大阪在住のうたうたい&絵描き&詩人 和田一憩(わだいっけい)のブログです。最新情報も随時配信していますので要チェック!!です。 携帯サイトはコチラ

2010年6月アーカイブ

別名『ライブハウス』

19の時に知り合った芸大の女の子は大概みんなこんな感じだった。

人間社会には暗黙の了解的なルールが数限りなくあって、ありとあらゆることに「こうじゃなきゃいけない」みたいなのがあって、そこを少しでも、少しの期間でも逸脱すると待ってましたとばかりに大勢の人間が突然立ち止まり、首を反転させて、その「裏切り者」のもとに駆け寄っていって取り囲んで口々に説教をする。

強い口調だったり、柔らかい口調だったり、人によって口調こそ違うが、それが説教であることに変わりはないし、みな基本的に同じことを言っている。

説教の内容は、早い話が「我々は我慢してるのに何故お前は我慢せんのか」だ。

学生時代、部活を休むと翌日必ず「なんで昨日来えへんかってん」なんて廊下などで同じクラブの奴に会う度に言われたが、俺はあれが、あの言葉が全く理解出来なくて不快で、中学高校と帰宅部で通したのだが、あの「なんで昨日来えへんかってん」だって、意味的には「我々は我慢してるのに何故お前は我慢せんのか」ってことで、俺はいつも「お前はそれを好き好んでやってるんじゃないのか?好き好んでやってることに道連れが要るのか?それじゃただの連れションじゃねえか」とか、「嫌ならやめりゃいいじゃねえか」とか思っていた。

大人になった今でも同じような場面にしょっちゅうでくわすし、その度あの時と同じような感想を抱く。

不特定多数の人間に認めてもらうのと引き換えに我慢してるんなら、それはおのれが好き好んで選んだ道なんだから道連れを求めるような真似をするな。放っといてくれ。俺はお前と並んでションベンしながら小声で誰かの陰口を叩くなんてのはまっぴらごめんだ。

俺は社会人としてイケてるとか、男らしいとか女らしいとか、そんなのはもう本当にどうでもいい。「自分らしい」ってのが一番で、自分らしさを求めて生きることが、くだらない暗黙の了解の外にあって、悪役として振る舞わねばならんのなら、いくらでも振る舞ってやろうと思う。

映画でもプロレスでもヒールがいなきゃ観てて面白くもなんともないだろうし、ヒールは極悪であればあるほど面白いってもんだろう。

ウルトラマンに「悪役になりたいです」と言わせたり、越乃歓梅の女将に「生きることに他人の承諾なんていらない」と語らせたのは誰か。

俺だ。

嬉しい言葉を本当にありがとう。

いつか一緒に越乃歓梅で一杯やりましょう。

「あら、一憩ちゃん、いらっしゃい。さ、さ、そこの席空いてるから座って。一憩ちゃんはアレよね。サッポロビールで良かったわよね」

「あ、はい。お願いします」



―中略―



「ところで女将さん」

「なに?」

「みんなよく「人は一人では生きていけない」みたいなことを言いますよね」

「そうね。それもかなり安易に言うわね」

「でも間違いなく事実ですよね。事実は事実ですよね」

「そうね」

「でも何故か僕はその言葉が腑に落ちないんですよ、昔から。間違いなく事実なのをわかっていながら、納得がいかないというかなんというか...」

「そっか。じゃあ、なぜ腑に落ちないのかを人生の先輩たる私がこっそり教えてあげましょうか」

「お、お願いします!」

「それはね、一憩ちゃんが「人は一人では生きていけない」っていう言葉から「人生は他人に「生きて良し!」みたいに認めてもらわなきゃいけない」みたいな響きを感じ取ってるからよ」

