大阪在住のうたうたい&絵描き&詩人 和田一憩(わだいっけい)のブログです。最新情報も随時配信していますので要チェック!!です。 携帯サイトはコチラ

2010年5月アーカイブ

コメントありがとうございます。あらためて深く考え直さずにはおれない鋭い問い掛けです。

長文になります。

ここ数年、自分みたいな怠け者が「努力した」などと大きな声ではなくても言えるとすれば、それは「音楽をやるため」の一点においてのみでした。また音楽をやるための土台作りというか、環境整備というかを最優先に、「急がば回れ」的ではあるけど出来る限りのことをやってきたつもりです。例えば、「キツい」で名高い介護職をあえて選んだというのも、また再び音楽をやるための俺の中の密かな計画の一環でした。「まずは認めてもらってからだ」と。でも実際はその土台作りや環境整備に全てを費やす形になってしまって、走れど走れど音楽と自分との間の距離が縮まらず、焦り、気付けば社会的にもメンタル的にも完全に行き詰まってしまっていたという感じです。

計画が総崩れに終わった今はただ「じゃ次どうするのか」という自問自答で頭がいっぱいで、自分の中で狂った羅針盤が絶えず回転し続けているような感じです。ただ、唯一はっきりと自覚できているのは、ここ数ヶ月間、ここに文章を書いたり、週末にライブバーで歌ったりを衝動的に繰り返す中で「やっぱり自分は何かしら作らねば生きていけん人間らしい」ということです。これは、これだけはどうも確かなようなんですが、でもじゃ次どうするのか。また土台作りとか環境整備から始めるのか?同じやり方で?それじゃまた同じことの繰り返しだろう..となって、やはり羅針盤は狂っているらしいのです。

狂っているものが治って、方向が見えてきたら、また意気揚々と努力するつもりです。でも、もう二度と同じような失敗はしたくないし「できない」ので、今度は本当に慎重に、慎重過ぎるくらい慎重にいくつもりです。

今回は特に期限を設けず、今までここにほとんどコメントを寄せたことのない方々の為に設置してみます。

毎度のことながら、コメントの内容は一切問いません。俺に対するコメントでも良いし、あなたのただの独り言でも良いし、芸術活動をやっておられる方なら、その活動に関する告知的なものでも全然構いません。大歓迎です。

俺に対するコメントであれば返事は必ずします。

期待せずに待ちます。

600本に到達した。

数々の新機軸を打ち出した6枚目のアルバム。タイトルを『少年零記』とします。

このタイトルを発想するのに丸一日を要しました。

数え切れないくらい名曲を聴いた、数え切れないくらい名画を見た、数え切れないくらい名著を読んだ情緒感や感受性の無い人間に、俺が「創る」ということに関してとやかく言われたくはない。

淀川河川敷。

あのオッサンが白昼堂々全裸を晒して洗身するのに使用していた水道。

「必要じゃないものは棄てろ!片っ端から棄てろ!躊躇するな!さっさとしろ!撒き散らせ!追い付かれるぞ!死にたいのか!」

天神橋筋商店街は一歩筋を外れるとビジネス街。

『いつもここから』がいっぱいいる。

1.長い財布を後ろポケットに突っ込んで、大幅にはみ出させている奴は信用できない。

2.自分の彼女のことを「女」と呼ぶ奴とは、それなりに仲良くは出来ても決して友達にはなれない。

3.「中野」と「沢田」は信用できない(今まで、この名字の人間でロクなのに出会ったことがない)。

4.基本的表情において口の尖っている人間には深入りしない。

5.パーラメントを吸っている奴は100%信用できない。

6.巨人ファンとの関わりには妙な違和感が付きまとう。

7.サザンファンとの会話は5秒で底にたどり着く。

8.猫好きと会話をした後に残るのは空振り感。

9.過去にいじめに遭ったことのある人間には、親友にするに値する人が多い。

10.俺のことを忌み嫌う人間にはイヤミなオカマ野郎が多い。

高価な財布が解せない。財布が高価って何か物凄く本末転倒な気がする。意味がわからない。

傘じゃないだろうか。本来、所有するに高価たるべきは傘じゃないだろうか。

財布はそれが財布であるという時点で、高価安価を問わず、既に社会性なり現実性なりの塊みたいなもので、これに大枚をはたくというのは社会性の上にさらに社会性を、現実性の上にさらに現実性を積み上げているだけの見栄の上塗り的行為とも言えて何の面白味もない。一方、傘は我々の生活に欠かすことのできない必需品でありながら果てしなく軽視され、その場しのぎ的に使い捨てられ続けている、いわばこの国における『芸術』そのもののような品物であって、井上陽水の名曲「傘がない」や、仏国の名画「シェルブールの雨傘」等のタイトルを見てもわかるように、傘というものは古来、基本的に非常に詩的な品物で、これに金をかけるというのは、財布に金をかけるのとは比べ物にならないくらい夢のあることなんじゃないかと思うのである。





皆がもう少し傘というものに愛着を持って、より高価なものを求めるようになれば、ひょっとしたらそれが意外とこの国の芸術水準みたいなものの引き上げに繋がるのかもしれない。

天神橋筋商店街。昼間から酔っぱらいには事欠かない。

前後不覚に陥った泥酔のオヤジ。その辺の路地から奇声を上げて飛び出してきて俺を一発殴ってはくれないだろうか。

こう見えて少林寺二段。ひょっとしたら余裕で酔っぱらいのグーなんかかわせるのかもしれないけど、もし当たったらその時こそ俺、生まれて初めてキレられるのかもしれないし、その時こそ俺、劇的に生まれ変われるのかもしれない。

殴られて、キレて、その酔っぱらいを半殺しにできたら、俺の中で何かが確実に変わって、ものの見え方、自分自身の捉え方が劇的に好転する気がする。

そして、何より、胸を張って堂々と家に帰ることができるような気がする。

かかってこい!

