何時何分にこれをして、それから数分後の何時何分にあれをして...といった具合に、毎日毎日に時間割みたいなものがあって、そこに自分を当てはめて生きている場合、そのやっていることの難易度が少々高かったとしても、人はある程度時間が経てばどうしても馴れてしまう。
時間というものは「時間の流れ」という表現からも知れるように、液体のようなものであると仮定できる感じがある。そしてそもそも時間というものは人間の強烈な概念の賜物なので、人間の肉体的なものに置き換えられないはずはなくて、置き換えて考えてみた場合「血液」しかねぇだろうということになって、時間が血液みたいなものだとすればそこには決して冷たくはない「温度」と呼べるものが必ずやあるはずで、従って、人間が生きている、活きている状態の時間というのものは、時間に対して主体である人間の血液が「熱き血潮」という表現からも知れるように物理的に熱くなっているんだから、彼を取り巻く時間自体もそこそこ熱くなっていると考えられる。
要するに、ちゃんと生きている、活きている人間を取り巻く時間の流れは速く、ゆえに熱いのではないかということだ。
で、で、で、話を戻して、人が時間割的な日常に自分を合わせて、その日常に馴れてしまった場合、血液と時間の流れは緩やかになり、そのことによって温度も低下、ぬるくなってしまう。ぬるくなった時間の流れの中、人の心にカビ的に急速に増殖する人情が「怠惰」で、早い話が「ま、いっか」だ。この「ま、いっか」は一度増殖し出すと、もはや手の付けようがない。環境をガラッと変えるか、リズムをズガッと変えるかしない限り、無限に増殖し続ける。そして駄目になる。
環境がガラッと変わった。リズムがズガッと変わった。俺の場合、胸を張って「変えたった!」とは口が裂けても言えない。気付けば運よく変わっていた。俺は本当に駄目になる一歩手前だった。助かった。
書斎。単純に季節が変わっていた。
時間と血液
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