入れたオアシスのベスト盤のジャケットから来てるんだと思う。

これ一枚描くのに、7cmほどあった茶色クレパスが、1.5cmくらいにまで縮んでしまった。金属製の定規で削っては塗り削っては塗りを繰り返したからね。

ま、良い出来ではないでしょうか。

ちなみにこの絵から画用紙のサイズが縮小、A4になっております。A4なら百均で額縁が買えるしね。

1位(―) female

2位(↑) 恋のジャンヌダルク

3位(↓) Nの心象

4位(↓) エコーの精

5位(―) 阿仁真里

6位(↑) 貴方は頑張りました

7位(―) 素敵な不似合い

8位(↓) 赤い面影

9位(―) 祈りの少女

10位(―) バタフライ

この絵がまだ本当には完成していないことは前々からわかっていた。最終的にどこをどうすべきかもわかっていた。でも、俺にとって大事過ぎるくらい大事な絵だけに、なかなか決断を下せなかった。ひょっとしたら次の一手がこの絵を台無しにしてしまう可能性があったから。

ところが昨日、『ジャンヌダルク』を読んでいたら、ジャンヌがフランス王太子の耳元で囁いて(何を囁いたかの記述はない)、優柔不断な王太子の心を動かして、自分のことを心底信用させるというシーンがあって、それを今朝、突然思い出して、最終的な形までもっていくことを決心した。

まったくもって朝から寿命の縮む思いだった。たぶんちょっと縮んだ。でも、上手くいった。これが『恋のジャンヌダルク』、真の表情。

昔はね、って言ってもそんなに昔の話じゃないよ。黒いボロボロのチャリンコに二人乗りして、近所の焼肉屋さんとか焼鳥屋さんに行ったりしてたんだよ、昔はね...って言ってもそんなに昔の話じゃないんだよ。

はい、もう一度ご一緒に。

せぇ〜のっ

『このクソバカ兄弟があ〜!』

はっきり言って2本、線を描き足しただけです。でもたったそれだけのことで、最初は猿の着ぐるみみたいだったのが茶色のジャケットになりました。

はっきり言って、俺、この顔好きです。だから妥協を許せないのです。

我が絵を「ちゃん」付けで呼ぶことをお許しください。

うち、最近冷蔵庫を買い換えて、その時にエコポイントってのが発生して、その一部を使わせてもらって完全に諦めていたこれを手に入れることができた。





大阪にいた時、特に末期、俺は自分の物を売ったり捨てたりすることに夢中になっていた。服を売ったり、アンプを売ったり、指輪を売ったり、ずっと大事にしてた雑誌を捨てたり、ギターを売ったり...。世界一好きなバンド、オアシスのCDさえ、アルバム、シングル、ブート合わせて40枚くらいあったものを、手元に3枚だけ残して後は全部、リュックサックに詰め込んで売りにいった。重かった。でも全部で1200円にしかならなくて、その日の飲み代にもならなくて、旧友にお金を貸してもらわざるを得なくて、泣きそうだった。





大袈裟な話じゃなくて、俺は本当にあの時、死ぬ準備をしてたんだと思う。リッケンを売って、オアシスのCDを売って、可能な限り身軽になって。





で、今、手元にこのCDがある。初回限定でオアシス最後のライヴ音源が収録されてる。まだ手に入れてないオアシスファンの為に詳しくは書かないが、とにかく「え!?」と思えるくらいの初期衝動的炸裂感、勢いがあって、「ロック好き」を自称しておきながらこれをわからない奴がいたらとりあえず殴っておこう思える内容。本当に凄い。で、そんなこんなを踏まえて俺、とりあえず生き延びたんだなあ、生き延びてしまったんだなあと思う。実感する。





俺の許可なく勝手に解散しやがって、このクソバカ兄弟が!

近づいたり離れたりの繰り返しで描いて、最終確認をして「良し」と思ってブログに載せる。ブログに載せてからビニール袋で包んで壁に貼る。貼るやいなや修正点や改良点が次々目に飛び込んでくる。

ま、いつものことです。間違い探しだと思って楽しんでやってください。

シンプルな構図と柔らかい色使い。にも関わらず、もしあなたがこの絵にパンチみたいなものを感じたら、それは俺が、この絵に結構切実なメッセージを込めたから。

メッセージの内容は言わない。絶対言わないけど、間違えても「自然を大切に」とか「地球に優しく」とかではないということだけは断言しておきます。

反・宮崎駿連合伊丹支部長の俺がそんなもの描くわけがないでしょう。

寝る前にポジティブな考え方をここに書いたからだろうか、それとも新女王のパワーだろうか、とても良い夢を見た。以前見た夢同様、思い出せないくらい色んな人が次から次へと出てきた。中には名前も知らない俳優さんもいた。

師匠(北野武)が現れて、のんびり座談をした。俺が「昔、童話の本出してはりましたよね?天六商店街の古本屋で見掛けましたよ」と言うと、「そう、そんなんだよ。ま、あんまり売れなかったけどね。だいたい俺は本を出しても宣伝して回るみたいなことしないからね」って言ってた。あと、この人が一番印象的だったんだけど、町田康にも会った。やることなすこと支離滅裂で「イメージ通りやなあ」と思いつつ、たまに怖いくらいだったけど、とっ散らかった四畳半アパートみたいな所で「サインいただけますか?」と恐る恐るお願いすると「ええよ」と言って、「町田康」って汚い字で殴り書きしてくれた。ついでに写真も一緒に撮ってもらおうと思ったけど、携帯が見当たらないかなんかで無理だったような気がする。町田康とは長い時間一緒にいたように思うが、行動が完全に予測不能で見ていて飽きなかった。それから、ハイロウズのライヴも観た。実際にライヴハウスで観ている感覚と、ライヴビデオを観ている感覚が絶妙に入り交じっていて、何故か夢の画面の下の方にテロップなんかが出たりもした。聴いたことのない新曲を聴くこともできたが、爆発的なロックンロールに泥酔したミックジャガーがお経を唱えているかのようなもの凄い曲だった。他にも色んな人が出てきて賑やかな夢だったけど、他に誰が出てきてたのかは全く思い出せない。

