大阪在住のうたうたい&絵描き&詩人 和田一憩(わだいっけい)のブログです。最新情報も随時配信していますので要チェック!!です。 携帯サイトはコチラ

2009年12月アーカイブ

健全な精神なんていらない。

俺にとっての「健全」と、社会的に言うところの「健全」は、きっと180度に迫る勢いで意味が違う。

自分のこと以上に周りに気を使って、周りからの評価ばかりに気を取られて、周りからの目線でしか自分を判断する術を知らないオカマみたいな男、人間になるのは死んでも嫌だ。

死・ん・で・も・嫌・だ。

子供の時からつい最近まで、俺の中には「女性崇拝」みたいな考え方があった。男より女の方が圧倒的に凄い生き物だという考え方があって、女は神聖な生き物だなんて本気で思ってきた。

今でも、男って生き物はたいしたことねぇなと思う。でも今は、女も男と同じくらいたいしたことねぇ生き物だなと思う。

男って女みたいだ。女って男みたいだ。

今の世の中、正直、女性は過大評価されてると思う。逆に男性は過小評価されてると思う。

人を許すこと、人を待つこと、感情に流されないこと―本当は「器」的には男性の方がずっとずっと大きいんじゃないかと思う。本当は男性の方がずっと優しい、強い生き物なんじゃないかと思う。だから日々、笑って弱いフリができるんじゃないかと思う。「今日は真っ直ぐ帰ります。彼女(妻)にしばかれるんで」なんて言って。

男、みんなもっと自信持って胸張って生きりゃいいと思う。あんな感情の浮き沈みの激しいヤクザな幻想の塊みたいな生き物に振り回されずに、我が道、我がペースに忠実に、不器用?大いに結構。地味に地道に着実に、人知れず奥歯をグッと噛みしめながら大きく優しく生きてきゃいいと思う。

「男」って捨てたもんじゃない。むやみやたらに頭を下げちゃいけない。そんなことを習慣付けちゃいけない。

山の天気は変わりやすい。

屋根の下の天気はもっと変わりやすい。

無難。

俺ほど「M」な奴はいないと思う。そして俺ほど、自分がそういった気質を好き好んでやっていることを自覚しておきながら、そんな自分の気質を忌み嫌っている奴もいないと思う。

「こんなのは嫌だあ!」と思っていて、思い続けてきて、だから、ロックという音楽、姿勢が絶えず死ぬほど好きなんだと思う。

自分の気質が大嫌いだということも、ロックが大好きだということも、死ぬまで治らないと思う。「治さない」でも「治せない」でもなくて、ただ単に、本当に「治らない」と思う。

3日程前、アルファベッツが再結成する夢を見た。

3人が口を揃えて「ここらで一発、本物のロックのなんたるかを皆に見せつけてやろうぜ!」などと息巻いていた。

朝、目が覚めて、自分が書いてきた曲について少し考えてみようと思った。

アルファベッツ時代、俺は「バンドマン・ロック」「孤高」「無題」「ザ・ラヴリミナル」と、今でも気に入っている出来の良い曲を連発して書いた。今思えばやはり何かしら魔法がかっていたように思うし、何より、自分の中に「この二人(メンバー)をビビらせてやる!」という強烈な意気込みがあった。これに比してリプライズ時代は、とにかく鍵盤の音を活かすことを念頭に置いて曲を書いた。アルファベッツ時代と比べると多作ではなかったが、初期に「青空」を、後期に「モナリザ」を書いた。前者はたぶん、ストーンズと言えば「サティスファクション」、ザ・フーと言えば「マイ・ジェネレーション」、一憩と言えば...みたいに思ってくれてる人もあるだろう曲だし、後者は俺自身が、今まで書いた曲の中で一番気に入ってる曲だ。

どの曲も、自分で言うのも何だが本当に良く出来ていると思う。

誰が何と言おうが俺は、その辺の奴らには逆立ちをしても書けないような曲を書いてきた。

だからいつも心に「若干」と呼ぶには若干大き過ぎる余裕があって、この余裕こそが今現在の俺の最大の難点にして問題だと思っている。

誰にも、何事にも邪魔されずに音楽を聴きたい。

「ポイントカードはお持ちですか?」

前に働いていた施設は屋上が喫煙所になっていて、俺は俺が吸っている煙草の銘柄から「わかばの人」なんて言われて、労せずして平和な笑いを振り撒いていた。

今月の頭に新しい施設に移ると、俺は3つあるユニットの内の一つ「わかば」に配属された。そして、「これはひょっとして俺はこの施設に来るべくして来たのかな」なんて思いつつ、休憩時間に休憩室に行ってみるとギターが一本置いてあって、先輩が『ギターで弾くジブリ作品音楽集』という本を見つめながら「むずっ..」などと呟きながらギターを爪弾いていた。

休憩時間、あのギターを自由に弾かせてもらえたら、俺は再び曲を量産できるようになるかもしれない。

物凄い曲を書く自信がある。

いつもいつも「やってみなけりゃわからない」では困る。

想像力も計画性もなくただ猪突猛進突っ走って絵になるというのは、例外はあれど基本的に映画や小説の中の登場人物に限って言える話であって、現実的にはこのやり方生き方はかなり難しく、周りからの理解を取り付けることも非常に困難で、気付けば孤立、四面楚歌、みたいなことになってしまう。

しかしながら、皮肉な話、人間が何か特別大きなものを手にする時というのは決まって彼が積極的に動けた場合においてである。言葉的には「背水の陣」でも、「自暴自棄」でも、俺の座右の銘であるところの「玉砕」でも何でもいい。とにかく前向きに、恐怖心をかなぐり捨てて、爆走した時にこそ人は人の分際で奇跡を起こす。例えば、ボクシングの試合でセコンドが「もっと消極的に行け!」と叫んでいるのを見たこと聞いたことのある人はいないだろうし、野球なんかでも、調子の良い選手、良い成績を残している選手に限って初球からじゃんじゃん打ちにいく。

