ぶつぶつぶつぶつ、詞を考え、何か思い浮かぶたび口ずさみながら立ち寄ったとある中古CD屋でミスチルの「NOT FOUND」のシングルを購入した。
俺のこの曲に対する思い入れの程は以前にこのブログにも書いたが、しっかしまあええ曲やな、ホンマにええ曲やな、と思う。心から「やられた」と思う。
ちょっと前、うちの職場で飲み会があって、その後、二次会的にカラオケBOXへと突入したのだが、俺はその場で上司を目の前にこの「NOT FOUND」を熱唱。曲への思い入れが思い入れなだけに感情が入りに入ってしまったが意外や意外、引かれるということは一切なく、普通に「イエー!最高!」などと実に快活な拍手をいただいた。というのも、その場に居合わせた上司、先輩、皆が皆、キリキリと心を込めて歌い上げるタイプの人たちだったからである。
そんな環境下、ここぞとばかりに俺は歌った。こんな環境下じゃないと絶対に歌えないレノンの「イマジン」をキリキリと歌いあげた。上司、先輩を含めて皆さんちゃんと聞いて、一緒に歌ってくれた。
たったこれだけのことで、なんて良い職場なんだろうと思った。
次のライヴ。セットリストがまだ決まっていない。オリジナル40曲の中から厳選に次ぐ厳選。さらに今まで演ったことのない曲をカバーも含めて一曲でも多く!と思っているからゆえになかなか決らない。
そんな中で、大昔に書いた曲。それこそ「ドライフラワー」や「M&M」と同時期、いや、それよりもっと前に書いた曲で、詞は最低だがメロディが最高って曲を思い出した。もしこれに素晴らしい言葉が乗れば一発で俺の代表曲になりそうな勢いの自画自賛、素晴らしいメロディだ。
今日は晴天。そして休日。今から外に出て、この曲に見合う言葉を探しに行こうと思っている。
全身全霊で言葉を探す。持ち帰った言葉を細心の注意と遊び心でもって紡いで、『詞』の域まで高めていく。この作業、何年振りだろう。
20かそこらの自分が書いたメロディに、33の自分が言葉を乗せる。感覚的には「共作」に近い。「創る」ということの言うに言えぬ緊張感と愉しさを今まさに思い出しつつある。
めちゃくちゃウキウキする。
そうだ。そうだった。思い出した。
どんな場面においても、俺が大きく伸びる時というのは、俺の中に強烈な尊敬の念がある時だ。「この人みたいになりたい!」という強い気持ちが大黒柱の如き心の軸、非常に感度の良いアンテナのようになって、俺を大きく成長させてくれる。個性みたいなもんは後からついてくる。嫌でもついてくる。
物事には段階がある。今はただ尊敬の念に身を委ねて、パクれるもんは片っ端からパクって、いずれ花咲く我が個性の為に丈夫な土壌を拵えよう。
頭の中のどこか一ヵ所だけでも、成長への過程を楽しめたら、それはものすごく幸せなことだ。
中学の頃から好きだった。でも当時の俺は「なぜ好きなのか」と問われたとしても返事に困ったと思う。頭より先に身体が理解を示した感じだったからだ。
以降、現在に至るまでの20年間、それに触れたくなる時期が定期的不定期的に必ずやって来ては「お、来たな!」などと喜んで、無用心に迎え入れては無警戒に触れて、触れるたびに頭でも理解できるようになって、歳をとるごとに着実に好きになっていって、気付けば手に負えないくらい大好きになっていた...底の見えない不思議な魅力。
そんな音楽。そんなバンド。
U2。俺を支える六頭目の虎。
坂本竜馬好きとは友達になれない。
先程、目を閉じてあちら側へ行き、以前、書込寺が建っていた場所に『斜呉箱(しゃくればこ)』という箱を設置してきた。用途は以前の書込寺と同じ。このブログの愛読者の皆さんに何でも良いから自由にコメントを寄せていただくためのもので、『斜呉箱(しゃくればこ)』という名称は「受け口」という意味である。
数ヵ月前、とある旧友が酒の席で「あんたのブログはコメントしづらいよ。極めて」と言った。俺が「書込寺もか?」と尋ねると「そや」と彼は答えた。書込寺自体はその数日後、事業仕分けの憂き目、蓮舫女史に「要らん!」と一喝されてやむを得ず炎上させたが、その後も俺の頭の中には「なぜ俺のブログ及び書込寺はコメントを寄せづらいのか?」という疑問が残っていた。