キレてみたい。

見たこと、聞いたことが自分の中で何らかの形を成していく。

「使い捨て」な物は、「言葉」を含めて生み出したいとは思わない。





俺が北野武という人を尊敬、人生の目標の一つとして掲げ始めたのは小学4年の頃だった。あのひとがフライデー事件を起こした時は子供心に痛快だった。そして、気が付けばあのひとはお笑い芸人から映画監督、アーティストへと鮮やかにシフト変更。お笑い界でトップを極めた人間が瞬く間に映画界のトップ、「世界の北野」と呼ばれるまでに登り詰めた。あのバイク事故を含めて、あのひとのやることなすこと全てが最高だと思う。

昔、とある音楽番組にブルーハーツが出演していて、司会者に「あなたにとってロックな人とは?」との問いにヒロトもマーシーも声を揃えて「たけしさん」と答えていた。

2010年。あのひとの新しい映画『アウトレイジ』は早くも「傑作」との評価を得て、各紙面を賑わせている。

あなたは本当に、最高です。

じゃんじゃんじゃんじゃん時間がなくなっていく。

じゃんじゃんじゃんじゃん言葉が溢れ出てくる。

一体何の為の焦りだろう。誰の為の焦りだろう。





何事にも、何者にもビビることなく、自分の中の子供にもう少し伸び伸び遊ばせてあげて、自分の中の子供にもう少し自由に喋らせてあげて、解放してあげないと、どうにもならんのだろうなと思う。

説教をしないで欲しい。俺が縮むと、小さくなると、俺の中の子供は俺以上に窮屈な思いをするから。

もう許してやって欲しい。

幾つになっても、どこにいても、夕暮れ時の公園はたまらない。何とも言えず、悲しくなる。

子供の時、この季節のこの時間になると家の真裏にあった公園で毎日のように遊んでいる俺を父親か母親が迎えに来てくれた。

「そろそろご飯やぞ〜」





今じゃ跡形もなく取り壊されてしまったあの家。様変わりしてしまったあの公園。

伊丹最北端の夕暮れ。

1.トム・ヨーク(レディオヘッド)×ジョン・レノン

2.北野武×和田勉(親父)

3.桑田佳祐VS和田一憩

「あなた、一体どこまで憑いてくるつもりなんですか?どこまでも憑いてくるおつもりですか?」

「はい。何しろ私、影ですから」

「あくまで自分の意思じゃないと。こうおっしゃりたいわけですか?」

「はい。何しろ私、影ですから」

「そういえばあなた、たまにいませんよね?僕の側にいませんよね?あれも自分の意思ではないと?」

「はい。何しろ私、影ですから」

「あなた、それしか言えないんですか?」

「はい。何しろ私、影ですから」

「帰ってください」

「お言葉ですが私が帰ったら、あなた、死にますよ」

「ちゃんと喋れるんじゃないですか」

最近、細心の注意を払っているにも関わらず、誤字脱字が目立ってきている。

衝動最優先で書いているということの明確な証拠だ。

とても良いことだ。

俺、生まれてこのかた、衝動に身をまかせるなんてこと、ほとんど無かったんだから。

「みっともないことをしているのは百も承知です」

「じゃ、やめりゃいいじゃないですか」

「全ての人間があなたみたいに思ったことをその場で即、口走れるわけではないのです」

「あんたにはわからんのだ。私が日々、いかに寡黙に耐え忍んでおるのかを。今からそのあたりのことを詳しく順序立てて話して進ぜるから黙って聞いていなさい」

「私はあなたに言葉を授けて、あなたの前に私を遣わせた神を憎みます」

「何をごちゃごちゃと」

「私は「ごちゃごちゃ」などとは申し上げておりません」

「少なくとも私には「ごちゃごちゃ」としか聞こえませんでしたがねぇ」

「そりゃそうでしょう。あなたの言葉は全て擬音語なのですから」

(文/写真 阿仁真里)

この界隈にはリアムより厄介な人間が山ほどいるのです。

もう本当に、完全に行き詰まってしまった。

この先、何をすりゃいいんだかさっぱりわからないし、この先、自分が何かをしたくたるとも思えないし、でも、とりあえず、家でじっとしているのだけは耐えられないから、来る日も来る日も梅田〜天満界隈を特に何を買うわけでも食うわけでもなくブラブラブラブラほっつき歩いている。

そういえば最近は、自分でもびっくりするくらい物欲というものがなくなってしまった。今はただただ自分の持ち物を売ったり捨てたりすることに執着している。何故そんなことに執着しているのか自分でもさっぱりわからないが事実は事実。

昨日、同じような文章を書いたが、外に出て、街を歩くたび思うのは、「みんな本当にイキイキしてるな。笑ってるな」ということで、これに関しては皮肉じゃなくて、本当に素晴らしいことだなあと思う。でも、ふと我に返った時には溜め息しか出ない。

「自分なりに」という言い方を許してもらえるのであれば、俺はここまで自分なりに結構頑張ってきたつもりなのだ。でも、知らず知らずの内に何かを確実に着実に間違ってきたんだろう。

気が付くとここにいた。

何の写真かさっぱりわからんでしょう。何が写ってるんだかさっぱりわからんでしょう。でも、それで良いんです。何しろ、写真右端に写っている四角い仮設トイレから左にちょっと視点を移した所に見える小さな黒い影は真っ昼間、公衆の面前、公園内に備え付けてある水道で豪快に身体を洗っている全裸のオッサンなんですから。

金にならんことなら任せとけ。

砂浜。遥か彼方に地平線。

昼夜を問わず、炎を絶やしてはいけない。煙を絶やしてはいけない。

来る日も来る日も狂ったように島中を徘徊。枯木を両手いっぱいに拾い集めては炎めがけて放り投げて「俺、ここにいまあ〜す!俺、和田一憩はここにいまあ〜す!」と叫んでいます。

想像や空想に走らせたら、俺の右に出る者はいないと思う。

でも

もし俺がわかりやすく友達を失うことがあるとすればそれは、その友達が俺が想像や空想に走り過ぎていると判断した時だと思う。

でも

神様が俺に「みんなには内緒やで」と言って特別にこっそり持たせてくれたのは、想像や空想についての力だけだと思う。

レッツゴー、ボーリック。

商店街の片隅。ベンチがちょこっとだけ並んでいる、ちょっとした憩いの場に、昼間っから泥酔している見るからに自暴自棄なオッサンがいて、手元のワンカップの空き瓶を次々に地面に叩きつけては、無言、虚ろな表情を浮かべていた。

キャリーン。キャリーン。瓶の割れる音が商店街のアーケードに反射、共鳴、鳴り響いて、オッサンがやっていること自体は最低なのだが、音そのものは何故かなかなかに美しくて、俺なんかは「この音、サンプリングとかしたらええ感じになるんやろな」などと思っていたのだが、5分もせぬ内に警官がやってきてオッサンを捕獲。オッサンの前衛芸術は前衛過ぎるがゆえに誰にも理解されぬまま、日本一長い商店街の虚空へ葬り去られたのであった。

(文/写真 阿仁真里)

このブログの愛読者の皆さんなら良くご存知の一憩の書斎です。もうちょっとしたら梅雨が来るけど、梅雨が去って暖かくなったら一憩はまたこの場所に本格的に戻ってくることでしょう。

高架下、立っションをした。

セメントの細やかな裂け目にたちまち河ができた。

「天地創造」って、速い話がこういうことだろう。神様がやるから崇高なんであって、俺がやる分にはただの迷惑な立っションだ。

でも、例えば蟻は「わあ〜い、河だあ!」なんて言って喜んでいるのかも知れず、この場合、俺は少なくとも蟻にとっては神様なのかもしれない。

違うか...。

あなたは社会的にはイケてないかもしれないけど、人間的にはイケてるんだから、俺にとってはそれが全てです。

付き合ってください。

イキイキとして生きたいと願わない人間がいるだろうか。

俺はイキイキとして生きたいし、それが唯一と言えば唯一の望みだし、俺は俺の友人たちには出来る限りイキイキ生きて欲しいなと思うし、イキイキ生きる為には手段を選ぶなかれなんてことさえ思う。

え?俺自身と俺の友人たち以外の人たちについて?

