俺は一芸に秀でている。しかし九芸に劣っている。実にバランスの悪い生き物だ
正直、俺は前回のライブ中にも話したように、和田一憩という人間は天才だと思っている。音楽も絵も文章も独学で、さらに「独学」と呼ぶのも気が引けるほどに学ぶということを一切せず、ただヘラヘラ笑いながら誰ともかぶらない音楽や絵や文章を描けてしまえてるというのは、これはもう天才と言わずして何と言うのか?くらいに思っている。にも関わらず同時に、不思議なくらい冷静に、冷酷に自分のそういったおめでたい自己分析に対して「だからどうした」とも思っている。
かのレノンも子供時代から自分は天才だという自覚があったらしく、「僕が紙の断片とかに書いた詩や絵は捨てたりしないほうがいいよ」などと言っていたらしい。実に生意気なガキだ。でも俺も子供の時、同じようなことを思っていた。「ここ(伊丹最北端)はそのうち観光客でいっぱいになる」なんて思っていた。
俺は子供の時からコンプレックスの塊だった。他人が普通に、何の苦もなくできることが自分にはできない。自分が人一倍できることというのは決まって他人ができないこと、要するに他人が好き好んでやろうとはしないことに限るということを子供ながらに良くわかっていた。このコンプレックスが皮肉なことに「俺は天才だ」と思う何よりもの土台になった。これだけ病的に能力が偏っているというのは選ばれた人間だからだ!という解釈。そうでも思わないと生きづらくてしょうがなかったのである。
気付けば32年の永きに渡って、一芸はちっとも実を結ばず、金にならず、天才は自称と自嘲の境を低空飛行し続けるより他なく、「だからどうした」という言葉をこれっぽっちも拭えぬままにこんな所まで来てしまった。こんな遠くまで来てしまった。一芸にしか秀でていないにも関わらず、その一芸において食っていけない自分というのは一体何なんだろう。「天は二物を与えず」と言うが、このままでは俺は一物も与えてもらえなかった残念な人みたいな事になってしまう。せめてもう一つ芸があれば、自分と自分の作ったものを売り込む能力みたいなものがあれば、自分は自分の人生はだいぶ違ってたろうになと思う。しかしながら俺にはそんな能力はおろか、気力さえ元々持つ気がない。
「ランプは必ずテーブルの上に置かれる」という言葉をうちの親父がよく口にしていた。本物はいつか必ず持ち上げられるということだ。俺は今までずっとこの言葉を信じてきた。これから先も信じていくんだろうと思う。ここまで来たらもう信じ切るしかない。
俺はただ自分が大器晩成型のランプ、略して『デカイランプ』として生まれてきたであろうことを祈るのみだ。もしそうじゃなかったら...そんなことを想像してへこむ能力さえも俺にはない。
ないないない、ないもの尽くしの俺。でも一個だけ俺は確実に持っていて、そのたかが一個がために俺は生きるということになかなか諦めがつかんのだ。
レノンは自分の作ったものに食わせてもらえていた。カートも自分の作ったものに食わせてもらえていた。ジャニスもヘンドリックスもモリソンもみんなそうだ。にも関わらず死んだ。贅沢三昧か。俺にはそんな「それでも..」な苦悩がわからない。全くわからない。わかりたくもない。わからないまま生きてやる。これはこれでロックだろう。
ロックンロール!
ブログ100本到達記念『告白』
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