「なるほど」

「確かに人は一人では生きていけないわよ。それは事実。でもね、人が、例えば一憩ちゃんが、生きるということに関して誰かの承認を得なきゃいけないなんてのは完全な出鱈目。事実でも何でもないのよ。だからそんな考え方は一刻も早く「冗談じゃない!」とかなんとか叫んで、頭から追い出さなきゃ。ね?」

「さすがは女将!伊達に歳とってない!」

「余計なお世話よ」

「女将のご教授のお陰で俄然テンションが上がってきました。ビールを瓶でもう一杯と鳥皮をタレで3本いただけますか?」

「さっきの言葉を撤回してくれたら出してあげる(笑)」

般若の面を見ていられる時間はウルトラマンが地球上で戦える時間に等しい。

声にならない言葉が排水口に髪が絡み付いていく時の不快な速度で喉を詰まらせていく。

耐え難く息苦しくなるまでの時間は年々短かくなっていった。

3分が2分に。

2分が1分に。

1分が30秒に。

30秒が15秒に。

15秒が10秒に。

9秒。

8秒。

7秒。

6秒。

5秒。





戦うことを諦めたウルトラマンは地球上に降り立つ度に「ごめん」と小声で心なく謝るやいなや、全てを振り切るようにして飛び去るようになってしまった。

民衆はウルトラマンがやって来ると迷惑そうな顔をした。

仕事終わりの居酒屋でビールを焼酎に切り替え、生粋の酒豪たる自分がいよいよもって勢い付き始めたことを何気に周囲にアピールしているオヤジなどはウルトラマンが現れても席を立とうともしなかった。

大気圏とオゾン層。

地球を慎重に4等分したものを手荒く3つに裂いたような大きさしかない貧相な惑星に逃げ帰ったウルトラマンはその惑星唯一の小さな病院に流れ込んだ。

年配の女医が「ビョウキです」と診断結果を告げるとウルトラマンは「悪役になりたいです..」と呟き哭いて、場に沈黙をもたらしたが、その沈黙は意外な角度からの鋭利な言葉によっていともたやすく打ち破られた。

「あなたが生き延びるにはそれしかないでしょうね」

先程から女医の隣に神妙な面持ちで「手鏡」と呼ぶには大き過ぎる鏡を持って突っ立っていた通りがかりの美女が言うと、女医は笑いを堪えて2度咳をし、「はい、次の方どうぞ」と言った。

ウルトラマンが無言で席を立ち、出口の所で振り向くと、あの通りがかりの美女が何の断りもなく鏡を女医の膝の上に置き、女医の前に座って診察に臨んでいた。

鏡に映る美女の顔は何故か歪んでいた。

女医は膝の上の鏡に細心の注意を払いながら軽く身を乗り出し、美女の目の前に左手の薬指を突き立てると「これ、何本ですか?」と問うた。

「見えません」大きく目を見開いて美女は答えたが、ウルトラマンは驚かなかった。驚くどころか「やっぱりな」と思い、今だかつて体験したことのない、しかし漠然と夢見てはいた不思議な安堵感に包まれて静かに診察室を後にした。

俺が小学3年の時に亡くなった父親方のじいちゃんは、例えばテーブルの上に埃をひとつ見つけただけで「チッ!」と舌打ちをして、「許せん」といった表情でその埃を摘まんで、ゴミ箱まで持っていくタイプの人だった。俺は子供心に「そんな埃ひとつくらいどうでもいいじゃないか」と思っていた。そしてそんなじいちゃんは食事時となると、本当にブリの照り焼きしか食べなかった。それが元船乗りのじいちゃんのプライドだった。

今、俺が置かれている状況というのは、俺の人生がまだこの先数十年続くものだとしたら、俺の人生全体という線上にある小さな小さな点だと思えなくもないし、たぶんそうだ。友人たちは「なぜ一念発起して跳ね返さない」とイラついているに違いない。そしてそんな俺は音楽や絵を「創る」ということにしか、無我夢中になれない。それがストイックな絵描きを父親にもった俺の唯一のプライドなんだ。

