摘希は「馬鹿とヒラヒラだ」と思った。
馬鹿とヒラヒラの1メートルほど前、人だかりの最前列、輪の中央では白の中にピンク色がぐるぐるしている直径8センチくらいの丸い飴をなめている鼻水を垂らした幼い女の子が体育座りをしており、他の「客」はその女の子からさらに1メートルほど離れたところで腕組みなどして立ち、馬鹿とヒラヒラを眺めていた。
芸が始まった。それは、平和で退屈な日々を送る善良な人々が「憩いの場」と呼ぶ退屈の根元に突如として現れた、わからない人には勿論わからないし、わかる人にもわからない前衛的過ぎる「アート」の「ー」の字を地で行くかの如きものであった。
斬新過ぎて訳がわからない。正直、斬新なのかどうかさえわからず、ネタと呼べるのかどうかさえわからないネタらしきものが蠢くように進行らしきものをすればするほどに「客」はこれが芸と呼べるのかどうか、漫才と呼べるのかどうか、夫婦と呼べるのかどうか、果てはそんなこんなってどんな?を目の当たりにしている自分自身の在り方に自信があったのかなかったのかさえもわからなくなってきた。
「ー」な夫婦漫才は終始、こんな感じだった。電源の入っていないただ置いてあるだけの無意味なセンターマイクがあり、その向かって右側で旦那がずっと笑うか泣くかしている。たまに、笑いながら泣いている。そして訳のわからないタイミングで突然無表情に黙ったりもして、そこにリズム感的なものは皆無。一方女房はセンターマイクの真ん前に仁王立ちし、涙と鬼の形相を同時に浮かべつつ両手で両耳を塞いだり塞がなかったり塞いだり塞がなかったりを繰り返しながら延々、「あーーーーーーーーーーーーーーーー」と言っていて...で、そう、ただこれだけ。本当にただこれだけ。これが実に1時間もの間続いたのである。
ジャスト1時間。1秒の狂いもなくジャスト1時間が経過したところで、旦那が突然くわっと目を見開き、マイクを全力で地面に叩きつけ、女房共々「客」に礼も述べず、各々別々の方角に立ち去ると、そこには丸い飴のピンクのぐるぐる部分だけをなめ終えた女の子と、摘希の二人だけが残された。飴の女の子は体育座りのままゆっくりと後ろの摘希の方を振り返り、先程まで馬鹿とヒラヒラが立っていた場所を指差して「何?あれ」と言った。
摘希は涙を拭い、嗚咽を堪え、必死に笑顔を作りながら答えた。
「思い出だよ」
短編小説『つみき』(後編)
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