大阪在住のうたうたい&絵描き&詩人 和田一憩(わだいっけい)のブログです。最新情報も随時配信していますので要チェック!!です。 携帯サイトはコチラ

普段は基本的に頭の中が言葉でいっぱいで、下手すりゃそのうち耳とかから垂れて出てくるんじゃねえか?ってなことを思ったりもするくらいなんだけれども、人に会って大いに語り合った日の翌日と、大好きな作家さんが著したグレートな本を読んでいる間だけは頭の中が「いや、あの、実は、私、一昨日の朝から何も食しておりませんで...」みたいな感じになって、もし、この感じを引き摺ったまま偶然にも大好きな『餃子の王将』の前を通りかかってしまったりなどしてしまった日にゃ、それこそ金も無いのに無抵抗に吸い込まれるように店の中に入ってって、餃子9人前とか注文しちゃって、自分の感じているこの飢餓感が胃の問題ではなく頭の問題だということに気付くのはたぶん、3人前くらい平らげた後のことで、こうなるともうテーブルの上に居並ぶとてもじゃないが食い切れない6人前もの餃子は威圧感の塊、36人編成の暴力団といった風情で、俺はただ茫然自失として言葉を失うか、逆に、発狂したかのように爆発的に笑いだして周囲の善良な市民の方々に大いに気持ち悪がられるだろうとは思うが、そもそも、一人で餃子のみを9人前も注文している時点で結構気持ち悪がられるだろうことは容易に察しがつくがしかし、世の中には一人で10人前くらい余裕で食ってしまえる人もいて、恐ろしいことこの上ないが、恐ろしいことこの上ないからといってあれが、ああいう人たちが暴力団組員というわけでは決してない。

おぎやはぎが大好きだ。

言えたら描かない。

言えたら歌わない。

言えたら書かない。







上記3行は『詩』でもなんでもありません。俺が長年に渡って引き摺ってきた想いを端的に言ってみただけのことです。でも、ひょっとしてこれに関しても、この単純な3行の意味に関しても、わざわざ説明しなければならないのでしょうか?

俺は詩人ではありません。めちゃくちゃ畏れ多いです。俺はただ、詩人と呼ばれる人たちに対してかなり漠然とはしているけれども強い憧れの気持ちを抱いているだけの人間です。

でももし、冒頭の3行にさえ解釈に難儀して、或いは誤解して、とりあえず何だかよくわからないから『詩』と呼んで、さらに説明を求められるようなら、俺は詩人になんてなりたくもありません。

詩人はガイジンではありません。可哀想です。

厳密に言うと「黙れません」。

世の中には、何かを熱く語っているようで実は何も語っていない人もいれば、逆に、一見何も語っていないように見えて実は熱く語っている人もいます。

実のない言葉はただの声で、ま、声ならまだ全然マシな方で、実のない言葉のほとんどは声と呼ぶのもおこがましいただの音かと思われます(「声」という言葉は使い方を心得ている人間が用いるとめちゃくちゃ詩的な響きをするものだけに、馬鹿が安易な使い方をするとたちまちその馬鹿っぷりを露呈してしまうことになってしまうので取り扱い注意ですね)が、人の言葉を無配慮下品に遮る分には、別に言葉や声でなくとも音で十分事足りると思いますが、俺は自分の言葉を遮られるというのがもう本当に我慢ならないのですが、かといって黙るわけにもいかず非常に狼狽するところではありますが、俺の言葉はちゃんと言葉、もしくは声であると自負しておりますので、ご安心ください。といった言葉遊びもたまにはいいでしょ?

33にもなって、ポジティブな姿勢や思想や表情をギラギラと放ちながら生きている人がいたら、それはそれで立派に病気だと思う。

普通に見る目があって、普通に考える頭があって、普通に自分の言葉を語る口を持っていれば、世の中や人生や人間に対して恐怖心や不安や懐疑心を抱くのは当たり前のことで、どちらかというとその方が健全なことなんじゃないかと思う。