師匠と喋って、町田康の奇行を眺めて、ハイロウズのライヴを見て、その他大勢の著名人と関わった。夢の後味は一言「クリエイティブ」。皆さん、毎晩出てきてくれないかなあと思う。ただ、町田康は毎晩だとちょっと疲れると思うので、月金くらいのペースでお願いしたい。

俺はきっと、自分の中の何かを死守してこれたんだと思う。そしてこれからも死守していこうと思ってるんだと思う。





第5代女王を中心に、34人の女性が俺を取り囲んでいる。

『蜜蜂』と『Zep・Girl』の2枚を、破棄した。

『蜜蜂』は『Nの心象』に至るまでのただの「デモ」で、表情が硬く、観てて全く元気が出ないし、『Zep・Girl』に至っては今一番見たくない女性の表情、般若の相が出ている。

2枚ともグッシャグシャにして棄てた。

目の前で『female』が優しく微笑んでいる。

1位(初) female

2位(―) Nの心象

3位(―) エコーの精

4位(―) 恋のジャンヌダルク

5位(―) 阿仁真里

6位(↓) 赤い面影

7位(―) 素敵な不似合い

8位(↓) 貴方は頑張りました

9位(↓) 祈りの少女

10位(↓) バタフライ

この部屋『伊丹最北端の聖域』の女王は、過去の女王たちがそうであったように、一切の妥協を許されない。

注意深く丹念に修正を施した結果、偶発的に予想外の効果も得られて万々歳。

ここに過去最強の新女王誕生。即位。

最高作。無意識層からの贈り物。顔を描いている段階で、今までで一番良い絵になると確信できた。

観ている人には単純に「綺麗な絵だな」と思ってもらえたらそれが何より。嬉しい。でも、俺にとってこの絵は俺のロック魂の発露以外の何物でもなく、絵に練り込んだ想いは「パンク」と呼んでも差し支えないくらいのものだったりするのです。





〈追記〉毎度のことながら、実物と写真とでは色が相当違います。俺の携帯ではこれが限界。実物は、背景色が鮮やかなエメラルドグリーンで、髪の色ももう少し明るくなっています。

「アンタたち、EXILEがどうのこうのってうるさいのよ!頭おかしいんじゃないの?ツェッペリンを聴きなさいよ、レッド・ツェッペリンを!大体アンタたちはイケメンっていうとすぐに福山だ小栗だっ言うけど、ホンット頭おかしいんじゃないの?イケメンっていったら今も昔もロバートプラントに決まってるじゃないの!馬鹿じゃないの?」って言ってる友達のいない高校3年生。

近所のBOOK・OFFでツェッペリンの初期ベスト盤(公式リマスター盤)を¥250で購入。爆音でかけたら頭がぶっ飛んで、中学の時以来かな、ジミーペイジの動きを完コピしながらエアギターをしてしまった。

やっぱり音楽は最高だ。そして絵画も最高だ。いずれの表現にせよ、作り手にロック魂があればそれはロック。最高の中の最高の中の最高だ。

毎日、女の人の顔ばかり描いているうちに、見えてきたことがある。それは昨日の散歩中に気付いたことだった。

散歩中、2人の女性を見掛けた。1人は買い物帰り、チャリンコに乗っていた。もう1人は関西スーパで買い物中だった。

チャリンコに乗っている女性は一見、不細工に見えた。今までの俺なら「はい、不細工」で終わってた。でも、昨日はその女性の雰囲気が全然暗くないことと、メイクがほぼ素っぴんに近いことと、基本的な顔立ちが決して不細工ではないことに気付いた。

一方、関西スーパーで買い物をしていた女性は、膝上10cmくらいのスカートに、ただでさえ長身なのにヒールの高いサンダルを履いて、雰囲気が自信満々にギラギラしていて、どう見ても美人で、周りの男連中もチラチラとその女性のことを見ていた。でも俺はなんとなく腑に落ちなくてさりげなく観察していた。

「あ!」と思った。というのも、その美人、見る角度によって見え方が全然違うことに気付いたのだ。ある角度から見ると確かに美人。しかも優しそうな美人だ。でも別の角度から見るとこれが全然違う。やたらと顔の陰影が目立って、美人でもなければ優しそうでもない。薄く般若の相が見える。ちょっと前の俺には絶対に気付けなかったことだ。





これは別に異性を見定める時だけに限った話じゃない。人生、様々な局面において全体像をちゃんと、あらゆる角度からちゃんと見ないといけないということだ。

誤った見方をしたりされたりする中で、損をする人もいれば得をする人もいる。

自分自身を、自分自身の目を過信しちゃいけない。

顔の所々に薄く白を混ぜて、若干年齢を引き下げた。

こういう顔の女の人が好きだという男が結構いることを知っているだけに、できるだけのことはしてやろうという気になった。

「『Nの心象』を南側の壁の一番上に、『阿仁真里』を東側の壁の一番上に、『恋のジャンヌダルク』を西側の壁の一番上にそれぞれ配置してください。それぞれがそれぞれの壁、方角に対する責任者です。従ってこの3名にはそれ相応の権限を与えてください。そして、そこのゴミ箱の上に貼ってある『LSD』って娘を早々に棄ててください。あなたの為になるとは思えません」





仰せの通りに。

1位(↑) 赤い面影

2位(↓) Nの心象

3位(―) エコーの精

4位(―) 恋のジャンヌダルク

5位(―) 阿仁真里

6位(―) 貴方は頑張りました

7位(―) 素敵な不似合い

8位(―) 祈りの少女

9位(―) バタフライ

10位(―) ムーラン・ルージュ

恩着せがましい、見返りを求める優しさは優しさじゃない。「優しさ」の「や」の字もない。

俺は莫大な借金を背負って故郷、伊丹に「逃げ帰ってきた」みたいな感じがあるけど、これじゃまるで「夜逃げ」だ。

冗談じゃない!違う。絶対に違う。頼むからちゃんと見てくれ。ちゃんと見ようとしてくれ。見てくれが悪いからといって、売り物にならないからといって、安易に捨てないでくれ。ちゃんと見りゃ、見ようとすりゃわかってもらえると思うよ。頼むよ...。