いずれにせよ、端から見ればくっだらない。「そんなことだから生きにくいんだ」と言われても返す言葉がない。でも人生、他人の目にはただの埃や点でしかない物事が、ある人間にとっては死活問題になってしまうということだって往々にしてあるんじゃないのか?と思う。みんなそれぞれの形で埃にイラついたり、点につまずいたりしてるんじゃないのか?と思う。じいちゃんや俺にはくっだらないとしか思えないようなことでてんやわんやしてるんじゃないのか?と思う。

なあ、じいちゃん。

近所の公共施設で、無料でパイプオルガンの演奏が聴けるというので行ってきた。パイプオルガンは見るのも聴くのも初めての経験。一度生で見てみたかったし聴いてみたかった楽器。

めちゃくちゃデカかった。無数に並んだ長い銀色のパイプを束ねるように、複雑な彫刻を施した木枠がパイプの所々にはめ込んであって、一番長いパイプなんて、会場となった教会調のホールのかなり高く設計された天井に突き刺さるかのような勢いでそびえ立っていた。演奏してる年配の女の人と、その助手みたいな若い女の人(譜面をめくったり、鍵盤横のレバーを摘まんで音質をコントロールする)がめちゃくちゃ小さく見えたのも無理はない。とにかく荘厳、巨大だった。

音の方も見た目に負けず劣らず荘厳で、強烈に崇高な感じがして本当に圧倒的だった。目を閉じて聴いていると、それこそ天使とかキリストとかのイメージが頭の中で自然に浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返した。

本当に凄い楽器だと思った。これで『モナリザ』(俺の曲)とか演ってくれたりしたらきっと、俺の人格とか人生が一瞬にして好転し始めるんやろあ...なんてことをふと思って目を細めていると、そこへパイプオルガンの演奏と同時進行、いわばコラボ的に本日のもう一人の主人公たる尺八吹きのおじさんが舞台に現れたが、申し訳ない話、心の中で「帰りやがれ」と思ってしまい、気付いたら俺が帰途に着いていた。

270×380mm

現時点での最高作だと思っています。ただ、残念なのは俺の携帯がかなり古い機種である為に、本来紫色の髪や、灰色の涙がどの角度から撮っても、どう明るさを調節しても、ブルーにしか映らなかったことで、その他の箇所も全体的に微妙に本来の色と違っていて歯痒く思っています。

俺、喋れと言われればちゃんと喋れる。でも「話し合ってみては?」などと言われても、話し合いの成立し得ない、話し合いが話し合いにならない人間が相手となると、何一つまともに言葉にならない。言葉に力が伝わらない。というのはなにも俺だけに限った話じゃないだろう。

たったひとつの問題。たったひとつの極めて巨大な問題、「恐怖心」がネックになって、物事がちっとも前に進まない。こいつにさえ打ち克てれば、全てを0に戻して、また一から、色んなことを自分で選んで、心から笑ったり喋ったりできる生活が手に入るはずなのに、この馬鹿デカイ恐怖心が邪魔をして、脚が笑って、どうにもこうにも踏み出せない。

心にプラスアルファ的な何かが要るのかなと思う。例えばバンジージャンプで飛び降りる瞬間に自分の背中をポンと押してくれる閃きのような思考のような「何か」が要るんだろうなと思う。

俺は決して労働というものが嫌なわけじゃない。思い返してみれば、いつも結構頑張ってきたし、不思議と楽しめてきた。だから、この恐怖心にさえ打ち克って、視界が開けたらすぐにでもどっかで働く。働きながら、働いたお金でやりたいこと、ここ数年間やりたくてもできなかったことをやって、一度はバラバラに砕け散った自信みたいなものを収集して歩く。そんな生活の中で飲む酒が悪い酒にならないことくらい、さすがに俺も33、考える前に知っている。