知らねえよ。どうだっていいよ。勝手にすれば良いじゃねえか。涎垂らして笑って生きて、寿命がきたら素直に死んでくれ。

「自分のせいではない」と思っている間は解決しないでしょう。

無駄な音が一つもない。

『KID A』が聴こえだした瞬間から、今まで良いと思ってきた音楽の大半が退屈なものだとしか思えなくなってきた。今じゃ俺、『KID A』に収録されてる曲、全て歌えるし、「これは歌モンだ」と胸を張って言える。でも、同じ歌モンでも今まで聴いてきたものとは似ても似つかないもの凄い感触がこの『KID A』というアルバムにはある。だから「歴史的傑作」なんだろう。





突き詰めると数字の「0」という概念は本当はあり得ないのだそうだ。「0」は「無」を意味するのに、「0」と表現した時点でそれはもう「0」として立派に「有」で、「無」じゃねえだろうということなのだそうだ。

『KID A』は「0」を音楽として表現したものだと思う。「無」を表現したら、その表現したということが「有」だったみたいな感じ。

ありとあらゆるものの終わりでありながら、ありとあらゆるものの始まりでもある「0」な音楽『KID A』

今まで色んな音楽を聴いてきたからゆえに理解できた、今まで触れてきたものの中で一番凄い世界『KID A』

これが「ロック」というのなら、これも「ロック」というのなら、俺はやっぱりロックが好きだ。

つい先程、梅田のTSUTAYAの裏手で、昔、工場で一緒に働いていた奴にバッタリ出くわした。

彼は俺よりだいぶ年下で、仕事上でも俺のだいぶ後輩に当たり、俺が彼に仕事を教えたりもしていたのだが、そんな彼に「和田さんじゃないですか?」と呼び止められたのだ。

死ぬほど嬉しかった。彼に久々に会えたことはもちろんだが、それ以上に「和田さん」の響きが嬉しかった。俺のことを先輩として捉えてくれてる人間がいるということがめちゃくちゃ嬉しかった。

自慢じゃないが、俺はどんな世界においても「先輩」として機能すればなかなかのもんだと思う。「後輩」はきっと俺のことを好いてくれてると思う。こう見えて俺、「後輩」にはめちゃくちゃ優しいから。

「じ、自尊心ですか?」

「はい。私の自尊心の問題です。あれ?ひょっとしてあなたお持ちでない?ただでさえ何もお持ちでないのに、自尊心さえもお持ちでない?」

「もし僕に自尊心がなかったら、僕は今、ここにいませんよ...」

「あはは。笑わっしょんな、こいつぁ」

「...それ以上無駄口を叩くようなら仕方がない。刺しますよ。ちゃんと診て頂けないのであれば僕は、あなたを、刺します」

「ちょ、ちょっと待って。それじゃああまりに飛躍し過ぎでしょう。何故たかがこれだけの事で刺されねばならんのですか?

「自尊心の問題です」

「どれどれ」

「あ、あの、すいません。僕が診て欲しいのはそこじゃなくてここなんですけど...」

「あ、そこですか。誠に申し上げにくいんですが、私、そこを診て差し上げるわけには参りません」

「な、なぜですか!?」

「自尊心の問題です」

自分の置かれている状況が最低で、自分自身でいることが窮屈でならんからといって、「人生みたいなもんはゴミだ」みたいな事を口走ってはいけない。

一歩外に出て、街を歩けば、羨ましいほどにイキイキとした表情を浮かべている人が何食わぬ顔をしてうじゃうじゃいるんだから、そんな人たちの人生の興を醒ますような真似をしては絶対にいけない。

一つ一つ手にとって眺めてみれば、自分にとって本当に必要だと言えるモノなんてほんの僅か、数えるほどしかないことに気付く。

ピーターパンは楽しいことを考えた時に空を飛べるが、これは逆に言うと「楽しくないことを考えない」ということで、「楽しくないこと」はすなわち「必要ではない」ことなので、我々も空を飛びたいと願う場合にはやはり必要ではないモノを徹底的に排除する必要があるわけで、その為には、一番の近道として、本当に必要だと思えるモノを抱き締めて愛でて放さないということが極めて有効な手段であると言えるのである。

俺は気象の変化を読む天才だ。

嵐の前触れを感じます。今、雨が降っておりますが、これは序章です。

序章に過ぎないのです。

介護の世界に入って、真っ先に教わる言葉が『受容』である。『受容』とは、「自分と他人の違いを受け容れる」ということで、要するに「自分の価値観で他人を測らない」ということなのだが、結論から言うとこれを一時的にではなく継続してやっていけるのは聖人か天才か狂人であって、我々のような一般ピーポーにはまず無理、無理難題でなのである。一般ピーポーが下手に手を出すとロクなことにならない。というのも、一般ピーポーにとって『受容』はどうしてもストレスに直結していまうからで、一度ストレスに直結してしまうと、果ては頭の中で何かが爆発、『受容』の真逆とも言える有り様を露呈してしまうに決まっているからである。

継続できない真似ごとは止めた方が良い。

例えば、我々一般ピーポーには、アントニオ猪木の真似ごとさえ継続できない。数時間、下手をすれば数分で「顎がつった!」などと大騒ぎをして終了だ。

そういうこと。我々一般ピーポーに『受容』は向かない。続かない。アントニオ猪木の真似をするのと同じくらいの勢いで続かない。一見、続けていけてるように見えるベテラン介護士でさえ、飲み会ともなるとロクでもない酔い方をして、ぶっ壊れて、醜態を晒してるんだから。

今後、CDはアルバム、シングルを含め厳選に厳選を重ねた10枚のみを所有することとし、10枚以上の所有を固く禁止する(但し、BOXセット等の特殊仕様は計算外)。

これは、所有CD間に競争の原理を生み出すと同時に、所有者=和田一憩が自らの人格的、音楽的方向性を明確に把握することを目的とした措置である。

以上。

感謝やなんて畏れ多い..。その感謝に心から感謝です。

新曲『阿仁真里』気に入ってもらえたみたいで本当に良かった。俺自身、歌ってみてめっちゃ手応え感じたから2回も歌ってしもたよ。





俺、何かと面倒臭い野郎やけど今後ともよろしくお願いいたします。

今夜は小学1年の時からの友人に会う。

今まであまり深く考えたことはなかったが、考えてみれば「小学1年から」ってもの凄いことだ。なにしろ28年の長きに渡る関わり合いであって、俺は今33だから、俺の中に彼の存在がなかったのはたったの5年なのである。しかもその5年というのは、生まれてから幼稚園を卒園するまでの、ほとんど記憶にない、物心つく前の5年なんだから、俺にとって彼の存在というのは本当は本当に物凄いのである。

そんな奴に生まれたばかりの曲を聴いてもらうというのは、何ともスリリングだ。

出てくれ、声!

