学生の頃、何が嫌いって勉強が嫌いだった。特に数学が嫌いで、っていうかたぶん生まれつき数字というものが嫌いで、公式を覚えて、その公式を素直に使って問題を解いたにも関わらず、公式に応用を加えるということが理解できず、しないために不正解の連発で、結果14点みたいなことが多々あって、そんな時、俺は数字にナメられているような気がして、実際に吐いてしまうんじゃないかと思うくらい怒りで頭がいっぱいになった。
今でも数学、及び数字は死ぬほど嫌いだが、勉強は、勉強という言葉の捉え方によっては自分は結構好きなのかもしれないなと最近思うようになった。
要は興味の問題らしい。例えば、今、俺は心理学にハマっているが、思っていたより難解なものじゃないし、文体や専門用語自体が独特に魅力的だし、何より実際の生活に即戦力的に活かせるものだという認識があるから、俺自身の吸収率も相当に良いらしくて、学んだことが頭にすんなり流れ込んできている実感がある。
勉強の対象が、本当に興味のあるものだけに自分の中の吸収率がかなり上がっているらしいことに気付きだすと、今度はそういった知識を容れる自分の頭の中の容器みたいなものにまだまだ空きというか余裕みたいなものがあることを感じるようになってくる。例えば心理学の本を読んでいると、自分の頭の中にワイングラスがあって、これにまだ10分の1に満たないくらいの量しかワインが入っていないイメージが浮かんだりする。で、まだまだ入るし、まだまだ入れておきたいと思うようになってくる。
ある事柄に関しては頭がいっぱいだ。ワインがグラスから溢れて出て悲惨なことになっている。でも、どうやら頭の中のワイングラスは一つじゃないらしい。頭の中には無数のグラスがあって、その中にはきっと一滴もワインの注がれていない乾いたグラスが幾つかあって、これがゆえに生きていてわからないことが多々発生するんだろうけれども、考えようによってはこの空きグラスは後々の楽しみのために大切に保管しておくべきものなのかもしれず、この空きグラスを後々の楽しみのためだと捉える為には、人生のなるべく早い段階で「勉強」というものを自分なりの解釈でいいから好きになる必要があるんだろうな、ということに今、気付いた次第です。
ワインレッドの頭
トラックバック(0)
トラックバックURL: https://ikkei.me/mt/mt-tb.cgi/758
コメントする