もう少し陽が沈むのを待ってから、今日も日課の夕方散歩に出掛ける。

とりあえずいつもの店で画用紙を買わないといけない。最近は2日に一度のペースで買っている。描くペースに画用紙の枚数が全然追い付かないのだ(ブログに載せずにボツにして棄ててるのも結構あるからね)。「じゃ、買い溜めをすれば良いじゃないか」と言われれば確かにその通りなのだが、俺は昔から貯金と買い溜めはできない質なのでその意見はボツ。

しかしまあ、あの店の人達は俺のことを怪しんでるんだろうなあ。いい歳をした髭を生やした野郎がしょっちゅう画用紙やクレパスや消しゴムを買いにくるんだから。ま、どう思われようが俺は客、いわば神、知ったこっちゃないけど。

画用紙を買ったら次は関西スーパーに行く。目的は...そう、それです。でもあの人、居なくなっちゃったんだなこれが。俺が『Nの心象』を描き上げた日の翌日から居なくなった。ひょっとしたら遅い夏休み?とかなんとか希望を繋いで、今日も行くのは行くんだけれども。

散歩から戻るとちょっとだけ音楽を聴いて、それから、そうです、また机に向かって絵を描き始めるのです。散歩中に見掛けた女の人の髪型や、化粧の感じ(最近、アイシャドーとアイラインの違いを知った)や、表情や、雰囲気が無意識下で複雑に混ざり合ってくれてることを祈りつつ、カリカリカリカリ描き始めるのです。





お、そろそろ良いんじゃないか?出掛けよ。

1位(―) Nの心象

2位(初) 赤い面影

3位(初) エコーの精

4位(↓) 恋のジャンヌダルク

5位(↓) 阿仁真里

6位(↓) 貴方は頑張りました

7位(↓) 素敵な不似合い

8位(―) 祈りの少女

9位(↓) バタフライ

10位(↓) ムーラン・ルージュ

フルカラーで描く前に、もう一枚単色で描こうと思い、選んだ色はオレンジ。

とにかく観ていて元気の出るスパークした感じのものを描こうと思って、描いてみたんだけど何かが足りない...え〜っと...そうや、黄色や!というわけで急ぎケースから黄色を取り出して、オレンジの上に叩き込むように練り込んだ。今朝の『赤い面影』の時とは逆にクレパスをへし折る勢い、まるで彫刻を彫っているかのような硬い音を響かせながら描いた。

蛍光色を使ったわけでもないのに光ってる。光ってる!

昨日、ようやく新しいのを手に入れた。本当に嬉しかった。

読者の皆さんが最後にクレパスそのものを見たのはいつのことですか?覚えてないくらい昔のことだったりしませんか?ご覧の通り、本当に綺麗なんですよ。封を開けたばかりのクレパスって。使い古してすり減ったらすり減ったで一本一本違った丸みを帯びて何とも言えない愛嬌が出てくるし。

というわけで、次の作品は久々にフルカラーでいきます。

ま、ま、ま、落ち着いて。わ、わかってる。こ、これはちょっとヤバいよな...。でも、ほら、出てきちゃったんだからしょうがないじゃない。ね?

ち、違うぞ。俺は断じて「ロリ」が描きたかったわけではないぞ。「よ〜し、俺もそろそろロリに挑戦するぞお!」なんてことは微塵も思ってないぞ。誓って違う。





真面目な話、絵を描いてるとたまにあるんです。「こ〜れはダメだろう」とは思うものの何故か棄てる気になれないやつ。それがこれ。だから読者の皆さんは以下の5つの点に免じて、この絵を破棄しない俺をお許しください。

1.俺史上初めて背景にアールヌーボー的なデザインを施した絵である。

2.タイトルと絵の関連性が抜群であると思われる。

3.制作過程で「これはヤバい!」と思い、人物の年齢を引き上げようと目の下に太めの線を入れたが、これがかえってただの女の子だったものを大幅にロリ化させてしまう結果となった。

4.観ていて決して暗い気持ちにはならない。

5.サインを入れない。

黒で描いた『胡蝶蘭』、青で描いた『欧州祇園』に続く第三弾単色美人画『赤い面影』。

この絵に関しては前2作とは違って、過去にですが、実際にモデルが存在します。以前にこのブログ上でも何度か紹介したことのある、俺が小4の時の担任「原田先生」です。

本当に熱い人だったという事と、小学校の先生にしては考えられないくらいのバッチリメイクな人だったという事から赤がハマりにハマりました。

太めの赤クレパスを口紅だと思って、力を抜いて、それこそ実際に女の人が口紅を塗る時のイメージで描きました。

誰も信用してくれないと思うけど、本当にこのくらい綺麗な人、先生だったのです。

テストの時、「わからんかったら裏に絵ぇ描きなさい。もし先生がその絵ぇ気に入ったらその分点数あげるから」と原田先生。俺は勉強が全くできなかったので、早々にテスト用紙を裏返して、夢中になって絵を描いて、たまに花丸をもらってました。

斬新な教育方針の連発で、我々子供の柔らかい既成概念をサイコロステーキの如くにコロコロと転がした、美人の中の美人でした。

タイトルの『LSD』は、60年代のロックスターやヒッピーの間で爆発的に流行した幻覚剤のこと。俗に言う「サイケデリック」という言葉は、このLSDを使用した時の幻覚感が語源となっていて、これをアート化したものが俺は昔から大好きで、そういう絵を描くのも大好きなんだけど、今回はちょっと60年代のサンフランシスコ(ヒッピーのメッカ)にタイムスリップしたつもりになって、そこでLSDをやってブッ飛んでるヒッピーの女の子の絵を描いてみました。たぶんこんな感じだったんだろうなあ、と。

