今、俺には恐怖の対象が二つある。
一つは「個」で、もう一つは「全体」で、これが絡みあって大きな恐怖心になっている。
でも今朝、ある人からのメールを読んで、嬉しいことに「全体」に対する恐怖心にこそ変わりはないが、「個」に対する恐怖心が確実に和らいだのを感じた。
俺が恐れてきた「個」というのは言い換えれば強烈な「怒」なのだが、ほぼ毎日、心理学系の本を買ってきては読んだり、無心になって絵を描いたり、友人たちに会って夜遅くまで話をしたり、昼夜を問わずあれやこれやと熟考しているうちに、この「怒」が実は実に奥行きのないペラッペラなものに思えてきたのである。
ところで、俺は昔から『三國志』が大好きで、漫画や小説や分析書など、三國志に関する本を数多く読んできたのだが、これが、ことあるごとに自分が生きる上での参考、もっと言えば武器になってきた。そしてそれは今回「怒」に対して考える際にも例外ではなかった。
三國志には有名な「赤壁の戦い」以外にも数え切れないくらい戦さの場面が登場するが、戦さには勝利の方程式(いわゆる「兵法」)的なものがあって、この中には現代人の「戦さ」にも役立つものが多々ある。
で、「怒」についてである。三國志を熟読された方ならよくご存知だと思うのだが、重要な戦さの時に絶対に大軍を任せてはいけない人物像というのがあって、これがまさに「怒」の感情に流されやすい人物。頭に血がのぼりやすい短気な性格の持ち主なのである。
三國志を読んでいると本当に実感する。戦さにおいて真に強いのは、いかなる局面においても冷静さを失わない人物だ。誰の目にも多勢に無勢、劣勢で、さらに敵の総大将が世に名高い豪傑であっても、その総大将が「怒」の感情に流されやすい短気な気質の持ち主である場合には、ほぼ100%の確率で、戦う前にすでに勝負はついている。
「怒」は絶対に勝てない。
数で敵を圧倒している分、自信過剰で怠慢になり、無策にただただ数で押す。威圧する。が、いっこうに勝てない。これが続いて、ただでさえ短気なのにさらにイライラし始める。イライラして来る日も来る日も数で押す。威圧し続ける。が、やはりいっこうに勝てない。
この時、対陣している冷静な人物は敵からの威圧感を完無視。自らの心の軸をぶらせることなく、左羽扇に戦局を分析して、頭の中にはすでに自軍が劣勢だという意識すら無く、とりあえず勝つのは当然だとして、思考は「いかに勝つか」という「勝つ」ということの次の段階にまで移行していて、こんな場合、この冷静な人物が特に有能な人物(歴史的大軍師・諸葛孔明の名を出すまでもなく)であれば、選択する戦術はほぼ間違いなく「自滅させる」である。自滅させることができれば、自軍の消耗も最低限に抑えられる。で、入念に策を練る。敵の総大将の気質を最大限利用した形の策を練る。かくして、「怒」は自滅する。
というわけで、見方によっては「怒」はびっくりするくらい恐るるに足りないものなんじゃないか?と思う。というのは現に歴史が証明しているし、俺の個人的な考えとしては、「怒」という感情はある種「毒」なんじゃないかと思う。だからその都度その都度吐き出さなきゃならないんじゃないか、と。そして、中には吐き出しても吐き出しても吐き出し切れないくらい絶えず毒を生産してしまう体質の人がいて、そんな人はやはり、その体質が災いして自滅するしかないんじゃないかと思う。だからもし、そんな人物と対峙、対決しなければならない場合には「待つ」ということが何より有効な戦術になるんじゃないかと思うのです。
〈追記〉じゃ、本当に怖いものって何だろう?と考えた場合にはこれは「優しさ」だと思う。名曲『神田川』の中の「ただあなたの優しさが怖かった」という一節が、いつの時代にも聴く人の胸に響くというのは、人が基本的に、それがたとえ無意識下であっても、そこんとこをちゃんと知っているからだと思う。本当に怖いのは優しさだ。
長文『三國志と神田川』
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