大阪在住のうたうたい&絵描き&詩人 和田一憩(わだいっけい)のブログです。最新情報も随時配信していますので要チェック!!です。 携帯サイトはコチラ

2009年5月アーカイブ

久々のライヴ。持ち時間25分なので、5曲できるな。と思っております。

リクエストがあれば寄せてください。

やるかやらんかは別として考慮します。

6/28(日)、天六のライブバー『音太小屋』への出演が決定しました。

詳細は後日発表。

今、俺はふたつの課題を持って生きている。ひとつはそう、皆さんもよくご存知、音楽人として一刻も早く復活すること。そしてもうひとつは仕事のこと。

今俺が具体的に何の仕事をしているのかを明かす気はない。そんなのはどうでもいい。ただ、スーツにネクタイの仕事ではないことは確かで、だから選んだし、自分のやり方、自分のスタイルを見つけて、それを磨いていくということを一切咎められず、逆に背中を押される、個性を求められる仕事をしているということだけは言える。

そもそも何故この仕事を選んだのか。俺の目にはこの仕事が物凄くクリエイティブなこと、アーティスティックなことに思えたからだ。つまりは、他のどの業種よりも音楽人としての自分に返ってくるものの大きい職業だと考えたからだ。

思えば、俺は今まで一度だって自分が音楽人だということを忘れたことはない。常にそこんとこを最優先に生きてきた。と、いうことを今思いだした。俺は俺なりにちゃんと自己分析を繰り返してきたし、その都度その都度その分析に沿って、従って、自分の進むべき道を選んできた。だからもう少し自信を持って生きてもバチは当たらないはずだし、このままいけば下手をすれば夢だってものの見事に叶うかもしれない。正直、その可能性を感じないことは、ない。





ふたつの課題。ひとつの目標。人間は二足歩行の生き物だ。

んで、このブログを休止してお前はどうすんだ?何すんだ?もう立ち止まらねえんじゃなかったのか?おい、コラ、和田一憩さんよお!

心の声が昼夜問わず喧しくて眠れないので再開します。

何はともあれ、まずは久しぶりにギターを弾く俺の映像が叔父さんの手によって『You Tube』上にアップされたので報告します。PCが使える人はひとつ前のブログ、剣吾くんが入れてくれた『最新ロック映像1』からどうぞ。携帯でしか見れない人は『復活への兆し』に寄せられたコメント、叔父さんからのコメントを見てみてください。そこから携帯でも見れるようになっております。

このブログ、第二章は皆さんに和田一憩がロック馬鹿だという事を思い出してもらうことから始めます。

携帯は表示できないのでアシカラズ・・・

ちょっとの間、本当にちょっとの間、休みます。ネタがなくなったわけじゃない。まだまだいくらでも吐き出すべき言葉はある。ただ正直、自分の中で若干テンション的なものが下がってしまった。

新型インフルエンザにかかったわけではないので悪しからず。

また逢いましょう。

イカンな..。ホンマ、イカンな..と思う。

近頃の俺はあろうことか痴呆気味である。自分でもびっくりするくらい、日常の細々としたこと、仕事の細々としたことを覚えていられず、忘れてしまって、失敗を繰り返している。

「あれ?俺、今何してたっけ?あれ、どこ置いたっけ?」的なことが頻発して、極めて不快、不安である。

助けてくんろ!なんて言うつもりは微塵もない。ただただ不安だ。

ここは大阪。我が家の近所の商店街の中の公園である。ふと顎を上げたらこの漢字2文字が俺の目に飛び込んできた。

故郷。俺の故郷。

写真、見づらくてすまん。サイズを小さくしないとズームを効かせて撮影できなかったので悪しからず。

写真は昨日の夕方、近所の団地の側面の「5」を撮ったものである。「で?」とか言うな。俺は感動したから撮ったのだ。写真をよく見ていただきたい。実際の「5」プレートよりも、そのプレートが映し出す影の「5」の方が形的にずっとカッコいいだろう。影が実際を上回っている。示唆的だ。神秘的だ。

だから「で?」とか言うな!

おとといの日曜日、久しぶりにステージに上がって、ギターを弾いた。

俺の叔父さん(母親の弟さん)が天六で「音太小屋」というライヴバーをやっていて、叔父さんが誘ってくれたので行ってみたら、偶然そこに以前親しくさせてもらっていたバンド『リバーサイド・バンクス』のベーシストがいて、「一緒に音出しまひょか」みたいな話になって、同じくそこに居合わせたアフロヘアーのギタリストと、ドラマーのおじさん(叔父さんではない)を交えて数分間、ブルースセッションを敢行した。手首は硬いし指は動かない。ブランクの長さを痛感したが、それでもステージに上がり、借り物のギター、レスポールを抱くと、昔、自分のバンドでライヴをやりまくっていた時同様、自分の中でガチャン!とスイッチの入る音がして「これが俺だあ!」と思えて非常に嬉しくなった。俺はまだまだできる!