当時、ヒッピーはフラワーチルドレンとも呼ばれていて、「ラヴ&ピース」という若者たちによる新興文化の象徴みたいにして持ち上げられていたけど、実際は頭のブッ飛んだ頭に花を差した全裸の男女が走り回り、人目も憚らずその辺の草むらでヤっちゃってたりしたという、要するに、ただの流行りもの好きの若い馬鹿の集団だったみたいです。

でも、ま、それはさておき、この時代に生まれた音楽や、ファッションや、映画は今でも全然古さを感じない、最高にカッコいい、素晴らしいものばかりです。

俺がいつも吸っている煙草『エコー』。もし、このエコーに、エコーを吸っている人間をいつも側で見守ってくれている妖精がいたらどんな感じだろう?という想像から生まれた一枚。

この絵がプリントされたTシャツ、絶対売れると思う。そして、この絵の看板を全国の煙草屋の店頭に置いたら、エコーの売上げ、確実に上がると思う。

とりあえず、エコー愛好家の皆さんは一人残らず、この絵を携帯の待ち受けに。きっと何か良いことが起こるはず。

社会的自立だけが「自立」だと思っている馬鹿がいる。例えば独り暮らしをしていない人、例えば定職に就いていない人に説教をして嘲笑うような人種がこれに当たる。でも、こういう馬鹿に限って、腹を割って話をしてみると人格的にはスカスカだったりする。自分の考え方を全く持っていなかったり、持っていないからゆえに他人の、不特定多数の考え方に安易に流されたり、不特定多数の影を背後にチラつかせながら人の考え方にいちいち余計な審判を下したり、人のちょっとした過ちをいつまで経っても許さなかったりする。

自立は自立でも、「人格的自立」ってのもあるだろう。社会的自立だけが「自立」だと思っている馬鹿は、自分が人格的にはいかに稚拙かということに実は薄々気付いてるんじゃないか?と思う。だから、そこんところを隠そうとして社会的自立の方を無闇に声高に前面に押し出してくるんだろうと思う。要するに「社会的である」ということに依存している。他人の依存を笑える立場か馬鹿野郎。





ところで以前、ある女性先輩介護士に施設屋上の喫煙所で教えられたのは「丁寧さにスピードは付いてくるけど、スピードに丁寧さは付いてこない」ということだったが、これはこの2つの「自立」に関しても同じことが言えると思う。

人格的自立に社会的自立は付いてくるけど、社会的自立に人格的自立は付いてこない。

だからこそ、人格的に自立できている人間は社会的自立を神のように崇めている馬鹿とは違って、人格的自立の重要性を無闇に声高に前面に押し出したりしないし、他人に説教したり、嘲笑ったり、許せなかったりということがないんだと思う。

社会的自立なんて金さえあれば何とでもなる。運よく宝くじで1等でも当たろうもんならそれで即解決する。でも、人格的に自立する為には金が幾らあっても何の役にもたたない。

世の中、社会的自立を重要視する人間の数が、人格的自立を重要視する人間の数を圧倒している。だから、今の世の中的には「金がすべてだ」と断言できる人間の方が「金がすべてじゃない」と言う人間よりもずっとまともだし、常識的だと思う。

社会的な圧力が、人格的な輝きを無視したり、圧し潰したりしている様は本当に見るに忍びないし、何とかしたいとは思うけど、残念ながら今の世の中、本当に金がすべてだし、かくいう俺自身が社会的屍にして人格的峠にあるもんで、どうにもならない。

無力...あまりに無力。

もし、心にタトゥーを入れてくれるという「心の彫師」がいたら、俺は早速伺って「蠍をお願いします」って言うと思う。

彫師は俺の目をじっと覗き込んでから「わかりました」とだけ言って、これを彫ってくれると思う。

〈破棄〉

・中世小窓

・マッカートニー夫人

毎日、夕方に散歩に出掛ける以外は机に向かって絵を描いているか、窓際の所定の位置、座椅子に座って自作の絵を眺めるかしている。

絵を描いてないと不安でしようがない...というのは一体どんな神経なんだろう。どんな精神状態なんだろう。

絵を眺めながら「この人らが絵の中から出てきてくれたらなあ」なんてことをよく思う。

たまにジャンヌダルクの額の紫点が光ったような気がしたり、阿仁真里が笑ったような気がしたりする時がある。完全に気のせい...とは全くもって思えない、思いたくない俺という人間。

困ったもんだ...。

1位(―) Nの心象

2位(―) 恋のジャンヌダルク

3位(―) 阿仁真里

4位(初) 素敵な不似合い

5位(↑) 貴方は頑張りました

6位(↓) バタフライ

7位(↓) ムーラン・ルージュ

8位(↓) 祈りの少女

9位(↓) 木陰の愛嬌

10位(―) 全ての女性にユーモアを

「美人」っていう基準で言うと、今のところ『胡蝶蘭』と、この『欧州祇園』が2トップかな、と。





〈破棄〉

・19

・白い悲しみ

・20 years after

「先生、私、「怒る」ということのできる人間になりたいんです。何とかなりませんか?」

「そうですか。わかりました。じゃ、これを被ってみてください。はい、どうぞ」





「.....先生、これ、私、何か全然似合ってないような気がするんですけど」

「はい。正直申し上げて全く似合っておられません。わたくし、失礼ながら今、必死に笑いを堪えております」

「.....」

「そのずきんは『怒ずきん』と申しまして、人格的に「怒」の感情の似合う方にはバッチリフィットするんですが、「怒」の感情の似合わない方にはサイズ的にも見た目的にも全く似合わないように設計されておるのです」

「じゃ、私には「怒」の感情が似合わないってことですか?でも先生、そもそも人間の感情に似合うとか似合わないとかってあるんですか?」

「ありますとも。例えばうちのかみさんなんて、その怒ずきんがまるで身体の一部かのような勢いで似合いますよ。あまりにフィットし過ぎて外れなかったことさえあったくらいなんですから」