音楽にしろ、文章にしろ、新しいゾーンに踏み出すべきタイミングが来たなと思っている。

音楽に関して言うと、『FLOWER』を完成させてオリジナルが40曲に達した時点。文章に関して言うと、このブログが500本に達した時点。それぞれが、俺にとってターニングポイントだったように思う。40曲目以降と500本目以降はそれぞれ、自分なりに「新機軸を打ち出す」みたいなことを楽しんでみたいなと思っているがゆえに41曲目はカバーだったし、501本目以降の文章はこんな感じに仕上がってきているのである。

しかしながら俺のそんなこんなに一体誰が注目しているのか。「無名の分際で何を偉そうにぬかしてやがる」との声が上がったとしても至極当然な話なのだが、いつの日も俺は、俺にとっては最も注目すべきアーティストだし、それは阿仁真里にとっても同じことで、だから俺は、少なくとも俺と阿仁真里の期待にだけは確実に応え続けていきたいと思っているのである。

「はい。お呼びですか?あ、そのブレッドの横のお料理ですか?そちらは本日、こちらのコースをご注文して頂いたお客様にのみご提供させて頂いておりますものでございまして、調理の際に英国の『オレノ』というメーカーが1977年に製造して一大ブームを巻き起こしました非常に変則的な形をした包丁を使用しております。形はいびつながら、お味の方は非常に美味との評価を各方面より戴いております当店自慢の隠れメニューでございます。このお料理の名称ですか?それは先程、皆様にお配りしましたメニュー表の下の方に小さく記載してございます」





終わりなき不仲の板挟みサンド

「本日は当店にお越し頂き誠にありがとうございます。今、皆様のお手元にございますのが本日お出しするコースの内容となっております。お料理が運ばれて来ますまでの間、ごゆっくりご覧になっておくつろぎくださいませ」







生来の悪癖たる従属意識に止むことのない臆病風サラダ

自分の中の餓鬼が拵えた無数の罪悪感ブレッド

大人なり社会なりに対する過度な畏敬の念ステーキ

「自分は創る人間である」という耳鳴りに絡み付く怠惰パスタ

現在への無力感と未来への絶望感シャーベット

自分自身への失望ティー

想像してみてください。

あなたの目の前に、膨大な量の砂でパンパンに膨れあがった、あなたの体格の5倍はあるかと思われる巨大なサンドバックがあります。そして、あなたの右手には切れ味が良いんだか悪いんだかよくわからないナイフが握られているとします。

さあ、あなたならどうしますか?

やっぱりあれですか?斬りつけたりするわけですか?

もし全ての人間の左胸に直径10cm大の丸い小窓が付いていて、服もその部分だけは丸くくり貫いてあるのが当然な事だとしたら、小窓の中にはその人間の微妙な心境の変化に合わせて変色する小さなサンドバックがぶら下がってるんだろうなと思う。

ウインナーみたいな感じで。

昔、芸大生と討論になった時、「今からでもオリジナルなものは創れる」と主張したのは俺だけだった。

昔、旧くからのバンド仲間と語り合った時、「俺らは別に無くても良いものを作って食って行こうとしてる」意見に賛同しなかったのは俺だけだった。





それでも貴女は俺を相手にしなかった。

「誠に申し上げにくいんですが、これはかなり根深いです」

「いえ、毛深いんです」

「あ、良くご存知で。そうです、我々の世界ではこういった状態を「毛深い」と表現しております」

「いえ、根深いんです」

「愛してます」

 

後頭部に観音開き型の小さな扉がある。開けると赤いツマミがあって、このツマミが俺の思考回路を作動させたり停止させたりするスイッチになっているのだが、内部で配線が複雑に絡み合うことによって発熱、断線、故障。ここ最近ずっと「ON」のままになってしまっていて、その影響下、今夜もこの時間まで眠れないでいる。

脳内に内蔵された『自動充填型思考回路用熱量缶(1977年度製)』側面の残量表示が「0」になり、熱量缶全体に自動冷却機能が作動し、残量表示盤の隣に弱々しく表示される日付が「5/20」に変わって、脳内に熱量充填中を告げるアラームが低く鳴り響くまで、今夜、俺は、眠れない...。

歩いたり走ったりするとそのうち必ずどこかに辿り着いてしまう。かといって、ずっと同じ場所に棒立ちに突っ立っておるというのは完全なる苦行。人間、微動だにしないということのいかに辛いことか。悟りのひとつも開いてないと絶対に無理。「じゃあ回れば?」ということで、前後左右への移動は一切行わず、ずっと同じ場所に突っ立ったまま回転し続けていれば良いのかと言うとこれはこれでたぶん無理。5分も経たぬうちに「変な人が回ってます!」通報されるだろうし、通報される前に目が回って自滅してしまうという考えられないくらい不細工なケースも考えられる。

では一体どうすれば良いのか。どこにも辿り着きたくない人間は一体どうすれば良いのか。実はこの問題を解く鍵は先述の「回転」で、「じゃあ回れば?」なる声はいわば神の声。要は受け取り方の問題なのである。というのも、俺は文冒頭に「歩いたり走ったりするとそのうち必ずどこかに辿り着いてしまう」と書いたが、これはあくまで直線的に歩いたり走ったりした場合の末路であって、「直線」に対して「輪」という形状にはそもそも始点終点が存在しないのだから、広範囲的に輪状にルートを設定して、このルート上を寝ても覚めてもぐるぐるぐるぐる歩いたり走ったりする分には通報されることも自滅してしまうこともなく、遂には「どこにも辿り着かない」という『解答』にまで辿り着けてしまえるのである。





笑う俺の頭上に時計。針はぐるぐるぐるぐる回転し続けているが、時間は休むことなく直線的に前進し続けている。

昼間の雨は不快。夕暮れ時の雨はもっと不快で耐え難い。でも、夜の雨は嬉しい。時間の流れをぐっと緩やかにしてくれて、まるで自分の気持ちを代弁してくれているかのような暖かさ、優しさみたいなものさえ感じる。