そこで浮上してきたのが「一人旅」なる発想。今まで考えたこともなかったが、最近、周りの心ある人たちに幾度となく薦められて、少しずつ考えるようになってきている。俺が探している「何か」はひょっとしたらこことは別のどこか、今まで行ったことのない場所に落ちているのかもしれない。

で、どこへ行けばいいんだろう。そういえば海を眺めながら、通報されてもおかしくないくらいの長い時間、砂浜にじっと座っていたい気もするし、何を言ってるんだかさっぱりわからない方便的なものを聞いて、その味わいをしみじみ感じてみたいような気もするし、田舎の人通りの少ない商店街らしき所を古いにも程がある看板などを眺めてぶらぶら歩きながら、歩き煙草を楽しんでみたい気もする。

実際に行動に移すかどうかは別としても、考える価値はあるような気がする。考えるだけでちょっとだけ楽しくなるし。

270×380mm

人に絵を見てもらった時によく言われるのが「私(俺)は、絵のことようわからんのやけど」という前置詞なのだが、そんなことは全然気にしてもらわなくてもいいと思っている。わからんならわからんなりに、解釈の仕方なんて無限に、それこそ人の数だけあるんだから、好きに解釈して、気に入ったり気に入らなかったりしてくれたらそれでいいと思う。だいたい、俺が全くわかってないんだから。絵画というものの正しい見方を。正直、自分自身の絵に関してさえなにがどうなんだかさっぱりわかっていない。

ただ、最近自分が描いた絵に関して、ひとつだけ皆さんにわかっておいてもらいことがあって、それは、『受容』の女の人の微笑と、『キャリアウーマンの微笑』の女の人の微笑は似ても似つかない、意味的に真逆のものだということだ。これだけは一緒にされちゃあ困るんです。この違いには柄でもなく、若干のメッセージ的なものを含ませてあるので、なんとなくでも読み取ってもらえたらなと思います。

ま、もし読み取れなかったとしても、それはそれで全然構わないんですけどもね。

はい。

270×380mm

270×380mm

「間違いない」と言い切れるくらいの考え方を見つけたい。そして、それを見つけたら、それに向けて大きな一歩を踏み出そうとする時には背中をポンと押してくれるような願わくは劇的な、示唆的な出来事が起こって欲しいと思う。臆病者の心は、足はそのくらいのことがないと動かない。ちょっとやそっとじゃ動かないから臆病者。

人はよく「心の声」みたいなことを言う。「心の声に耳を澄ませて」みたいなことを言うが、世の中には自分自身のそういったものをしっかり意識しながら生きていけてる人って一体どのくらいいるんだろうか。例えば「自分は何を考えているのか」例えば「自分は何を思っているのか」といった基本的極まる事柄。本当は「自分は何故生きているのか」なんて崇高な事を考える前に、考えておかねばならないことが山ほどあるんじゃないだろうか。「自分は何を思っているのか」みたいなめちゃくちゃ基本的なことをスルーして、いきなり生きる意味みたいなことを考えたりするから、この国において宗教を信仰している人の数が、この国の総人口よりも多い、みたいなアホなことになるんだろう。

最近、俺が気付いたのは、俺は自分が何を考えているのか、何を思っているのかということさえわかっていない。把握できていないってこと。他人の顔色ばかり窺って、自分の心の声にはちっとも耳を傾けて来なかったからこんなことになってしまったんだろう。

酒を飲むと、恵みの雨。自分の中の子供が「待ってました!」とばかりに喜ぶのを感じて、嬉しくなった。俺はしっかりと時間を割いて彼の言葉に耳を傾ける代わりに、「薬」で彼を解放させてきた。それはまるで仕事が忙しくて、家にほとんど居ない親が、子供に対する罪悪感から逃れる為に無闇にお金を渡したり、玩具を買い与えたりするのと同じ原理だ。そんなことをしても、子供の心から孤独感が拭い去れるわけじゃないし、それどころか大人になっても消せない孤独感の塊を背負わせることになるだけなのに、だ。