「私は先生の奥様が羨ましいです」

「そうですかぁ?私は全くそうは思いませんよ。素敵なことじゃないですか。怒ずきんなんて似合わないに越したことはないんですよ」

「そんなもんでしょうか?」

「そんなもんです。あなたは無理に怒る必要なんてない。似合わないんですから。だから今後、もし無理に怒ろうとしている自分を感じた場合にはぜひ思い出してみてください。今のそのお姿、怒ずきんを被っておられるご自分のお姿を思い出してみてください。失礼を承知でもう一度申し上げますが、私は今も必死に笑いを堪えておりますよ」

「そうですか。そうですよね。だって私自身、先程から必死に笑いを堪えてますもの。ずきん、お返しします。私に「怒」は似合いません」

「そうです。そしてそれは本当に素敵なことです」

「素敵なこと...」

「そうです、本当に本当に素敵なことです」

1位(↑) Nの心象

2位(↓) 恋のジャンヌダルク

3位(↓) 阿仁真里

4位(―) バタフライ

5位(―) ムーラン・ルージュ

6位(初) 貴方は頑張りました

7位(―) 祈りの少女

8位(↓) 木陰の愛嬌

9位(↓) 夢と鎧とキューピッド

10位(―) 全ての女性にユーモアを

早速のコメント、ありがとう!

その「あっ!」が次のランキング更新にどう影響するのか乞うご期待!とりあえず熟考してみます。

2位の座を守れるか、阿仁真里!首位死守なるか、ジャンヌダルク!

めっちゃ俺のさじ加減!

じっと眺めていた。

「あ!」と思った。

大化けした。





我ながら次のランキング更新が楽しみだ。今度ばかりはジャンヌダルクも阿仁真里も絶対安泰とは言えない。ひょっとしたらひょっとする。

1位(―) 恋のジャンヌダルク

2位(―) 阿仁真里

3位(初) Nの心象

4位(―) バタフライ

5位(↓) ムーラン・ルージュ

6位(↓) 木陰の愛嬌

7位(↓) 祈りの少女

8位(↓) 夢と鎧とキューピッド

9位(―) 救援

10位(―) 全ての女性にユーモアを





〈タイトル変更〉

『心の灯火』→『中世小窓』

前髪を少し変えて、左耳にだけ羽根の飾りのいっぱい付いたイヤリングを付けた。

これで完璧。完成。

『心の灯火』を描き上げて、ここに載せてから、いつものように早朝散歩に出掛けた。

公園のベンチに腰掛けて、煙草を吸っていると『心の灯火』に対する不満が募ってきた。「絵、そのものは悪くない。でも、あのひとに似ていないにも程があるし、よく考えたら雰囲気さえも出ていない。あの絵はあのひとには全く関係のない、完全な別物だ」ということに気付いたのだ。

「これは出てくるのを待っててもしようがないんじゃないか?手を伸ばして、掴みにいかないとダメなんじゃないか?」と考えを改めて、即帰宅。部屋に入るやいなや猛烈な勢いで描き始めた。何故か描いている間中ずっと、薄い吐き気が続いたが、そんなものは完無視して、一心不乱に描いた。

「意識して描く」というのは初めてのことだったが、出来上がったものを見て、感無量だった。ちゃんと似てる。本物との違いはあるが、この違いは目に焼き付いたものと、心に焼き付いたものとの違いで、この絵は俺の心に焼き付いたものの表れ。俺には、俺の心にはこう見えているということだ。

初めて描けた。描きたいものを描こうとして描けた。これからは、本当に描きたいものは手を伸ばして掴みにいくことにしよう。

近所の関西スーパーに、この絵のモデルとなった女性が働いている。

小柄なその人は笑顔を絶やさず、時にレジを打っていたり、時にカートを所定の位置に戻したり、と、実にイキイキと仕事に励んでいて、俺はほぼ毎日、関西スーパーに通ってその姿を見かけては、めちゃくちゃ恥ずかしい言葉だけど「生きる希望」みたいなものを分けてもらっていた。だから、いつか絵に現れてくれることを祈っていた。

待つしかない。でも、ただ待っていてもなかなか現れてくれるものではない。だから、ほぼ毎日通って、その姿を目に、心に焼き付けていた。といって、もちろん、ジロジロ見つめるわけじゃないし、ましてや「あの〜、僕の絵のモデルになっていただけないでしょうか?」なんてことを言い出すきっかけを探っていたわけでもない。いつも、ほんの一瞬チラ見するだけ。「あ、居てはるな」程度のチラ見の積み重ね。たまに後ろ姿だけチラっと見ただけで帰ることもあった。要は、自分の中に印象を焼き付けて、いつか絵に出てきてくれることを祈っている自分を自覚し続けさえすれば良いんだから、ジロジロ見つめる必要なんてないというのが俺の考えだった。

実は過去にも一度、彼女は絵の中に登場している。『エキゾチック・ロマンス』がそうだ。でも、あの絵にしてもこの絵にしても、俺は別に彼女を描こうと思って描き始めたわけじゃない。いつものようにただ「出てきた」。そして、厳密に言うとあの絵の彼女もこの絵の彼女も実際の彼女とはどこかが違う。それはあの絵の女性とこの絵の女性が全く似ていないということが証明してる。

前作も今作もまだまだ雰囲気止まりだ。雰囲気が出ているというだけだ。次に出てきた時は、もう少し実像に迫ったものになるだろうと思う。それまではこの2枚が俺の心の灯火だ。

明日はポッキーでも買いに行こうかな。

基本的に、人間が発揮できる能力は本来人間が持っている能力全体の40%に満たないらしい。あとの60%以上は潜在能力で、この潜在能力をず〜っと眠らせたまま生涯を終える人がほとんどなんだろうなと思うと涙が出てくる。何て悲しい話なんだろう。

