「今」をどう捉えれば良いのかということをずっと考えてきた。
俺らしく、だからいつもかなりぎこちなくはあったかもしれないけれど、それでも比較的健康的に笑いながら歩いてこれたように思っていたここまでの人生。そんな中で、突然ストンと落とし穴にハマってしまったかのようなこの奇妙な「今」という時期をどう捉えれば良いのか、どう表現すれば自分自身納得がいくのかということをずっと考えてきた。
昨日、生活雑貨や食料品がおいてある何でも屋的なお店に出掛けたところ、レジの奥の棚、お客の手に届かない場所に、昔、京都の居酒屋で一度だけ飲んだことのある焼酎が売られているのに気付いた。
『晴耕雨読』
いい言葉だなと思った。昔、京都の居酒屋でこの焼酎を頼んだ時の理由もただ単にこの銘柄が気に入ったからで、あの時もこの言葉は当時の自分の気持ちにフィットしたのだが、あれから数年経った今また、この言葉が妙に自分の気持ちにフィットして少し気が楽になった。
要するに雨読だ。ここ数年間、一切雨が降らなかった。ずっと晴耕で、後半に至っては不本意とも言える晴耕の日々だった。でも今はその逆。いつ終わるとも知れない梅雨みたいな感じで雨がしとしとしとしと降り続いている。
だから今は雨読。晴耕の日々には自分の中に何かしら蓄えるということに手が回らなかった。だから今は本を読んだり、考えたりして、自分の中に蓄えられるだけ蓄えるべき時期だ。
孔明は、劉備に三顧の礼をもって迎えられて、乱世に飛び込んで行くまでの間ずっと田舎の草庵に引きこもって読書と構想に耽っていた。だから「伏竜」なんて呼ばれてもいたし、乱世に出てからも孔明は大きな戦争の前には必ずたっぷり時間をかけて、兵士を鍛えたり、農作物の生産力を上げたり、国力の強化を怠らなかった。
ずっと晴耕していることが賢いやり方じゃないし、戦争は戦争以前の地道な蓄えあっての戦争なんだから、俺の人生に関しても、今は今でやるべきことがある大切な時期なんだ。
伊丹最北端の伏竜
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