部屋の明かりを消して、布団に横たわって、雨の音に耳を傾けると、こんな言葉、まるっきり詩的なセンスのない人に限って言いそうな気がして恥ずかしいのだが、あのぅ..そのぅ..こ、これって、雨の音って、めちゃくちゃ綺麗な音楽だなと思う。

閃きで書く文章。閃きで撮る写真。

本来は枕元の真白いテーブルの上に無造作に並べて、そのおもちゃ箱をひっくり返したかのような無法感を夜、寝る前にしみじみ眺めて楽しむためのもの。

でも実際は、書くことに、撮ることに、「収集する」ことに必死で、眺めて楽しんでいる余裕などどこにもなかったりするのです。

凡であるにこしたことはない。

鈍であるにこしたことはない。

年老いた人間に聞こえてくる言葉は次のふたつの内のいずれかじゃないのか?

「とっとと田舎に引っ込め」

「とっととくたばれ」

高齢化がどうの介護がどうの言う前に、社会全体寄ってたかってやらねばならんことがあるんじゃないのか?





少なくとも俺はコンビニで買い物をしてる老人を見たことがないよ。

常に何かしら食っている人間になってみたい。

人はよく希望的な意味合いで「この世の中に意味の無いものなんてない」なんて言うけど、俺に言わせれば意味の無いものがない世の中なんて何が面白いんだかさっぱりわからない。それこそ、俺みたいな人間は路頭に迷ってしまう。

俺は「意味が無い」って面白いと思う。そして、同じ「意味が無い」にも、ピンからキリまであるという世界が何より面白いと思う。

「意味がわからない」という言葉をよく耳にするが、自分の人生に関わる全ての事柄に意味がないと納得できないという思想はあまりに傲慢だと思う。

天神橋筋商店街。

若い女の人が素っぴんで、堂々と買い物をしている。

老人が手押し車を押して、のんびり買い物を楽しんでいる。

串カツ屋が満員で、老若男女、昼間から楽しそうにビールジョッキ片手に語らっている。

百均屋が賑わっていて、お菓子売場、キャベツ太郎が置かれている棚に「うますぎます」って札が添えてある。





好きだ。ここが大好きだ。

「お客さん、こ〜れは凝ってますねえ」

「いえ、反ってるんです」

「あ、言われてみれば確かに。反ってますねえ。反りに反ってますねえ!」

「いえ、凝ってるんです」

「愛してます」

誰「ちょっと!」

俺「.」

誰「ち、ちょっと!」

俺「..」

誰「ち、ち、ちょっと!」

俺「...」

誰「ち、ち、ち、ちょっと!」

俺「....」

誰「ち、ち、ち、ち、ちょっと!」

俺「.....」

誰「ち、ち、ち、ち、ち」

俺「お、お、お、お、お、お、俺!?」

彼「いや、アンタじゃなくて......」

誰「ちょっと!」

俺「.」

誰「ち、ちょっと!」

俺「..」

誰「ち、ち、ちょっと!」

俺「...」

誰「ち、ち、ち、ちょっと!」

俺「....」

誰「ち、ち、ち、ち、ちょっと!」

俺「.....」

誰「ち、ち、ち、ち、ち」

俺「お、お、お、お、お、お、俺!?」

彼「いや、アンタじゃなくて.....」

ビビりビビり生きてきたから、ちびりちびりでは追い付かなかった。

阿仁「私、ゴルゴンゾーラにするけどあんた何にする?」

一憩「ちょっと考えさせて」

「だからよ兄弟。あんまり大きな声じゃ言えねえけどよ。やっぱ人間にゃあよ、喜怒哀楽ってやつがあらあね。でもね、このね、喜怒哀楽って奴がのっぴきならねえ曲者でよ。ってのもね、よく聞けよ兄弟。この喜怒哀楽、我々みてえな人間がね、ついうっかりこのどれかに傾いちまった日にゃね、これはもうね、駄目なわけよ。水の泡なんつってね、おしまい。全然駄目なわけ。わかる?あのね、こうね、我々みてえな人間がね、喜、怒、哀、楽、どれかにぐぐぐなんつって情けねえ音立てて傾いちまった日にゃね、もうね、もうその瞬間にね、そこからもうね、ばばばーんとね、起承転結なんつってね、物語が始まっちまうってんだからかなわねえやね。ったく。問答無用なんだよ。ったく。極道そのものだよ。ったく。いや、本当だよ。本当。冗談じゃねえよ。だからよ兄弟...ってちょいとごめんよ。おい!オヤジ!こっちにもう一本酒持って来てくんな!」

回転ろくろと格闘している「旅の思い出に」と立ち寄った初心者の隣で腕の悪い職人が「ち、違う!そこは、そ、うわ、も、あ、あ、あ、んだあ〜!」などと喚き散らしてはる。

阿仁「しかし今日は暑かったねぇ」

一憩「そやな。1日中、半袖一枚でおれたしな」

阿仁「嘘ばっかり。あんた夕方カーディガン羽織ってたやん」

一憩「あ(笑)」

何故か強烈に「ロック」なるものにうんざりし始めた。「音楽」は相変わらず大好きだし、絶対に辞めないし、「ロック」にうんざりしたからといって、いきなり演歌やジャズの道に走るなんてことは絶対にないんだけど、何故か急激に「ロック」に嫌気がさしてきた。

音楽としての「ロック」だけではなく、姿勢とか思想とか色んな意味合いでの「ロック」に対する嫌悪感で頭がいっぱいだ。

無理に肩で風切って歩くことに一体何の意味があるのか。無理矢理奮い立つことに一体何の意味があるのか。

元々「ロック」じゃない人間が「ロック」を信じると、やることなすこと全て無理矢理になってしまう。

形のない、見えないものを強く信じて、すがりつくようにして生きていると、そこから抜け出せなくなって、それ以外のものが見えなくなって(否定するようになって)、大きいと信じ込んでいる小さな世界でしか生きられなくなって、本当は無縁ではなかったかもしれない色んな可能性が他人のものにしか見えなくなってくる。

「見えたら終わり。気付いたら終わり」みたいなことになってくる。





学生の頃、とある新興宗教を信仰している友人がいた。彼は中学の体育祭の時、宗教上の理由から皆と一緒に太極拳ができなかった。そして高校に上がると彼は音楽に夢中になって、俺と一緒にバンドを組んでドラムを担当。驚異的なスピードで上達したが、文化祭の時、宗教上の理由から覆面を被ってステージに上がらなければならなかった。