「自分」って檻だと思う。「自分」って足枷だと思う。自分が自分でなくなれたらどんなに素晴らしいだろう。

「自暴自棄」っていう言葉がある。凄い言葉だと思う。自分を、自分が、自分に、暴れる!暴発する!暴徒と化す!暴動!それからそれからぁ!...棄てる。

人間は100%死ぬ。99、9%もクソもない。生き残ることに0、00001%の可能性もない。いずれ必ず死ぬ。それをわかっていながら檻の中、足枷を付けた状態で40%に満たない能力しか発揮できない人生というのは一体何なんだろう。

どうせ死ぬんなら、いずれ必ず死ぬことを承知の上で生きるんなら、人生、若干自暴自棄なくらいの方が良いんじゃないのか?若干自暴自棄なくらいの方が能力的なものも55%くらいにまでなら引き上げられるような気がするし、たまに偶発的に奇跡的なことも起こせそうな気がする。

人生という小説上の「、」もしくは「。」の間隔で、「自暴自棄を楽しむ」ということをしていきたい。

日本人って凄い。何しろ「愛」と「恋」って呼び分けちゃってんだから。使い分けちゃってんだから。偉い!それにひきかえ、西洋人は何だ。愛も恋もひっくるめて「LOVE」って。ひっくるめるな。馬鹿か。





結婚してようがしてまいが、男性不信であろうが女性不信であろうが、ホワイトカラーであろうがブルーカラーであろうが、年収5億であろうが年収5円であろうが、うつ病であろうが便秘であろうが、人は皆、恋をすべきだ。「今、好きな人おるん?」って聞かれた時に「特におらん」なんて答えるのはカッコ良くもなんともない。クールでも何でもない。ただの悲劇だ。愛なんて放っといて、燃えるゴミの日に出して、人は皆、どいつもこいつも好き好んで寄ってたかって恋をすべきだ。

人間、何をどう考えたって恋ほど楽しいものはないし、恋ほど潜在能力を開花させてくれるものはないんだから。

まずは後ろで髪を束ねておく。それから、利き腕とは逆の方の足を軸足にして立ち、もう一方の足を軸足の方向へ軽く「く」の字に曲げ、「く」の字に曲げた方の足先のみ軽く爪先立ちのスタイルをとる。それから、顔を少しうつむき気味にし、両手で頭の後ろ、髪の結わえてある部分に、髪の乱れを気にしているような風情で軽く触れる。





以上が、盆踊りや花火大会などの際に、男が最も「やられる」と思われる浴衣姿の女性の仕草、姿勢です。

心理学の本を読んだり、絵を描いたり、クラシック音楽を聴いたりしている内に考えるようになったのは、「自分の中に周りの環境に左右されない自分の時間の流れを持ちたいな」ということ。

例えば、動物には変温動物と恒温動物があって、変温動物の体温が周りの温度に左右されるのに対して、我々人間を含む恒温動物の体温は周りの温度に左右されることなく、一定の温度を保ち続ける。同様に「時間の流れの感じ方」において俺は恒温動物になりたいなあと最近、思うのである。

時間の流れ方というのは、大阪と伊丹では全然違うし、さらにその感じ方というのは十人十色、てんでバラバラ。そんなこんなで、人によって歳のとり方も違ってくるんだろうと思う。

今までの俺は、特に大阪にいた時の俺はあまりに周りの時間の流れ方に左右され過ぎた。急かされたら急いたし、焦らされたら焦った。自分の中に自分のタイム感がなかった。だから、その結果、自分が自分でいることにさえも違和感を覚えるようになってしまった。

ここらでグッと、ググゥ〜ッと自分の中の時間の流れを緩やかに、穏やかに、自分に合うものにしていかないといけないなと思う。

周りは周り、俺は俺。周りの一分一秒は必ずしも俺の一分一秒と同じではない。何事にもブレない自分の時間軸を自分の中心に、背骨の如くに打ち立てたい。

時間の恒温動物になりたい。

最近、普通にクラシック音楽を聴くようになった。ロックを聴く感覚で普通に聴けるようになった。

きっかけはレンタル落ちで買ったフジ子ヘミングの『ライヴ アット カーネギーホール 2001』というアルバムで、これを繰り返し聴くうちにメキメキとクラシックの面白さに目覚めてきて、次にチャイコフスキーの『悲愴』を買ったのだが音源が古いためか、音量の幅が広すぎて聞きづらかったのだが、この「聞きづらい」という歯痒さが逆にクラシックへの想いにさらに火を付ける形になって、今日、ヘンデルの『水上の音楽/王宮の花火の音楽』を買って来て聴いたらこれがもの凄く良くて、ブッ飛んで、今も、このブログを書きながら聴いていたりするのである。どうやら俺はクラシックはクラシックでも、宮廷音楽が好きらしい。めちゃくちゃ華やかで、リズミカルで、聴いていて本当に胸躍る。俺はクラシックに「癒し」の要素なんてこれっぽっちも求めていない。クラシックもロックと同じように、爆音で聴いて、音に合わせて歌ったり踊ったりして、楽しめるものでないと困ると思っている。だって「音楽」なんだから。

ところで、俺のこのクラシック志向は、俺が描く絵にも早速影響が表れ始めている。例えば「ジャンヌダルク」というモチーフだったり、「ムーラン・ルージュ」という言葉の響きだったり、他にも『エリザベス』や『舞踏会に招かれて』や『夢と鎧とキューピッド』といった絵なんかにはかなり具体的に影響が出始めている。

ひょっとしたら、心理学の本を読む中で、ヨーロッパの文化的なものに知らず知らずのうちに触れるようになったというのも、クラシックの扉を叩くことになった原因の一つなのかもしれない。

いずれにせよ、心理学、絵画、クラシック音楽と、今まではただ「難しい」とか「敷居が高い」とか思って敬遠してきたものがすんなり自分の中に入ってきて、楽しめるようになってきたというのは本当に嬉しいことだと思っている。

