絵を描く時、描き始める前に「綺麗な人を描こう」とか「可愛い娘を描こう」とかいった漠然とした方向性こそ(たまに)設定するけど、「こんな顔にしよう」みたいな具体的なヴィジョンはいまだかつて一度たりとも考えたことがない。俺自身、毎回、どんなものが出てくるのかは描き終わるまでわからない。だからこそ面白い。何が出てくるかわからないガチャガチャ的なドキドキ感、ワクワク感がたまらなく楽しくて、無我夢中になる。
例えば、『阿仁真里』さえも、阿仁真里を描こうと思って描き始めたわけじゃない。でも、出来上がってきたものを見た時に、本当に不思議だけど、阿仁真里にしか見えなかったから『阿仁真里』と名付けたのである。
阿仁真里って誰なのか。何なのかはここではあえて書かない。ご存知ない方は、今年の3月以降のブログに目を通していただければわかってもらえると思うのだが、阿仁真里という女の子は本来ならば中川翔子似なはずなのである。ところが、今回正体を現した阿仁真里は中川翔子とは似ても似つかない。にも関わらず、俺は出来上がった絵を見て、「あ、あ、阿仁真里だあ!」と思ったのである。
これいかに?
これはたぶん「中川翔子似」というのはあの時の俺が意識的に考えた像、要するに俺の願望した像であったのに対して、今回現れた姿は俺の願望を一切含んでいない、俺の無意識の部分から立ち上ぼってきた像だったからで、阿仁真里って一体何なのか、俺にとってどういった存在なのかという原点に遡って考えると、やはり阿仁真里の本当の姿は今回の絵『阿仁真里』そのものなんだと思う。だから俺自身も、絵を見たとたんに自分の意識的な部分が吹っ飛んで、願望的なものが吹っ飛んで、無意識の部分で思い出したように「あ、あ、阿仁真里だあ!」ってなことになったんだと思う。
とにかく、俺は絵を描く時は可能な限り何も考えないようにしている。そのことに細心の注意を払っている。もし絵を描く前に自分が少しでも何か余計なことを考えだしたなと感じたら机から離れて、煙草を吸ったり、散歩をしに出掛けたりして、一旦絵のことを忘れるように心掛けている。
俺は、「無意識」という名の、中に何が入ってるんだかわからないタンスの取っ手に手を掛けて、ドキドキワクワクハラハラしながら引っぱり出すというのが絵を描くということの一番の醍醐味だと思っている。だから極端な話、下手でもなんでも良いのだ。自分の中に何があるのか、何が眠っているのか、何が埋もれているのかということにこそ興味があるし、その結果、出てきたものが魅力的だったりした場合には、これはもう万々歳で、筆舌し難く嬉しくて、嬉しさのあまり部屋に飾って、何度も何度も繰り返し繰り返し眺めずにはおれないのである。
と、まあ長々と書いてしまったが、要するに俺が言いたいのは「阿仁真里ってちょっと乙葉に似てね?」ってことなのです。
無意識箪笥
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