最近、俺が絵を描くようになったというのはまさにそういうことで、自分の心の声を聞きたい、自分の中の子供の言葉をちゃんと聞いてやりたいという気持ちの表れだと思う。出来上がってきた絵には必ず、自分のものとは思えない、でも、自分のものだとしか解釈のしようのない言葉がある。

自分自身のことを、漠然としたイメージとか、希望的観測とかで捉えて、それが実は自分の本来の姿みたいなものに似ても似つかないものだということに気付かないまま生きていったとしたら、そのうち必ず何らかのタイミングで深い深い落とし穴にはまることになると思う。で、俺はものの見事にはまった。そういうことだろう。

33年間、俺は一体何をやってたんだろう。で、今、俺は何をやってるんだろう。何がしたいんだろう。これじゃただの歩く恐怖心じゃねえか。

あまり言いたくないけど、正直な話、死ねないことが悔しかったり、情けなかったりする。唯一手元にある切り札。これさえ切れれば、ギャフンと言わせられるのに、それをわかっていながら、できない。このままだと、確実に罵倒される。嘲笑される。目に浮かぶ。にも関わらず、俺はやはり切り札を切れず馬鹿にされて、俺自身も俺を馬鹿にして、なんだかよくわからないままに生きていくんだろう。

誓って言えるのは、別に同情を買いたくてこの文章を書いてるんじゃないってこと。そして、どんなに最低な状況においても、俺は絶対に死なないし、死ねないし、気合い一発切り札を切って「これでも喰らえ」と無言で叩きつけることができないってこと。

ほんの数年前まで、人生は楽しかった。本当に楽しかった。「楽しい」って大きな声で言えてた。それが今では「楽しくない」とさえ言えない。楽しい楽しくないがわからない。自分がわからない。でも、そんな自分を受容してくれる人というのが確実にいて、俺はそんな人たちの心の柔らかさと、そんな人たちへの心からの感謝と、望んだ時にいつでもそんな人たちの心に触れることができるように『受容』を描いた。

下手な絵。そんなことは自分でよくわかっている。でも、絶対に手放せない絵。

女の人が微笑んでいる。描いている時、「意地でも微笑ませてやる」と思っていた。

微笑んでくれた。

以前にも述べたように、俺は夜、罪悪感や恐怖心で頭がいっぱいになってきたら、とりあえず部屋の明かりを消して、部屋の角にある机に向かい、電気スタンドをスポットライト的に点けて、紙とペンを用意。AMラジオをBGM代わりに流し続けながら絵を描くことにしている。

今夜は、先日机の中を物色していた際に見つけた36色クレパスと『女帝の心臓』を描いた時と同じサイズ(270×380)の画用紙を使って描くことにした。

今回は初めて、テーマ的なものを漠然とではあるがあらかじめ決めてから描くことにした。

自分自身、何度も見たくなるような、自分にとっての「癒し」を自分の手で拵えてみようということで描き始めた。

完成したものはタイトルを決めてから、この次に載せるが、これを描き終えた後の個人的感想は『祈りの少女』を描いた時同様「なんでこんなもんが自分の中から出てきたんやろ..」で、本当に、カッコを付けるつもりなんて微塵もなく、心から「俺の中で何が起こってるんやろう?」って思う。

絵、載せるけど、くれぐれも「誰?」とか思わないで欲しい。そんなことはどうでも良いことだし、だいたい、俺自身わからんねんから。モデルがおるわけじゃないし、本当に誰でもないのです。