これは本格的な「一憩変革期」の表れなのかなと思っているし、そうであることを切に願っている。

自分の絵をTシャツにして売ってみたい。

ランキングに並ぶ10枚のうち8枚(恋のジャンヌダルク、阿仁真里、ムーラン・ルージュ、木陰の愛嬌、祈りの少女、夢と鎧とキューピッド、全ての女性にユーモアを)は、Tシャツにしたら、ひょっとしたら、結構売れると思う。

『恋のジャンヌダルク』と『木陰の愛嬌』は黒いTシャツの前にでかくプリントする。『阿仁真里』、『ムーランルージュ』はベージュのTシャツの前にでかくプリントする。『夢と鎧とキューピッド』はグリーンのTシャツの前に小さめにプリントする。『バタフライ』は明るめの紫のTシャツにでかくバックプリントする。『祈りの少女』は濃いピンクのTシャツの左肩にワンポイント的にプリントする。『全ての女性にユーモアを』は茶色のTシャツの前にでかくプリントする。そして、『バタフライ』に関しては左肩に、『バタフライ』以外のものに関してはTシャツの後ろ、首のちょっと下あたりにブランド名である『憩』の一字をさりげなくプリントする。

価格は一着¥2500〜¥3000。そして、このブランド『憩』の特徴は店舗が伊丹最北端に小さいのが一軒あるだけということ。この限定感がたまらないでしょう。購買意欲を掻き立てるでしょう。

やってみたいなあ。意外と『全ての女性にユーモアを』が一番売れたりして。っていうか、どれもこれも全く売れなかったりして...。

1位(―) 恋のジャンヌダルク

2位(―) 阿仁真里

3位(↑) ムーラン・ルージュ

4位(↓) バタフライ

5位(―) 木陰の愛嬌

6位(―) 祈りの少女

7位(―) 夢と鎧とキューピッド

8位(―) エキゾチック・ロマンス

9位(―) 救援

10位(―) 全ての女性にユーモアを

だいぶ前に書いたことだが、俺は介護の仕事をしていた時、自分の右腕と左腕を尊敬する2人の女性介護士の名前で呼んでいた。

俺の利き腕であり、左腕より太く力仕事に向いている右腕を「村本さん」と呼び、利き腕ではないが、携帯を打ったり、ギターを弾いたりと、繊細なことをする際に活躍する左腕を「西山さん」と呼んでいた。村本さんは介護の学校の先生で、西山さんは現場における大先輩だった。体格的には対称的で、村本さんが大柄でがっちりしているのに対して、西山さんは小柄で細かった。





昨日描いた『ムーラン・ルージュ』という絵で、俺の無意識層から姿を現したのは西山さんだった。本当に良く似ている。もちろん、頭のてっぺんで髪を束ねているなんてことはなかったし、こんな感じの眼鏡も掛けてなかったが、この2点を除けて見ればこれはもう何とも言えず西山さんなのである。

有難い人が出てきてくれたもんだなあと思う。この部屋に西山さんがいて、しかも笑顔でいてくれてはるというのは実に心強いし、嬉しい。

たかが絵。されど絵。俺は『ムーラン・ルージュ』に足を向けては眠れない。部屋の中に、もの言わぬ頭の上がらない人がいるというのは何とも楽しい話だ。

ちなみに『ムーラン・ルージュ』というのはフランス語で「赤い風車」という意味で、ロートレックという画家がしょっちゅう訪れては絵を描いたという、大昔から営業している有名なキャバレーの名前らしい。

「赤い風車」そして「キャバレー」。現場を小走りに走り回り、目がギラギラしていて睫毛が長く、オーラ的に派手な感じのした西山さんにぴったりだと思う。

ムーラン・ルージュで逢いましょう。

1位(―) 恋のジャンヌダルク

2位(―) 阿仁真里

3位(―) バタフライ

4位(↑) ムーラン・ルージュ

5位(↓) 木陰の愛嬌

6位(↓) 祈りの少女

7位(―) 夢と鎧とキューピッド

8位(―) エキゾチック・ロマンス

9位(―) 救援

10位(―) 全ての女性にユーモアを

1位(―) 恋のジャンヌダルク

2位(―) 阿仁真里

3位(―) バタフライ

4位(―) 木陰の愛嬌

5位(初) ムーラン・ルージュ

6位(↓) 祈りの少女

7位(―) 夢と鎧とキューピッド

8位(―) エキゾチック・ロマンス

9位(―) 救援

10位(―) 全ての女性にユーモアを

タイトルに特に意味はない。「ムーラン・ルージュ」という言葉自体は知ってるけど、意味は知らない。

ただ、完成したものを見た時に「ムーラン・ルージュ」という言葉が閃いて、他の言葉は何も思い付かず、「これしかない!」と思ったので、そのままタイトルにした。

確実にランクインしてくる絵だ。

1位(―) 恋のジャンヌダルク

2位(―) 阿仁真里

3位(初) バタフライ

4位(↓) 木陰の愛嬌

5位(↓) 祈りの少女

6位(↓) 胡蝶蘭

7位(↓) 夢と鎧とキューピッド

8位(↓) エキゾチック・ロマンス

9位(↓) 救援

10位(―) 全ての女性にユーモアを

ついさっきの出来事。

眠たくなって横になった。そして目を閉じた瞬間、この絵のヴィジョンが突然、もの凄いインパクトで頭に飛び込んできて、居ても立ってもいられなくなって、体を起こして机に向かい、無我夢中、20分くらいで描きあげた。

な、何だこれは!!

頭で考えてもこの構図は絶対に浮かばなかったと思う。

そういえば以前にも一度、同じような経験をしたような気が...そうだ、『ストーカー』という曲が生まれた時もまさにこんな感じだった。

これが世に聞く「インスピレーション」か!?

凄いな。これはちょっと凄いぞ。本当に凄い感覚だ。ゾッとする!