考えに考え抜いた結果、「無理もないか」と思った。そう、一度でも書込寺にコメントを寄せてくれた=参拝してくれた人ならよくご存知だと思うが、要するに書込寺が近寄り難い程に豪箸過ぎたのである。
総工費18億6千5百万の鳳凰造り。生まれてこの方、重要文化遺産に認定された建築物と自らの股間以外はいじったことがないと豪語する職人の中の職人39名に依頼して建立した『書込寺』は愛読者の皆さんの純なコメント意欲をかきたてるにはちと威圧的過ぎたのである。
で、そんなこんなを踏まえての『斜呉箱』である。総制作費380円。ティッシュの空き箱を紫色の画用紙で包み、そこに以前、三ノ宮の高架下で買ったオアシスのステッカーを貼っただけのもので、箱を持ち上げて底を見ると、実に稚拙な字で「一憩の」と書いてある。
シンプルにして純。これなら皆さん馴染みやすいだろう。書き込みやすいだろう。有頂天になって鼻水をたらしながら設置してみたがどうでしょう。あなたは何らかのコメントを寄せてくれるだろうか。楽しみにしています。
コメントを寄せる期限は書込寺の時同様、このブログに『斜呉箱』の表示が出てから一週間とします。従って、初回に当たる今回は3/21(日)まで。
内容は問いません。俺への質問でも、あなたのひとりごとでも、本当に何でも良いのでよろしくお願いします!
このブログを含めた『表現の場』以外では俺はもう何も言わない。喋らない。
子供の頃から現在に至るまで「言わなきゃ良かった..」の連続だ。
墓穴しか掘れないスコップなんて要らない。
俺とは比べものにならないくらい言葉の使い方を知らない人間に限って、俺とは比べものにならないくらい言葉に絶対の信頼を寄せている。
訳のわからない圧力。見渡す限り黒船黒船黒船。
鎖国。
年に4回くらいで良い。それこそ四季の移り変わりのようにごくごく自然な形で楽しい夢のある変化が日常に彩りを添えて、それを楽しんだり、楽しみに待ったりしながら生きていけるというのであれば、人生はなかなかに楽しいものだと思う。
「楽しみに待つ」ということは本当に素敵なことだ。
最近、自分の中で強烈に不安だったり、恐怖だったりするのは、物事が「連綿と続く」ということだ。上昇することも下降することもなく、ひとつの流れが地を這うように重く、匍匐前進の如くに「連綿と続く」ということだ。これが怖くてしようがない。
逃げる気はない..つもり。いろんなことを許される限りの時間をかけて、じっくり自分なりに必死こいて克服していこうとは思っている。思ってはいるが、現実には何一つ克服出来ぬままに、「克服せねば」という葛藤の日々だけが連綿と続くんじゃないか..という恐怖自体がこれから先連綿と続くんじゃないか..という不安で胸がいっぱいで、何か物凄く表現し難い今まで味わったことのない孤独感でいっぱいで、二足歩行、歩いていてもちっとも顎の上がらない今日この頃なのである。
布団の上を虫が這う。
あと何年生きねばならんのだろう。
例えば道行く人に突然「楽しいですか?」と問おたとして、「ハイ!」と快活に答えられる人っているんだろうか。
人間ってドMだ。どいつもこいつもドMだ。重症だ。ただ、「例外は許さない」という姿勢。「ドMにあらずは人にあらず」的にお互いを監視し合って、疑わしきは罰するという姿勢においてのみドSだ。タチが悪いにもほどがあるだろう。
人間は、特にいい歳をした大人は、もっとちゃんと遊ばなアカンと思う。
例えば車のハンドルには遊びの部分というのがあるが、人間の心にもそんな遊びの部分が必要だと思う。人の優しさを語る時に心の余裕ってのは避けて通れない要素だろう。生きることに余裕の感じられない人に優しさを施されてもこちらとしては気を使うだけだ。だから俺は人の優しさって「寄り道」なんかを含めた遊びによってこそ培われるものだと思っている。
もし俺がアンパンマンだったら、巡回に回る際にはジャムおじさんに頼んで子供たちに配る用のパンを顔とは別に持たせてもらう。で、その手持ちのパンが品切れた場合にのみ自分の顔を分け与えると思う。「気ぃ使わせてごめんね」と言いながら。
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