でも同時に、世の中は、人生は、人間は決して捨てたもんじゃないのかもしれないな、とも思う。それどころか結構輝々とした素晴らしいものなのかもしれないな、とも思う。

目や頭や口を放棄しさえすれば。

自己否定的な考え方を払拭するためには、誰かの手助けをして喜んでもらうのが一番の近道だ。

自分は誰なのかというしっかりとした認識と、自分は生きているという地に足のついた自覚と、自分は生きたいという明確な希望がある人の手助けができたら最高だと思う。

俺は罪を償うようにして生きていくことになると思う。でも、だからと言って罪悪感の塊みたいになって、心から笑うということができないような生き方はまっぴらごめんだ。

自分の分をわきまえながら、でも決して小さくならず、何らかの形で誰かの手助けをすることで罪を償って、それでも楽しいものは楽しいし、楽しいって思えることは最高に幸せなことなんだと声を大にして言える感性を維持しながら生きていきたいと思う。

〈起〉介護施設で働く為に資格が必要で学校に通った。4ヶ月間、一緒に勉強をした人たちの中に70代のおばあさんがいて、他の誰よりもイキイキとしていた。

〈承〉老人施設で働く中で、自分の中の老人観が大きく変わった。重度の認知症の人を、「人」と呼べるのかどうかについて、めちゃくちゃ考えた。介護職の人間がこんな疑問を抱くこと自体間違いなのはわかっていたが、考えずにはおれなかった。そして俺が最終的に出した答えは残念ながら「人とは呼べない」だった。

〈転〉人が何かを始めるのに「遅すぎる」なんてことはないと思う。どの地点をもって「遅すぎる」などと言えるのかわからないくらいに人生は短いし、人は人でなくなってしまった後もなお、生き長らえてしまう場合がある。

〈結〉過去があるから現在がある。でも、現在がなくて過去だけがあっても未来はない。ある意味、過去なんてその程度のものだ。縛られたければ縛ってもらえばいい。亀甲縛り。ギッチギチに縛ってくれるでしょう。でも、縛られたくなければ「いりません」ってハッキリ言やあいい。無理に縛ろうとはしてこないでしょう。

聞く耳を持たない人に対しては喋る口を持たない。

以前にも書いたかもしれないが、「諦める」というのは仏教では「明らめる」で、「明らかにする」という意味があるらしい。

「自分は自分でしかない。自分以上でも自分以下でもない」という岡田武史氏の言葉は考えさせられる。

無理に自分以上であろうとすると、劣等感と無縁ではおれず、アルコールや薬物に手を出すようになることもあるだろうし、逆に自分以下にまで自己評価を落とし込むと、羞恥心と無縁ではおれず、引きこもり的なことになってしまう。

だから「自分は自分だ」というのは良い意味で「諦め」なんだと思う。自分を見上げることも、自分を見下すことも諦めて、自分を明らめて、明らかにすることなんだと思う。

番組の最後を岡田さんは「私は弱い人間です。でも、それが私です」という言葉で締めくくっていたが、これは、この言葉は、この考え方は、いわゆる一つの「悟り」なんじゃないか?と思った。そして、こういう人を「強い人間」っていうんじゃないのか?と思った。

昔から「人間、諦めが肝心だ」という言葉が大嫌いだった。大嫌い「だった」。

今はもうアルコール依存の治療は受けていない。俺の場合はアルコール依存によるうつじゃなくて、うつによるアルコール依存だということなので、うつの治療に専念している。主に日没時や雨降りの日なんかに起こる強い気分の滅入りを薬でコントロールしながら、週に一度のペースで通院している。

今、一番辛いのは食べ過ぎると気分が悪くなるのと同じで、頭の中が言葉でいっぱいになって気分が悪くなることで、これも薬の種類や量を色々と変えてみることでコントロールしている。

病院からは「睡眠障害を何とかしないといけない」と言われていて、次の通院時には睡眠障害の専門医に診てもらうことになっている。

一番の問題は問題が自分の内だけではなく、外にもあるということ。でも、とりあえず今は、答えが出ないことをわかっていながら無闇やたらに考えるという無駄なことはやめて、自分の中のギアをニュートラルにしておくことを何よりも優先している。

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プロフィール

いっけい

ビートルズ好きの両親の元、ビートルズを子守唄に育ち物心が付く前から音楽に慣れ親しむ。
学生時代からいくつかのバンドを結成し関西を中心にライブに明け暮れる。
現在はソロでの音楽活動に加えイラストも手掛けるマルチアーティストとして活動の幅を広げている。

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