では、今からタイトルを考えて、決まり次第発表します。

昔、ここでいっぱい曲を書いた。

今、ここでいっぱい絵を描いている。

今まで数え切れないくらいの人がここに来て酒を飲んだ。語り合った。

昔、お年玉で買ったビートルズのポスター、ジョニーロットンが十字架に磔り付けられてニヤッとしているポスター、キースリチャーズがギターを弾いているポスター、オアシスの雑誌の切り抜き多数、町田康の顔面拡大コピー写真、(全盛期)少年ナイフのポスターと直筆サイン、阪神タイガースの新聞の切り抜き、ビートたけしの写真集(非売品)、メグライアンの切り抜き写真、ザ・フーの特大ポスター、アヴリルのポスター2枚、アルファベッツ時代の手帳とB5サイズのポスター、アルファベッツ時代リプライズ時代のバックステージパスetc...尊敬している人たちの写真や、個人的な宝物が所狭しと並んでいて、少しばかり歳をとって帰ってきた俺を取り囲んでくれている。

我ながら凄い空間だと思う。俺の旧友たちはみんなここをとても気に入ってくれている。ここに来るやいなや「俺、帰ってきたあ〜」なんて言ってくれる奴もいる。

ここが俺の居場所。最高の居場所。人間、居場所が無いってのは本当に最低な状況。ちょっと前まで俺には居場所がなかった。「空間」はあったが「居場所」が無くて、居場所を求めて、近所をブラブラブラブラ徘徊していた。ちっとも楽しくなかった。窮屈で窮屈で耐え難たかった。

今は、居場所がある。数日前、久々にこの空間に足を踏み入れた時、感覚的に「おかえり」って声が聞こえたような気がした。

もしここさえ、この空間さえ窮屈に思えてきたら、それこそ終わりだと思う。

俺は絵を描く時、テーマを決めてから描くということをしない。頭の中を出来る限り空っぽにして、手が動くに任せるだけのいわば「コックリさん式画法」。だからタイトルは毎回、出来上がったものを見て決めてる。

この『祈りの少女』は10cmくらいの小さな小さな絵。『鎖帷子』を描いた後の、普通なら寝るはずのタイミングに、なぜか全く寝る気がしなかったので、再び机に向かい、紙の上に適当にペンを滑らせてたら出てきた。気付けばそこにいた。めちゃくちゃシンプルなんだけど、めちゃくちゃ綺麗に思えたから、余計な手は加えずにこれで完成にした。

「こんなことってあるんだろうか..」などと思いつつ先程からじっと眺めているのだが、これが不思議なくらい飽きない。

自分の中からこんなものが出てくるとは夢にも思わなかった。

・女帝の心臓 ★★★★★

・チキン ★★★

・7 ★★★★

・父性 ★★★☆

・お手上げ天使 ★★★★☆

・邪涙神 ★★

・寝顔 ★★★★★

・アラジン ★★☆

・儀一郎 ★☆

・救援 ★★★★★

・迷信卿 ★★☆

もし彼女が絵を描いていたら、さりげなく近寄って行って「お、やっとんな」くらいの声はかけると思う。

もし彼女が紙とペンを前にギターを弾いていたら、少し離れた所から「出来たら聴かせてな」くらいのことは言うと思う。

もし彼女がブログをやっていて「我ながら面白い文章書けたから読んで」って言ってきたら、じっくりと読んで、面白ければ「面白い!」って言うし、思う所あれば笑いながら軽いダメ出しくらいはすると思う。





彼女にとってかけがえのないもの。彼女が自信を得るために片時も手放せないもの。彼女が「私の唯一の売り」と呼ぶもの。彼女が彼女であり続けるために欠かせないもの。

見て見ぬふりなんて絶対にしない。時々、邪魔しない程度に手で言葉で触れさせてもらうと思う。彼女が夢中になってやっているということに触れさせてもらうと思う。

俺がピッチャーをやる時は相手がキャッチャー。相手がピッチャーをやる時は俺がキャッチャー。

この繰り返しが『会話』

ピッチャーの能力を最大限引き出しながら自分の持ち味を発揮するのがキャッチャーで、キャッチャーの要求に最大限応えながら自分の持ち味を発揮するのがピッチャー。

これが『会話』の妙

俺はキャッチャーとしてはなかなかのもの。ピッチャーの能力を最大限引き出してやろうとするし、たまにピッチャーが俺のサインに対して首を振った場合には「ほなそれでこい!」サインを出す。自信を持って投げる球なんだから打たれてもしょうがねえじゃねえか。で、あ、打たれた。でも、ま、そうヘコみなさんな。試合が終わったら飲みに行こや。ってなもんだ。

