「アルファベッツにはギリギリ感があったけど、リプライズにはギリギリ感がない」と言われたことがある。言わんとしてることは痛いほど良くわかるし、その違いがそのまま、両バンドの評価の差となって表れたんだろうな、とは思う。
でも、その「ギリギリ感」なるものに関して、俺個人のことを言わせてもらうと、俺はアルファベッツの頃なんかよりずっと、後期リプライズでのライヴの時の方がギリギリだった。自分の書いた歌詞がいちいち胸に突き刺さって、涙が出てきて、まともに歌えなかった。特に『モナリザ』の中の「血も涙もない君の力を信じてる」という部分は、歌っていると、心の奥底からものすごいスピードで、猛烈に込み上げてくるものがあって、歌うに歌えなかった。だから、もし俺に「ギリギリ感」を期待するんなら、アルファベッツよりも、後期リプライズのライヴにこそ足を運んでもらいたかったと思う。でも、実際は、あまり誰も観に来なかったね。もったいない。
俺のギリギリ感は、リプライズ解散後、ソロに転向するとさらに増していった。『モナリザ』だけではなく、ほとんど全曲、涙が出てきて、声が詰まるようになってきた。曲と自分の間に距離感がなくなってしまったように感じたが、ライヴが終わると「これが歌だ。これが歌うということだ」と思って、納得はできた。でも、妙に疲れるようになった。
今、もし、ギター一本持って、ステージに上がったとしたら...と思うとゾッとする。でも、その辺の歌うたいが、いかにぬるいのかということについては証明してやれる自信がある。
上手下手の問題じゃない。音楽で吐き出すという行為がないと生きていけない人間の声と、音楽で吐き出すという行為がなくても、別段、生きていくに困らない人間の声というのは似ても似つかないもので、「歌」の真価はこの部分でもって問われるべきだと思う。
歌わなくても生きていける奴の歌なんて聴きたくもない。
回想歌唱回廊
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