後日、彼はその場に観客としていた同じ宗教をやっている奴に密告されたらしい。





「宗教なんてやめりゃいいのに」あの時、俺は、思っていた。

変わっていくこと、終わっていくことを思うと悲しくてやりきれない。

本当に優しい人のことを思うと悲しくてやりきれない。

とりあえずまずは髭を剃った。それから、最近履きっぱなしだったジーパンを洗濯機にぶち込んで、迷彩柄のカーゴに履き替えた。





この際、形から入ることを良しとする。

このブログを始めて1年1ヶ月半。

1st『ヴァイブル』

2nd『麦乃助の憂鬱』

3rd『V』

4th『闇独楽』

5th『花とヘドロ』

と、発表してきた各アルバムのタイトルを見てもわかるように、このブログの内容は日ごととりとめなく重さを増して地盤沈下の如くに沈んでいっていて、絶えず繰り返される葛藤は最近じゃまるで「葛藤の為の葛藤」みたいな感じにさえなってきてしまっている。要するに、今だかつてこのブログ全体を覆うトーン的なものが、流れとして陽性に転じたことが一度たりともなく、ただただ着実に下降線のみを描いてきたのである。

このブログの立ち上げ当初以来続く最大の売りは「嘘がない」ということだ。この点に関しては俺自身、本当に大切にしてきた。そりゃ結果的に、現時点では嘘だと言われても反論できない箇所も幾つかあるにはあるが、その時々の俺には嘘をつく気なんて微塵もなかったし、今でもその嘘はあくまで現時点での嘘であって、いわば「仮嘘」で、そのうち必ず自分の手で何とかしようと思っている。

このブログは断じて「日記」ではない。ないが、俺の日常を映す「鏡」ではある。俺が意図するしないに関わらず、浮き彫りになるものがある。だから、このブログ全体のトーン的なものが絶えず下降線を描いてきたというのは、俺の日常そのものが絶えず下降線を描いてきたからだということになる。

でもこの下降線。いつかは終わらせないといけない。終わらせないと、このブログを本気で「作品」として捉えて取り組みたいと思っている俺としては、いずれ、そんなに遠くない未来に何かと限界が来るのは目に見えている。「作品」として成立させる以上は、もっと(良い意味で)混沌とした、振り幅の広い、バラエティーに富んだものにしたい。じゃ、俺はまず何をどうすれば良いのか?考えた。結果、2点だけだが頭に浮かぶものがあった。

まずは何はともあれ「焦らない」ことだと思った。考えてみればこれまでの人生、焦って上手くいったためしなんてただの一度も記憶にないのに今回だけ上手くいくとは到底思えない。だから焦らない。じゃ、焦らずに何から着手するのか?ということだが、現時点ではこれはもう「フラットに戻す」ということ以外思い付かない。心身ともにまずは原点復帰、フラットに戻す。クリアにする。そっから先のことは、それから考える。前向きに考えられるようになってから考える。たぶんその時には考えるより先に足が前に出ていってくれるような気がするし、そうなってくれないと困る...ってね?今はなんやいうたら「〇〇じゃないと困る」みたいな風に考えてしまう。で、また焦り始めて無言になる...ってのがこれから先、まだ何ヵ月も続いたとしたら...なんて想像したらゾッとするからホンマ何とかせんとイカンな俺、と思う。





明日から焦らず、着実に、自分を元に。話を前に。自分を、話を「上向かせる」のはそれからでも遅くない。

冒険物の、かなり楽しい感じの夢を見ていたのに、まさにこれからだというところ、起承転結でいうところの「転」に当たるポイントでプチッと途切れて、こんな時間に目が覚めてしまった。

全て自分のせいではあるが、今日、数時間後、太陽が昇って朝が来ると同時にちょっとした生き地獄が始まりそうだ。

今はただ、出来る限り部屋を暗く、無音にして、その中でもう一度寝て、できればさっきの夢の続きなど見せていただいて、無我夢中に仮死せねばなと思っている。

明日、俺は行かない。

行きたかったけど、行けなくなった。

明日の夜、一憩、音太小屋で新曲『阿仁真里』を披露するかもですよ。音太小屋は19時からやってて、土曜日は一憩の叔父さんが店長やってます。万が一、一憩が来なかったらごめんなさい。でも、音太小屋は一憩みたいなもんおらんかっても十分楽しいですよ。異空間ですから。

明日、一憩は行かなくても私は行きます。皆さんに私の姿が見えるかどうかは別として(笑)

(写真/文 阿仁真里)

一憩と私がよく散歩に利用する道。読者の皆さんにも束の間の安らぎを。

ちょっと外を歩くだけで、「社会福祉法人」とペイントされた車を何台見ることか。

ちょっと田舎の方に行くと、たったそれだけのことで老人施設だらけだ。

救いはどの施設にも天才としか思えない、尊敬してもし尽くせない人の一人や二人は必ずいてくれてはるということだが、その数が需要に対して全くもって追い付いていない。天才じゃない、情熱勝負の人を含めて考えても絶対的に足りていない。

老人が増殖している。老人は増殖している。「増殖」って言葉使いは不謹慎か?でも、実際は実際に増殖し続けていて、その面倒を見る人間はこれがちっとも増殖していない。

さらに、現場においては全国的に俺みたく貧弱なのが続出していて、天才と情熱に燃える人たちの足を引っ張っている。





一方では少子化が深刻な問題だと叫ばれている。人間、人間、人間、人間主体。人間、そろそろ、少しは、身の程をわきまえなアカン時期なのかもしらんよ。

ある程度ちゃんと見えてると暗く見えて、もっともっと見えてくると明るく見える。といった感じなのだろうか。

涎を垂らしているかのように見える勢いで笑っている若いカップルがいる。

「どこの風俗店で働いてるん?」と尋ねて「失礼ね!」などと強く否定された日にゃもの凄い勢いで逆ギレしてしまいそうな格好をして歩いている女がいる。

上はしっかり着込んでいるのに、下はポコチン丸出しで電柱の横に呆然と突っ立っているジジイがいる。

どこに行っても、くだらない、ゴミみたいなラブソングが流れている。





一体どうしたらいいのだろう。どこに行けばいいのだろう。

始点があって、終点があるというのは形として面白くないなと思ってきたし思っている自分に気付かせてくれたのは『KID A』

始点と終点のない、ずっとループを繰り返しているような文章、絵、音楽が面白いと俺は思ってきたし思っているらしい。だから、ゆえに、俺は小説や映画が昔からあまり好きじゃないんだな。物語と呼ばれるものには「起承転結」という、物語である以上はいかんともし難い始点と終点があって、俺はこれが嫌で、いつも「起」や「承」が退屈で、「さっさと「結」を見せろ!」と思ってしまう。