※このセッションの模様は近々『You Tube』にアップされるらしいので、アップされ次第、このブログ上で告知します。

結論から言って、俗に言う「よくできた彼氏」とか「よくできた旦那」というのはインポ、もしくはオカマである。少なくとも俺にはそうとしか思えないし、そういう風にしか見えない。

男性はいつまで経っても「男の子」だが、女性はある程度歳をとって、経験を積めば「女の子」を経てちゃんと「女」になる。だから、我々男性は、極めて非現実的で時代遅れのマッチョ的な思想を抱くような馬鹿でない限り、要するに少しでも物事が見えていれば、基本的にあんたら女性には勝てないことをよく知っている。

あんたらはあんたらの彼氏、もしくは旦那に対して、男性は永遠に「男の子」でしかないのに、「いや、私の彼に限っては男!」とか「私の旦那は男の中の男なのよ!」とか「男根万歳!」などと見当違いなことを言ったり期待したりして、彼を誰もたどり着いたことのない道端に骸骨などの散乱している「男」への旅路、冒険へと向かわせて、途中、「男の子」でも「男」でもない実に中途半端な闇に転落した結果、彼がインポ、もしくはオカマに成り果てた際に「しっかりせぇや!」的なことをよく吐かすが、それは明らかにルール違反である。

もう一度言うが、我々男性は極めて謙虚な生き物で、よっぽどの馬鹿でない限り、あんたらに勝てないことをよ〜く知っている。だから同時に「俺らのこと生かす(活かす)の、ホンマ下手やなあ」とも思っている。

男性を生かしたかったら、活かしたかったら、「男の子」の部分を出来る限り許して、解放してあげりゃいいだけのことである。男性がパワーを発揮するのは極めて「男の子」な時である。したがって、嘘でも良いから期待して、嘘でもいいから褒めて、嘘でもいいから認めてあげたら、男性はあんたらが思っている以上にできる生き物なのに、あんたらはあんたらが「女」になった時点から我々に対して期待することも、褒めることも、認めることもしなくなるから、世の男性は、男の子はなお一層「男」から遠ざかっていって、あんたらはあんたらで墓穴を掘っておるような格好になって、何が何だかよくわからないおかしなことになるのである。





俺が言いたいことわかる?俺はわからん。

愛読者の皆さんに一応、言っておきます。このブログ、皆さんからのコメントが寄せられたら俺の携帯が反応するようになっております。それは過去のブログにコメントを寄せてもらった場合も同じです。したがって、皆さんからのコメントに対する俺からの返事の有無に関わらず、俺はちゃんと読んでおります。

このブログの存在。理想を言えば俺にとってそうであるように、皆さんにとっても「秘密基地」になれば良いなと思っております。友人、家族、同僚などには決して見せることのない自分の姿、自分の考え方を、俺の書く文章をきっかけにしてじゃんじゃん書き込んでください。

自分の考え方、意見を述べることを必要以上に恐れて黙っているというのは、我々世代の慢性的な病気です。

秘密基地で会いましょう。

只今の時刻0:15。

ベランダに出て、焼酎の水割り片手にわかばを吸っている。

ふと「原田先生に会いたいなあ」と思った。「今、先生に会って、居酒屋で酒でも飲みながら色々と話したら何て言われるかな..俺」と考えた。「ええと思うよ。いっけちゃんがそれでええんやったら」って言われるんやろな、と思った。





小4の夏。水泳の苦手な僕は必死で泳いでいた。その日、僕は何としてもクロールで25M泳ぎ切らねばならなかった。泳ぎながら顔を上げるが息継ぎができなかった。ただ、顔を上げるたびにゴール地点で「いっけちゃん、頑張れ!もうちょっとや!」と応援してくれてる原田先生が見えた。僕はその日、初めて25Mを泳ぎ切った。





只今の時刻、0:36。4本目のわかばに火をつけた、32歳の俺であった。

俺は人に「尊敬してる人っておる?誰?誰?誰?」と尋ねるのが好きだ。これを聞くと相手のことが本当に良くわかるし、尊敬してる人のことを語っている時の人間の表情や声というのは、見たり聞いたりしていて本当にたまらなく嬉しくなるものがある。でも意外と「尊敬する人は?」と尋ねても、「おらんなあ」という答えが返ってくる場合が多い。って言うかほとんどの人がそう答える。俺にはこれが理解できない。俺にとって尊敬の念のない時間、人生は、アイスバーンの道をタイヤに鎖も巻かず走行しておるかの如くに不安極まるものである。

