『竹尾 涼』は須磨ですまんの〜という男に選ばれて、彼の生活の一部に加えてもらえて、本当に幸せな絵だなと思う。
彼は、須磨ですまんの〜という男は、『竹尾 涼』という絵に対して想像力をフルにカラフルに爆発させて、絵を「存在」に変えて遊べてしまっている。楽しめてしまっている。これは本当に夢のある素晴らしいことだと思うし、作者である俺自身、こんなに嬉しいことはない。
絵との接し方というのはなにも、絵の前に仁王立ちして、眉間に皺を寄せて、腕を組んで「う〜む」などと低く唸るだけが全てじゃないし、観る人間にそんな見方をさせる絵だけが絵じゃないということだ。
彼のお陰で、俺の絵のあり方がグッと見えてきた。そもそも俺の絵は絵のようで絵じゃなかったり、芸術のようで芸術じゃなかったりする何か別のものなんだから、変に崇高であろうとする必要なんてない。等身大で、観る人の想像力によっては確実にそこに「存在」し得て、例えば音楽が人に歌わせたり踊らせたりするように、俺の絵も人に遊んでもらえたり、楽しんでもらえたりするものであればそれが最高だ。
かく言う俺もしょっちゅう、『恋のジャンヌダルク』を眺めながら、心の中で彼女に対して色々と相談したり、悩みを聞いてもらったりしてるけど、これでいいのだ。この接し方が許されるというのが崇高感ゼロを誇る俺の絵のセールスポイントだ。
全ては想像力の問題だ。
メルヘン・スパーク
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