何度読んでも飽きない、何度見ても飽きない、何度聴いても飽きないもの...厳密に言うとこれも違う。俺が本当に好きなのは、何度読んでも終わらない、何度見ても終わらない、何度聴いても終わらないものだ。

終わりに向かって始まる「始まり」というのは、もうすでに悲しい。

そのくせ、こと「食」に関してはあれは美味いこれは不味いなどとわかったようなことを口々に言って有頂天になっているこの国の貧民どもは一体何を考えているのだろうか。文化的レベルはこれ以下はないというくらいに没落しているのに、食文化だけがレベル的にやたらと高い所にある。世の中全体が強烈に不細工なバランスの上に成り立っている。

若き日の町田康(当時、町田町蔵)が「メシ喰うな!」と絶叫した理由が、なんとなくわかる気がする。

俺にとって心から落ち着けて、さらに心地よく胸躍る場所と言えば、いつの時代も中古CD屋なのだが、これがここ数年間でバタバタと潰れていっている。

例えば梅田だと俺の行き付けだった店が4店舗も一気に潰れて、天六の大好きだった店も1店舗、昨年末に呆気なく潰れた。そして、先日、同じく天六の小さな古本屋に立ち寄った際には店主のオヤジさんが「我々、古本屋はもうあきまへんわ..」と苦笑いしながら漏らしていた。

一方、「BOOK・OFF」や「GEO」といった大手チェーン店の勢いは留まるところを知らず、古の平家の如くに傍若無人に勢力拡大を続けている。要するに、物の価値を知っている店がバタバタ潰れていく一方で、物の価値を知らない、訳のわからない値の付け方をする店がガンガンガンガン乱立していってるのであって、これは本当は本当に由々しき事態だと思う。





「え?ビートルズのメンバーの名前?ジョンとぉ、ポールとぉ、あと、あと、リンゴ!」とか言ってるアンタらの罪は計り知れない。

梅田の真ん中に献血車が停まっていて、白い服を着た女の人たちが「献血お願いしま〜す!」などと無闇にシャウトしている。

やってやってもいい。が、ジュースなんか要らんから金をくれと言いたい。一回につき500円くらいくれるというんなら、5回くらい連続でやったる。並んだる。ただ、5回目はさすがにキツそうなので「ビールセット」と称して500円にビール1本を添えて欲しい。あと、餃子の一人前も添えてくれれば文句はない。

人間、生きていると本当にいろんなことを考える。そして、視覚的、非視覚的を問わずありとあらゆることを思い浮かべる。だから、人間の頭の中にはそんなこんなの残骸があちらこちらに転がっているはずで、注意深く探せば中にはかなり綺麗な物もあるはずで、これを拾い集めて積み上げたり組み合わせたりすれば今、この時代に、立派にオリジナリティのあるものが生み出せるような気がする。

俺は俺の頭の中のそういった残骸たちを厳選、駆使して、全くもって無意味ながら何故か強烈に心惹かれるといった感じのものを創ってみたいと思う。

自分でもびっくりするくらい「家でじっと」ができない。何もやる気がしないくせに、かといって「家でじっと」してると気が気じゃない。だから晴れの日も雨の日も、何の目的もなく、なぜか焦って、外に跳び出す。で、外に跳び出したからといって、特に何をするでもなく、何かが起こるわけでもなく、夕方、何だかなあ...と心中呟いて帰宅する。

自分の中に「なんかせな!」みたいな強い気持ちがあって、これに上手く対処できないでいる。ただでさえ1日1日が経過していくということに救い難い恐怖心があるのに、なにもせずに無音の、陽の差さない家の中でじっとしているというのは本当に耐え難いことなのであるが、一方ではやはり本当に、絶望的に、何もやる気がしない自分がいるのである。で、気付けばまた近所の公園のベンチに腰を降ろして、携帯を手にここに言葉を吐き出していて、そんなこんなが先月の、先月だけで120本という変態的とも言える数字に結びついたわけなのである。

はい。

500に到達。ここに5枚目のアルバム『花とヘドロ』が完成した。

それにしても「形あるものいつかは終わる」のだが、このブログはいつ、どういった形で終わりを迎えるのだろうか?そして、その終点から逆算してみた場合、今、俺がいるこの500という地点は「初期」に該当するんだろうか?それともこの地点500はすでに「後期」に差し掛かっているのだろうか?

予定通り、ここで本格的な休止、充電期間に突入すべきか。それとも、このまま、言うなれば「無謀」なのを承知の助で突き進むべきか。

ま、とりあえず、500に到達したのは確か。そして『KID A』に負けず劣らず奇怪なアルバム『花とヘドロ』が完成したのも確か。今日1日くらい人知れず喜びに、酒に浸ってもバチは当たらんだろう。

愛読者の皆さんも、この「地点500」を読み終えたらすぐに近所の酒屋さんに駆け込んで「麦とホップ」の10缶も買い込んで祝杯をあげてやってください。

ありがとう!愛してます!

何かを所有したがったり、どこかに所属したがったりということが不快だ。

本来、人間は相当に自由な生き物のはずだ。もし人間がこの世に生を受けた瞬間、オギャアと叫んで出てきた瞬間から両足首に足枷がはめられてたり、首に首輪がはめられてたりしたら話は別だが、断じてそんなことはないし、そんな話は今だかつて聞いたことがないし、道路や線路は国中を毛細血管の如くに走っておって、望めばどこにだって行けるし、海や空には道路や線路さえなく、船や飛行機に乗れば海外にだって行けるし、さらに人間は欲深いもので、ロケットを拵えてこれに乗って宇宙にまでも出ようとしていて、実際に本格的に出始めていて、そう考えると人間というのはちっとも不自由な生き物ではない。自由過ぎることが不自由なんじゃないか?と思えなくもないくらい人間は本来は相当に自由な生き物だと思えてくるのだが、実際は人生はめちゃくちゃに窮屈で不自由なのだから訳がわからない。

そこで、問題はなんぞや?と考えた場合に浮かぶのが所有欲だったり、所属欲だったりする。だから、もし所有欲や所属欲からうまく解放されたとしたら、人間はそこそこ本来の姿に戻れるんじゃないのか?みたいなことを今、ふと思ったのである。確かに、実際にはこれは相当に難しいことだ。でも、「出来る限り」ということであれば、出来る限りの範囲においては可能だろう。ちょっとだけ失ってみたり、ちょっとだけ逸脱してみたりというのは決して無理な話ではないし、やってみる価値はあるように思う。





子供は大人がちょっと目を離した隙にあらぬ方向へ駆けて行って、姿を眩ましてしまう。あれを見ても、人間は本来はもっともっと自由な生き物だということが知れる。

「あかん」と言われて、「....」納得のいかぬままに頷いて。

限界が来てるんですよ。きっと。

英国にレディオヘッドという、世界的にはオアシスよりも断然評価が高い、英国における「国民的バンド」がいて、彼らが拵えたアルバムに『KID A』という奇怪極まる「歴史的傑作」と呼ばれるものがあるが、このブログの読者の皆さんの中にこのアルバムが好きだという方はおられるだろうか?「好きだ」とまでは言わなくても「わかる」と言える方、おられるだろうか?

