「これ見て」とか、「これ読んで」とか、「これ聴いて」とか言って、姿は見えないけれど、俺の手をひいて、俺に何かを教えよう、気付かせようとしてくれてる存在を感じる。
〈1〉数ヵ月前。それこそ大阪にいた時分から、俺はなぜか無性に吉田拓郎を聴きたいと思っていた。で、つい先日、うちに「本」と、マジックで書かれた段ボール箱を発見。開けてみたら、芥川龍之介やら、ドストエフスキーやら、ニーチェやら、とにかく、いっぱい本が出てきた。俺の親父と、親父の亡くなった妹さんが昔読んでいた本の数々らしいのだが、俺の目は、その中の2冊の本に被せられた、手作りのブックカバーに止まった。雑誌のページを切り取って拵えたらしいブックカバーで、このブックカバーにある写真が、若かりし日の吉田拓郎だったのである。亡くなった親父の妹さんは吉田拓郎の大ファンだったらしいのだ。
これは明らかに「聴いてみたら?」ということなんだろうと思って、今日、近所のレンタル屋で3枚組のCDを借りてきた。
本当に素晴らしい。かっこいい。特に「人生を語らず」とか、「知識」とかは筆舌し難く素晴らしい。
俺は今まで、太宰治の文学も、吉田拓郎の音楽も、ロクに知らずに生きてきたんだなと思って、それを、自分の人格や夢に照らし合わせて考えると、「そらアカンわな...」と思った。
〈2〉最近、これまでブログに書いてきた文章の中でも、特に気に入ってるものをいくつか厳選して、普通のノートじゃなくて、「何も書いていない本」みたいなしっかりしたものに、書き纏めてみようというアイデアが自分の中にあって、近所の百均屋や文房具でそれらしいものを探したのだが、結局見つからなかった。が、段ボール箱から吉田拓郎のブックカバーと一緒に発見されたのは、なんと、何も書かれていない、白い本だった。これには本当に驚いた。親父によると、これも妹さんのものらしい。「これに書いたら?」声が聞こえたような気がした。
〈結び〉今現在、生きながら、「死ね!」などと平気で言う人もあれば、今はもういない、亡くなった後もなお、優しく、導いてくれる人もあるんだということを思い知った。
導き
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