俺にとって誰かを尊敬する気持ちと、尊敬する人の存在というのは、俺が生きていく上で必要不可欠なものだ。例えば俺は何か新しい世界に首を突っ込んだ場合には、必ず真っ先にその世界で尊敬できる人を探す。尊敬する気持ちが自分の中の吸収率みたいなものを確実に、飛躍的に上げてくれるからだ。だから逆に言えば、尊敬に値する人が見当たらない世界というのは、俺が居るべき世界ではないということになる。

というわけで、今回、俺の尊敬する人物を10名紹介しようと思う。ここに挙げる10名は長年に渡って俺の人生の師として俺の中に君臨し続けてきた人達であり、今や「和田一憩」という人間の各要素を形成し、支えていると言っても過言ではない人達である。当然ながら順不同。各人に短いコメントを添えてお送りします。

★北野武(ビートたけし)/小学生時代からの憧れの人。戦って手にして、戦って手にして、今や「世界の北野」。弟子として常に鼻が高い。

★町田康(町田町蔵)/日本語の面白さ、日本語を破壊することの楽しさを教えてくれた人。基本的に俺はこの人の本しか読まない。

★リアム・ギャラガー/ロックを体現、大言することの最高峰。世界最強のヴォーカリスト。「歌」の持つパワーを教えてくれた人。

★松坂慶子/女の中の女。女性的優しさの権化。癒しの象徴。

★和田勉(わだつとむ)/親父。ものつくりをつくったものつくり。優しすぎる不良。

★松本人志/笑いは芸術だと確信させてくれた人。

★原田先生/小学4年の時の担任。鬼のように怖かったが、もの凄い美人だった。俺の中から俺の個性みたいなものをグイグイ引きずり出して、それを俺の目の前に叩きつけて「あんたはあんたでいい!」と言ってくれた、親以外では最初で最後の人。

★キース・リチャーズ/中学生の時、夢の断崖絶壁に立っていると、突如現れて軽い気持ちで背中を押してくれた人。

★ジョン・レノン/曲を書く時の心の持ち様と、本当に凄い音楽のなんたるかを教えてくれた人。

★和田一憩/好きな人間といる時の俺。ものつくりとしての俺。笑っている時の俺。

ところであなたは、やりたい事とやらねばならん事のバランスが取れた生活をしてますか?

一般的に、このクソ社会においては、やらねばならん事に費やす時間がやりたい事に費やす時間を上回っておればおるほど「立派な人だ!」となり、社会的にイケてるんだから「長生きしてね♪」なんて、櫓の上で頭を撫でてもらえたりする。逆に、やりたい事に費やす時間がやらねばならん事に費やす時間を上回っておれば「ふざけた野郎だ!」となり、「死ねばいいのに♪」などと陰で囁かれたりすることになる。で、現に、バッタバタ人が死んでいってる。

要するにこの世の中を我が物顔に闊歩したければ、やりたい事をせず、或いはそもそも、始めから、やりたい事など胸に抱かず、やらねばならん事のみに時間、神経、金銭など全てを費やして、立派な社会人として君臨せねばならんわけである(あ、今出ましたね。自然に出ましたね。「せねばならん」というフレーズが)。でもここに一つの問題がある。というのも、そうやってやりたい事を一切せず、やらねばならん事ばかりやってきた人間の表情、顔というのは実に不自然で面白味に欠け、いざ世の中を我が物顔に闊歩できるようになった時にはもう、自らの顔を恥部としか思えなくなっており、自宅に引きこもることを余儀なくされ、長渕剛を大音量で聴きながら「世の中プーや。おならですわ。プーですわ」などと一人寂しく呟いて数ヵ月後、見るも無惨な遺体となって発見されてしまったりするのがオチなのである。

で、だから俺は何が言いたいのかというと、人間、社会的にイケてるのかどうかじゃなくて、人間としてイケてるのか、人間として魅力的なのかどうかってことが何より肝心なことなんじゃねえのか?ってことである。人間味溢れる魅力的な奴になろうと思えば、やらねばならん事と同じくらいやりたい事もせねばならんし、たまに何か失敗をやらかした場合にはそれを可能な限りその場の笑いに変えようとするくらいの努力はせねばならん。結局、「せねばならん」わけで、人間的に魅力的な奴になるというのは、社会的に立派な奴になるのと同じくらい、もしくはそれ以上に努力を要するものだと俺は思うのです。

「アリとキリギリス」という話がある。どいつもこいつも誤解してる。俺に言わせればアリがキリギリスよりも偉いなんてちゃんちゃらおかしい。そして、「キリギリスはアリよりも偉い!」なんて言う気も毛頭ない。どっちもどっち。要はバランスの問題だと思う。