んなことはわかっている。わかっちゃいるが難しい。ってなことを言ってる内に自分がどんどん小物になっていくのを感じる。

そこで、打開策として「後悔」という言葉を考えてみる。積極的に動いて失敗した場合の後悔と、消極的に動いて失敗した場合の後悔。いずれも後悔は後悔だが、どちらがより「痛い」のか。そう、後者。消極的に動いて失敗した場合の後悔の方が断然痛い。したがって、得るものの大きさ、失うものの小ささ、いずれにおいて考慮した場合にも「積極的に動いて吉」とズバリ言い切れてしまう、実は実に単純明確な話なのである。

そもそも、人生なるもの自体、実は実に単純明確な事柄の積み重ねから成る実に単純明確なものなのかもしれない。俺やあなたが勝手に難しくしているだけなのかもしれない。何故わざわざ難しくするのか。お互い、あとで言い訳できるようにしているだけの話なのかもしれない。

高二の時に初めて聴いた。ニルヴァーナみたく「衝撃」と言える感じではなかったが、曲も声も音もルックスも最高だと思った。にも関わらずなぜかハマりはしなかった。なぜか聴いていると気が重くなった。でも不思議と「将来、ハマる時が絶対にくる」なんてことを確信めいて思っていた。

その後、現在に至るまで、幾度となくその音楽に触れてきた。でもその都度「無性に聴きたくなった」とかじゃ全然なくて、「なんとなく触れたくて」だった。聴く度に心から「最高っ!」と思えるのに、やはりなぜか気が重くなって、要するにテンションが上がらなくて、ハマることはなかった。でも、本当に不思議な話、いつかハマる時がくるということだけは相変わらずわかっていて、その時が来るのを心待ちにしている自分がいて、一度ハマったら脱け出せないであろうこともわかっていた。

で、来た。本当にその時が来た。来てしまった。

本当にハマってしまっている。もう脱け出せないだろうし脱け出す気もない。最高だ。曲も声も音もルックスも最高だあ!―という感想は今まで通り。高二の頃からちっとも変わってない。ただ、確実に今までと違うのは、聴いていて気が重くなる感じがまるでないということ。それどころか今はその曲や声や音に触れるやいなや血湧きまくりの胸踊りたおし、人目を憚らず「ありがとう!!」なんて叫びたくなったりもするくらい大好きになってしまった、予定通り。





俺の音楽的探求心を司る五虎大将軍。本日付けで『六虎大将軍』へ。

ポール・ウェラー参上!

蓮紡に「廃止!」って言われた。

介護士としての成長が、もの作りとしての成長に直結していると信じて疑わない。

心に「再起」

身体から怠惰を完全に排除すべく格闘している。頭に「ま、いっか」の文字が浮かぶやいなや掻き消して、人知れず柄でもなく頑張っている。

怠惰は麻薬の如し。一度手を出したが最後、二度三度とズルズルいってしまって自他共に認める転落に次ぐ転落、取り返しのつかないことになる。

ここはひとつ頑張らねば。そんなタイミングだ!と、人知れず柄でもないテーマでもって自らを奮い起たせつつもがいている今の自分が少し嬉しい。

今、俺、そんな時。

何時何分にこれをして、それから数分後の何時何分にあれをして...といった具合に、毎日毎日に時間割みたいなものがあって、そこに自分を当てはめて生きている場合、そのやっていることの難易度が少々高かったとしても、人はある程度時間が経てばどうしても馴れてしまう。

時間というものは「時間の流れ」という表現からも知れるように、液体のようなものであると仮定できる感じがある。そしてそもそも時間というものは人間の強烈な概念の賜物なので、人間の肉体的なものに置き換えられないはずはなくて、置き換えて考えてみた場合「血液」しかねぇだろうということになって、時間が血液みたいなものだとすればそこには決して冷たくはない「温度」と呼べるものが必ずやあるはずで、従って、人間が生きている、活きている状態の時間というのものは、時間に対して主体である人間の血液が「熱き血潮」という表現からも知れるように物理的に熱くなっているんだから、彼を取り巻く時間自体もそこそこ熱くなっていると考えられる。

要するに、ちゃんと生きている、活きている人間を取り巻く時間の流れは速く、ゆえに熱いのではないかということだ。

で、で、で、話を戻して、人が時間割的な日常に自分を合わせて、その日常に馴れてしまった場合、血液と時間の流れは緩やかになり、そのことによって温度も低下、ぬるくなってしまう。ぬるくなった時間の流れの中、人の心にカビ的に急速に増殖する人情が「怠惰」で、早い話が「ま、いっか」だ。この「ま、いっか」は一度増殖し出すと、もはや手の付けようがない。環境をガラッと変えるか、リズムをズガッと変えるかしない限り、無限に増殖し続ける。そして駄目になる。

環境がガラッと変わった。リズムがズガッと変わった。俺の場合、胸を張って「変えたった!」とは口が裂けても言えない。気付けば運よく変わっていた。俺は本当に駄目になる一歩手前だった。助かった。

書斎。単純に季節が変わっていた。

プロフィール

いっけい

ビートルズ好きの両親の元、ビートルズを子守唄に育ち物心が付く前から音楽に慣れ親しむ。
学生時代からいくつかのバンドを結成し関西を中心にライブに明け暮れる。
現在はソロでの音楽活動に加えイラストも手掛けるマルチアーティストとして活動の幅を広げている。

いっけいの楽曲が聴ける!! MySpaceはこちら

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