一方、ピッチャーとしての俺は、キャッチャーの質に大きく左右される。キャッチャーが良ければ俺はなかなかの球を投げる。内角低めにビシッといく。でもキャッチャーが悪かったら、身体が全く言うことを聞かず、暴投に次ぐ暴投、あるいはデッドボール。しまいには投げるのが嫌になってしまい、マウンド上にあぐらをかいてビールを飲み始めたりしてしまう始末。そんな俺を見かねたキャッチャーは俺の所までやってきて「代われ!」と一喝。俺は邪険な態度で渡された汚いキャッチャーミットを嫌々受け取ってトボトボとホームベースの所まで歩いて行き、しゃがみ込んでサインを出すが、先程までキャッチャーだったピッチャーは俺のサインなど見向きもせず、傍若無人、好き勝手に球を投げ込んでくる。どこに投げてくるのかわからない中で俺が補逸すると、ピッチャーは怒り狂ってグローブをマウンド上に叩き付けて俺の所にやってきて無言で俺を睨み付ける。俺は謝る。「全て俺のせいです。ごめんなさい」謝る。腹の中では「このクソ野郎が」と思っているが、自分の意思に反して口から出てくる言葉は「ごめんなさい」のみ。涙が込み上げてくる。

元々キャッチャーなんて退屈だと思っていたあいつは、ここぞとばかり、負け犬のような目をした俺を固定キャッチャーにした。「あいつは絶対俺には逆らわへんし」との算段下、来る日も来る日も傍若無人な投球に見舞われた。

仕事は仕事。今日も俺は負け犬キャッチャー。デカく重いボストンバックを担いでグラウンドに向かうと、あいつは先に来ていて、河川敷の上に俺を見つけるやいなや大きな声で「おせえよお前。やる気ないんやったら死ねや」と言い、周りの奴らが卑屈な顔をして笑っていた。

バックの中に大量のビール。

以前、島田洋七が「金を貸す時ってのは「あげた」と思わなきゃ。貸した側は貸したことをとっとと忘れる。借りた人間が覚えてりゃいいんだから」と言っていた。

昔、中国の偉い人が日本の政治家に向かってこう言ったらしい。「我々、中国人は(戦時中、日本が中国にしたことを)忘れるよう努力します。だからあなた方日本人は忘れないように努力してください」





人が人に何かしてあげるというのは、まさにそういうルールにのっとってのことだと思う。してあげる側はしてあげたらしてあげたことをとっとと忘れるべきで、してもらった人間はしてもらったことを決して忘れず、覚えておいて、その都度その都度、心からの気の利いたお返しをしていけば良いんだと思う。

だが、世の中には人に何かしてあげるたびに、それを「いつか使えるだろう」などと呟いて、いずれ口論などの際に自分の主張を通す為の切り札として出せるよう心の金庫に保管してしまう人がいる。そして、かつて自分が何かしらしてあげた人間が自分に対して何か苦言を呈してきた場合に、ニヤリ、この切り札を金庫から取り出し机上に叩き付けて「あの時、あなたを助けてあげたのは一体どこの誰でしたかねえ」などとヤクザなことを言って相手を黙らせて、黙っている相手、身動きのとれなくなった相手を数々の言葉で犯す。ということを繰り返す。これは犯罪じゃないのか?ルール違反にもほどがあるだろう。

