今までにも何度か書いたことだが、俺は、俺という人間は能力的に大きな偏りがある。バランスがめちゃくちゃ悪い。だから、目の前にラインを引かれて、「ライン上を真っ直ぐ歩け」と言われるほど辛いことはない。「あれ、あれれれれっ」などと情けない声を上げつつ、ラインから大きく外れて左だか右だかに進んでいって、電柱的なものにぶつかって倒れて、倒れる際に柔道の受け身的な動作をしてどや顔で立ち上がるのがオチだ。
でも、ま、それはそれでいっかと思う。少なくとも希少価値はあるだろう。世の中には見た目的にも機能的にも何が良いんだかさっぱりわからない骨董品が何百万何千万もするケースがある。壺として機能しない壺が壺の中の壺だったなんてことだってある。わかる人にはわかる。わからない人にはわからない。でもこれっぽっちもわかりたいと思えないし、そもそも「わかる」などと言う人が本当にわかっているのか、何を基準に「わかる」と言っているのかさえわからないし、わかりたくない...世の中にはそんなものがたくさんある。
はっきり言って俺はガラクタだと思う。でも、今はそれを悲観的には捉えていない。世の中にはガラクタフェチがいる。確実にいる。そしてそういう人たちは自分のそんな感覚を一切恥じることなく、誇らしげに語る。「アンタらにはガラクタだろう。でも俺にとっては違うんだ」って思ったり言ったりすることに極めて個人的な贅沢を感じている。
素敵なガラクタでいたいと思う。頑張っても頑張ってもガッタガタのグッチャグチャのウッダウダだったら、それはそれで奇跡の産物。素敵じゃないか。
きっと誰かが気に入ってくれる。ガラクタにはガラクタのプライドがある。ガラクタはただただ存在することに必死こくだけだ。存在しなくなった時に全てが終わる。でも存在さえしてれば、常に可能性は残されている。
さあ、必死こいて生きるぞ!
ガラクタ音頭〜壺として機能しない壺の中の壺
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