俺は数年間、ほんの数分前までこれが全くわからなかった。ゴミだと思っていた。でも、今は「わかる」と言える。「好きだ」と言える。今日、一気に聴こえてきた。

もの作りとしての自分の神経が「次」に向かっている証拠なのかも知れない。

嬉しい。

阿仁真里が余計なことをした。こんな所でタオルを投げられても困る。今までの努力が水の泡だ。カッコ悪い。俺はとにかく、500までは行く。意地でも5枚目を完成させる。

俺が相手の受け取り方に一切気を使わず言葉を吐けるのは本当に、このブログの中でだけだ。だから普段、俺が何を言おうと、あまり気にしないで欲しい。もし傷付けたんなら謝る。でも俺は決して傷付けようとして言ったんじゃない。人を傷付ける為の言葉なんて、普段の俺は持ち合わせていない。だからもし俺のことを知りたいと思ってくれるんなら、このブログを読んでくれればいい。たぶん、わかってもらえる。でも、それでもなお誤解するんなら、誤解して傷付くようなら、誤解して傷付いて頭に血が昇るようなら、頼むから二度と俺に関わってくれるな。

そういうこと。さ、あと4本。一本一本大事に書いていこう。

読者の皆さん、お久しぶりです。阿仁真里です。

500本まで本当にあともう少しなんですけど、ここでいったん、やめにします。

また会いましょう!

誰でもいい。

誰かにダアーッ!と駆け寄って行って、「ダアーッ!」と叫びながら抱き締めて欲しい。

俺は俺の親のことをとやかく言う人間のことを一切信じない。

何も知らんくせにうるせえよ馬鹿たれが。

とある少年。

ニルヴァーナのCDがウォークマンの中で回転している。

とある少年。

微動だにせず立ちすくんでいて、目の前に般若の面。

「くくく」と呻きながら、「カートに会いたいな」と思っている。

「これでも喰らえ」とだけ紙に書き残して死ねるもんなら死にたい。今すぐにでも死にたい。でも死ねない。本当に、本当に悔しい。

続かないのはわかっていた。あの人の優しさが続かないのはわかっていた。優しくあることに頑張り過ぎているからだ。

昨日までの天使が今日は鬼。あっという間の出来事。ポンと肩を叩いて振り返ったら鬼だった。

俺は最低だ。最低な人間だ。んなことはいちいち言われなくてもわかっている。本当に最低だ。でもあの人にも問題の一つや二つはあるだろう。でもその一つや二つにあの人はいつまで経っても気付かないだろう。

なんで?

ホンマにまめにこのブログを見てくれてるんやなあと思って感動しました。

俺が夜明け前に書いた文章に対して、朝の6時にコメントを寄せてくれてるあんたはホンマ、凄い!

あんたの人生はきっとめちゃくちゃうまくいきます。良い方向、良い方向へ流れていくと思います。んなことは、江原や三輪じゃなくてもわかります。

あんたと友達で本当に良かった!

老人と赤子。今、この瞬間、どちらか一方しか助けられないとしたら俺は迷いなく赤子を助ける。

この時、少しでも迷うことが社会的にイケてると言うのなら俺は社会的にイケていたくはない。

戻りたくないのです。

不安なのです。

申し訳ないのです。

情けないのです。

空白の11日。俺にとって最大の収穫はめちゃくちゃ久しぶりに新曲が完成したことだ。

通算41曲目のオリジナル!...と言いたいところだが、今回の新曲は俺にしては珍しくカバーである。「カバーじゃ新曲とは言えんだろう」との声もあるかもしらんが、当然「カバー」は「コピー」じゃないんだし、そんな至極当然な尺度を端に置いて考えた場合にもやはり今回のこれはれっきとした俺の新曲であると言える。

というのも、オリジナルこそ73年にロバータ・フラックという黒人女性歌手が歌って大ヒットさせた「やさしく歌って」という名曲中の名曲なのだが、今回俺はこの曲にこの曲本来の歌詞とは全くもって関係のない、ロバータ本人が聴いたら必ずや憤死するであろう日本語詞を乗せ、さらに曲的にも若干のアレンジを施して完全なる俺色の曲として完成へと漕ぎ着けたからである。従って、絶対的に「オリジナル」ではないが、れっきとした「カバー」ではあって、俺がこれを俺の「新曲」と呼ぶかどうかなんてのは完全に俺の勝手なのである。

で、この新曲。タイトルはずばり『阿仁真里』で、阿仁真里への愛情みたいなものを歌っていて、詞を描く際の手法としては、ポール・マッカートニーが得意とする感じを少しだけ念頭に置きながら創作したのだが、これが我ながらなかなかの出来だと思う。完成した時は嬉しさのあまり、詞をここに載せようとも思ったが、もしこれをメロディや声に絡めずに表現して読者の皆さんに「イタい」なんて思われても困るし、それはそれで意に反した伝わり方なので、これはやはりあくまでも「歌詞」として歌って伝えるべきだという結論に達したわけです。

近々、人前で歌ってみたい。これはきっとかなり良い曲だ。

11日の休止期間を経て、とりあえずの再開。

このブログもあと14本で500本に到達、5枚目のアルバムが完成することになるので、とりあえずそこまではもっていこうかと。そして、500本に到達した時点、『第一部』的なものを締めくくったった的達成感、満足感を得た時点で、再度若干の休止、充電期間に突入しようと今のところは、思っている。

ここにきて俺の人生、生活のあらゆる事柄がどっちつかずに浮遊している状態、我の掌の上に無いかのような状態、要するに中途半端な状態なので、せめてこのブログだけは浮遊させることなく、我の掌の上にしっかりと収めておきたい、把握しておきたいと思っております。





遂に見えてきた夢の数字―500。とりあえず、あすこまでは行ってこます。

突撃!

プロフィール

いっけい

ビートルズ好きの両親の元、ビートルズを子守唄に育ち物心が付く前から音楽に慣れ親しむ。
学生時代からいくつかのバンドを結成し関西を中心にライブに明け暮れる。
現在はソロでの音楽活動に加えイラストも手掛けるマルチアーティストとして活動の幅を広げている。

いっけいの楽曲が聴ける!! MySpaceはこちら

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