してもらった人間は、してもらったことを覚えている限り、してくれた人間に対して引け目を感じているし頭があがらない。小さくなる。そんな人間に対しては、もししてあげたことを覚えていたとしても「忘れたあ」的に振る舞うのがルール、優しさで、ことあるごとに切り札をチラつかせるなんてのは本当にヤクザの手口だと思う。

優しさというのは器の大きさの問題だと思う。器の大きな人間はそんな下品な切り札をコレクションしたりしない。ま、そんな奴はいずれ、放っといても孤立するんだろうし、孤立してしまってから助けを求めても誰も助けに来んのだろうけども。

自業自得だ。

コメントありがとう。薔薇の花束みたいな文章です。本当にありがとう。

単発的なステージ復帰も楽しいけど、楽しんでる最中から目と鼻の先に終わりがあって、その次が見えないというなんとも言えず虚しい感覚がどうしても拭えないので、次に復帰することがあればそれは、継続的なものじゃないと意味がないと思っています。

俺自身、ステージの上の自分が大好きです。また彼に会いたいなと日々思っています。

コメントありがとうございます。「ファンとしては」っていうフレーズが死ぬほど嬉しい。ありがとう。

もしまたちゃんと音楽が出来るようになったら、aさんみたく待ってくれている稀少で貴重な心から有難い人たちの為に手段を選ばず、決壊的に自分の音楽を発信していこうと思っています。本当です。

どんな状況にあっても、音楽のことを考えない日は一日たりともないし、今までにもなかったということを、無理矢理にでも信じていただけたら幸いです。

写真左から『7』『女帝の心臓』『チキン』『父性』

相手が誰であるかに関わらず、まともに喋れないと思う。もし喋ってしまったら、喋り終えて、相手が去るか、受話器を置くかした途端に、頭の中が後悔でいっぱいになってしまうと思う。





「考える」ということが恐怖心や罪悪感の呼び水にしかならないでいる。でも頭は考えようとする。何を考えれば良いのかわからないままに考えよう考えようとして考えている。何一つ言葉にならず、ただただ滅入る。





自分にとって「原点」と呼べる場所に閉じ込もって、来る日も来る日も絵を描いている。何を描いているのかわからないままに描き続けている。

時間を忘れるために描いている。

我を忘れるために描いている。

「考える」ということを忘れるために描いている。

「忘れる」ということを思い出すために描いている。

もし呑めたら描いていない。

あなたは「死ね」と言った。

悲しい。

ここにあるのは、命と恐怖心だけ。





金がない。





希望がない。





酒がない。





何もない。





「死ぬほど怖い」と繰り返し呟く命だけがある。





同じ人間なのに。

生まれて初めて「死ね」って言われた。「とりあえず死んで」って言われた。





でも俺には俺に「死ね」と言った人の何倍もの数の心優しい友達がいるし、自分の生み出した、自分が死んでしまうと同時に消滅してしまう曲が41曲もあるし、そういったものを生み出す能力もあるみたいだから「冗談じゃねえよ」という結論に達した。





全てを0に戻そうと思っている。俺はやっぱり創りたい。創るということで生きて、死にたい。もの創りは人に「死ね」だなんて絶対に言わない。もの創りは基本的に優しくあるべきだ。だって「もの創り」なんだから。





「死ね」とまで言われて黙ってたんじゃバンドマンとしていかがなものか。

生きてやる。全て『0』に戻して、また純粋に夢を見て、恋をして、生きてやる。

人に「死ね」なんて言える奴の何をどう信じれば良いのか。

もう、俺は、あんたを、一切、信じない。

プロフィール

いっけい

ビートルズ好きの両親の元、ビートルズを子守唄に育ち物心が付く前から音楽に慣れ親しむ。
学生時代からいくつかのバンドを結成し関西を中心にライブに明け暮れる。
現在はソロでの音楽活動に加えイラストも手掛けるマルチアーティストとして活動の幅を広げている。

いっけいの楽曲が聴ける!! MySpaceはこちら

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