前回の「片隅の涙」で、このブログも30本目に到達した。

これからも立ち止まることなく、やめろと言われてもやめず、もし仮にやめろと言われればなおさらペースを上げるくらいの勢いで書き続けていくので、今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。





ま、誰一人読んでなくても書き続けるけどね。

今日、仕事に行こうと思って電車を待っていると、目の前に俺が乗るべき電車の一本前の電車が停車した。一本前の電車なので俺は乗らない。スルーするが、その目の前に一時停車している電車、車両の片隅に座ってるオッサンから興味をスルーすることができなかった。

今にも泣き出しそうな表情を浮かべたマッチョなタモリ似のサングラスをかけたオッサンが、頭にゴジラのぬいぐるみをのせて座っていたのである。

朝から大きくすべっている。が、表情が表情だけに安易に馬鹿にするのも気が引ける。朝から大きくすべっておる上に、人に気を使わせている。なんたるふざけた野郎だ、と最初は思ったが、もしかしたらその悲壮感漂う表情はそうやって朝から人に気を使わせていることへの罪悪感、自己嫌悪からくるものなのかもしれん...と思い、数秒後、そのオッサンを乗せた電車、俺的には「電車を乗せたオッサン」が、向かって左方向に流れていくのを静かに見送った。

少し、労働意欲が低下した。

清志郎が死んだ。

俺は大ファンというわけではない。でも好きか嫌いかと問われれば確実に好きで、はっきり言って大好きである。

あの声、あの存在が消えてしまったというのはやはりどう考えても日本の音楽界にとって、大きな痛手だと思う。

清志郎は本当にロックな人だった。この国にも「ロックな人」はいる。いるが、それは大抵音楽外の人であって、例えば北野武であったり松本人志であったりするが、清志郎はこの国において極めて稀な、ロックをやってるロックな人だった。

この国のロックという音楽がまた一段階、ただでさえくだらないのにさらにもう一段階、くだらなくなってしまった。

誰が清志郎の跡を継げるのか。誰が清志郎の背負ってきたものを背負えるのか。俺はかつて、甲本ヒロトにその可能性を少し感じていたが、彼は今、クロマニヨンズというバンドで「なにやってんだ!」だし、トータスも、奥田民生も、斎藤和義も、いい線はいってるが清志郎と比べたらまだまだ弱い感じがする。ちょっと視点を変えれば、井上陽水という天才がいる。彼は間違いなく天才で、俺の中では極めてロックな感性の持ち主だが、世間一般的に「ロックな人」、「ロックンローラー」という認識があるかというと全然そうじゃない。「じゃ、内田祐也がいるじゃないか!」と言う人もあるかも知らんが、あなたはアホか。

清志郎が歌うと、日本語がとても嬉しそうだった。ロックという外来の音楽に乗って、日本語が実にイキイキしていた。これは本当に凄いことだと思う。それこそ「選ばれた人」にしかできないことだと思う。

心から冥福を祈ります。

10選に入れたかったが、入れても問題ないくらい大好きだが、シングルで2曲しか収録されていないので入れなかった一枚を追記という形で紹介します。これは外せない。絶対に外せない!

★アウト ブルーズ/ザ・ミッシェル ガン エレファント

洋楽と邦楽、俺は元来洋楽派の人間である。邦楽はほとんど聴かずに育った。学生時代は完全に邦楽を馬鹿にしていた。とはいえ「邦楽だから聴かない」などと心の狭いことを思っていたわけではなく、単純に、良ければ聴くが、良いと思えるものがほとんどなかったのである。

がしかし、時は流れて、今では洋楽と同じくらい邦楽も聴くようになった。邦楽にも探せば素晴らしいのはある。「日本人万歳!」と叫んで自らの血液に感謝したくなるくらい凄いのがある。

というわけで今回、俺にとっての「日本人万歳!」な10枚を順不同にて紹介します。どれもこれも本当に凄い!

★Bang!/ブランキー ジェット シティ

★ロックス&リックス/トライセラトップス

★ライブ+1/村八分

★ユニヴァーサル インベーダー/ニューエスト モデル

★ラブ オブ ザ グリーン/スマイル

★グレート スケルトンズ ガイドブック/トライセラトップス

★ザ・ブルーハーツ/ザ・ブルーハーツ

★シングルス/マイ リトル ラヴァー

★バームクーヘン/ザ・ハイロウズ

★30/奥田民生

プロフィール

いっけい

ビートルズ好きの両親の元、ビートルズを子守唄に育ち物心が付く前から音楽に慣れ親しむ。
学生時代からいくつかのバンドを結成し関西を中心にライブに明け暮れる。
現在はソロでの音楽活動に加えイラストも手掛けるマルチアーティストとして活動の幅を広げている。

いっけいの楽曲が聴ける!! MySpaceはこちら

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