体内の細胞が刻一刻と死と誕生を繰り返すのと同じように、自分の内外であるものは消え、あるものは残るという淘汰が繰り返されるというはとても自然な成り行き、健康的なことで、この淘汰ということがなされる時に、ときに自分に対する誤解が大きく作用して大きく傷付けられる場合もあるが、この場合の誤解に対しては代わりに何か新しいものが生まれる前触れだと捉えて、逆に感謝してしかるべきなのかもしれない。

だから、じゃんじゃん誤解してもらって結構です。そりゃ本当は誤解なんてされないに越したことはないけど、淘汰ということを思えば、自分を取り巻くあらゆるもののレベルの底上げを思えば、これはいた仕方ない。誤解、大いに結構です。でもその代わり、あなたが私を誤解したその時、その瞬間にあなたは私の世界から登録抹消されることをご了承ください。

1位(―) 恋のジャンヌダルク

2位(―) 阿仁真里

3位(―) 木陰の愛嬌

4位(―) 祈りの少女

5位(―) 胡蝶蘭

6位(―) 夢と鎧とキューピッド

7位(―) エキゾチック・ロマンス

8位(―) 救援

9位(―) 姉

10位(初) 全ての女性にユーモアを

薬がないと思考や感情の安定が保てないなんて本当に情けない。

大阪にいた時の酒が薬に変わっただけの話で、いずれにせよ自力では、「シラフ」では、我がの思考や感情の安定を保てないんだから本当に情けない。





滅入る...。

同タイトルのさっきの絵はいわばデモヴァージョン。

だからサインを入れなかった。

この絵こそが正真正銘の『20 years after』

だからサインを入れた。

二ヵ所、微修正を施した。

ランキングの首位に君臨し、部屋の中央、唯一の額縁の中に収まり、部屋全体の雰囲気を左右する使命を負った絵たるものはいつも完璧でなくてはならない。

じゃないと、2位の座に甘んじている阿仁真里が黙っちゃいない。

俺の趣味って「散歩」だと思う。俺は散歩が大好きだ。

後ろ手に歩きながら、色んなものを見て、色んな音を聞いて、色々と感じて、色々と考える。

誰かに俺の散歩中のものの見え方や、音の聞こえ方や、感じ方や、考え方を体験してもらえたらなあと思う。

たぶん、びっくりしてもらえると思う。

絵に、気付きたくないことまで気付かされて困る。

でも、絵を描かないと気付けないことがあまりに多いのも事実。





一般的には「コンプレックス」っていうと「劣等感を生む要因」として認識されているけど、心理学的には「コンプレックス」は何も劣等感に限った話じゃなくて、広い意味での精神的な「抑圧」、意識的に認められないことや認めたくないことを無意識層に圧し沈めることを言う。だから逆にいえば、人間は、認められないことや認めたくないことを無意識層に圧し沈めることはできても、消失させることはできないということになる。ただ忘れたような気になれるだけ。消失させられるものなら今すぐにでも消失させたい思想や認識や記憶は残念ながら無意識層でしっかり呼吸し続ける。

俺の場合、これが絵として如実に表に出る。出す。そして、どういうわけだかこれを多くの人に見てもらいたいと思ってしまう。恥部をさらすような真似をして解放感なり快感なりを味わうある種の露出狂だ。で、たまに「うわ、恥ずかし!」と思ってしまう自業自得。

こんな俺にも若干ながら羞恥心みたいなものが残っているらしい。

昨夜、旧友に俺の無意識的かつ潜在的ともいえる恋心的なものについて、痛い所を突かれてしまった。

確かに彼の言う通りかもしれない。

人間の心理。「意識」というものは水面上の氷山の一角で、水面下には「意識」の何倍もの大きさの「無意識」がある。そして俺の絵は、この無意識から立ち上ってくるもので成り立っている。

だから俺の絵には嘘がない。嘘をつけない。嘘は絵が仕上がった後に創話として添えられる。

でも、「目」のある人には一瞬にして見破られてしまう。

俺の絵はあまりに赤裸々だ。

昨夜、『小悪魔SG』が売れた。以前、『受容』を買ってくれた旧友の2点目の購入で、俺は彼の奥さんの為にもう一点、『ポーラ』をオマケ的に添えて譲った。

『小悪魔SG』には「まあ、一般的にはそういうことになってるらしいけど、それが正解ってことになってるらしいけど、ホンマにそれでいいのかねえ?」という、斜め目線で物事をしっかり捉えようとするパワーが練り込んであって、一方、『ポーラ』には「不変の美」というパワーが練り込んである。

『受容』と『小悪魔SG』と『ポーラ』があれば、練り込んだパワー的にははっきり言って無敵だろうと思う。

あとは彼と、彼の奥さんがそのパワーを信じるかどうかだが、その点に関しては俺は、はなっから全く心配していない。

彼の人生、彼の奥さん、彼の家庭はじゃんじゃんじゃんじゃん良くなっていくと思う。

間違いない!

たった今、耐え難い悪夢を見て目を覚ました。

起きて、椅子に座ると目に『ブラック・バタフライ』のたくらみ顔が飛び込んできた。

少し躊躇してからぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に叩きつけた。

『夢と鎧とキューピッド』と同じく、テイスト的にちょっと違うとはいえやはりベッキーに似ているような気が。たぶん俺の深層心理的に何かあるんだろう...というわけで「深層」。これに、絵のクレオパトラ的な構図から「クレオ」という言葉をくっ付けて『深層クレオ』

呪術的な雰囲気があるから、この絵に向かって何か祈れば叶ってしまったりするのかもしれないが、その代わりに何らかの代償を払わされそうな気がしないでもないから祈らない。

皆さんは今、「バタフライ」という言葉から何を連想しますか?

そう、そういうことです。

ま、別に伝わらなくてもいい..っていうか伝わらない方がいいんですけどね。

プロフィール

いっけい

ビートルズ好きの両親の元、ビートルズを子守唄に育ち物心が付く前から音楽に慣れ親しむ。
学生時代からいくつかのバンドを結成し関西を中心にライブに明け暮れる。
現在はソロでの音楽活動に加えイラストも手掛けるマルチアーティストとして活動の幅を広げている。

いっけいの楽曲が聴ける!! MySpaceはこちら

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