大阪在住のうたうたい&絵描き&詩人 和田一憩(わだいっけい)のブログです。最新情報も随時配信していますので要チェック!!です。 携帯サイトはコチラ

そうか、そういうことか。と思った。

例えばジョン・レノンは「問題に対する答えは、その問題とは全く別のことを考えている時に浮かぶ」と言っていた。

例えば北野武は「2つのことを並行してやる。振り子みたいに2つの間を行ったり来たりすることで面白いものができる」と言っていた。

最近ダラダラ考えていたことにちょっとだけ答え的なものが出た。

夢世界と現実世界を別々のものとして捉えずに、2つの世界の間に壁を拵えずに、合体、融合させて一本のレールの上にポンと置いてやるような生き方ができれば今より随分楽に楽しく生きていけるのではないか?ということを思ったのである。現実世界に夢世界のものを持ち込んで、夢世界に現実世界のものを持ち込んで、実際には2つのことを並行してやってはいるが、自分の中で意識しているレールは一本。この感覚を時間をかけて自分の中で熟成させていこうと思う。

ちょっとだけ「見えた」気でいる。

ごめん。中山秀征が好きになれない。

萬田久子ってブサイクだ。

昔から俺は何かと擬人化する癖がある。この癖、自分らしくて気に入っている。

小学生の時、俺はサッカーが好きだったのだが、自分の中で燃える試合が翌日に迫ると風呂場で、浴槽の中で、効き脚である右脚に「明日、頼むで!」などと話かけていたし、音楽をやり始めたらやり始めたで自分のギターに名前を付けては愛でてきた(例えば、リプライズ後期に使用していた黒いレスポールは「ドロンジョ」と呼んでいた)。

この癖は今も治らない。気に入ってるんだから治す必要はないわけで、今、俺は自分の左腕を「西山さん」と呼び、右腕を「村本さん」と呼んでいる。西山さんも村本さんも女性で、仕事上の尊敬すべき大先輩であり、ごく短期間の内に二人との直接的な関わりはなくなってしまったが、それでも俺がこの二人に出逢って得たものは計り知れないものがある。

西山さんは職場で出逢った。いつも目がキラキラしていた。身体が小さく細かったが、多分に肉体労働的な要素を含むこの職業を流れるようにこなす凄い人だった。俺はその流れるような動きを見て心ひそかに「南斗水鳥拳の西山さん」と呼んでいた。一方、村本さんは実際に先生として、俺にこの仕事のやり方、考え方を教えてくれた人で、かなりシリアスな事柄について語る場合にも「ま、私みたいなもんが言うのもなんやけど」的ニュアンスがあって、いつも砕けた感じの物言いをしたが、その根底にはいつもこの仕事に対する深い深い愛情が見てとれて俺はこの人の授業が大好きだった。柴田理恵を少し可愛くした感じのガッチリした体格の人で、プライドと愛嬌が絶妙に絡みあったような独特なオーラを放っていた。

今、仕事帰りの電車の中でこの文章を書いている。今日も右腕(村本さん)と左腕(西山さん)は俺の一部として頑張ってくれた。

次のライヴで俺はもちろんギターを弾くが、その際、コードを押さえるのは西山さんで、ピックを持ち、弦をかき鳴らすのは村本さんである。ほんのつかの間ではあるが、西山さんと村本さんに仕事のことを忘れていただいて、ジョン・レノンやノエル・ギャラガーのいる俺のフィールドに案内して差し上げようと思っている。

コメントありがとう。一緒にバンドをやってた時同様、選曲に苦心しております。何しろ40曲の中から5曲選ぶわけやからね。

剣吾くんで思い出したけど「クリスティン」って曲もあったねぇ。検討します。

それにしても「弾き語り」。この貧乏臭い名称何とかならんのだろうか。何故「語り」なのだろうか。うたうたいは歌うのであって叫ぶのであって囁くのであって、断じて「語る」のではない。もし仮に、南こうせつが素人目にも高級そうな例のアコギを自慢気に撫でるように弾いている前で、瀬戸内寂聴がイヤらしい笑顔を浮かべつつ「私も平民」などと仏教について語っておればこれは、この気持ちの悪いコラボは、「弾き語り」だと思う。

あれ?いや、違うな。これは「パンク」です。この気持ちの悪いコラボの場合はラモーンズ以来とも言える純度100%のパンクであって、「弾き語り」の真逆を行くものです。

じゃあ「弾き語り」って一体何なんだ?例えば誰がそれをやってるんだ?と熟考した結果、頭に浮かんだのが長渕剛、その人である。彼こそが「弾き語り」そのものである。ソロ形態であろうがバンド形態であろうが、形態に関わらず、彼こそが「弾き語り」である。

まず彼は音楽がさほど好きではないに違いないので、生まれてこのかた音楽らしい音楽を聴いたことがないに違いない。したがって、メロディというものがわからない。「メロディ」はスイス在住の小さな女の子か何かの名前だと思っている。しかしながら彼はカリスマ。説教がしたい。で、気が付けば一撃Tシャツを着て、南こうせつよりも高そうなギターを「壊れろ!」などと叫んで無闇にかき鳴らしながら、たまに瓦などを叩き割りつつダラダラダラダラ説教をしている。そんな熱血漢、長渕剛。かれこそが「弾き語り」で、彼のやってるようなことが「弾き語り」である。





弾き語るくらいなら死んだ方がマシだ。

リクエスト、感謝します。

「ストーカー」ときましたか。「ドライフラワー」と同じく生誕10周年を迎える、制作した記憶の一切ない、一瞬の閃きから生まれた、自画自賛、疑いの余地無き名曲です。が、申し訳ない。結論から言ってこれは十中八九演らないと思います。なぜならこの曲をアコギ一本スタイルで演るというのは、よっぽどのアレンジが浮かばない限りダダスベりに終わる可能性が極めて高いからです。俺が書いたものの中でもこの曲だけはバンドサウンド無くしては表現不可かと思われます。

「ストーカー」に頼らなくとも、ロックなライヴになるよう最善を尽くします。大丈夫。俺は「弾き語り」をする気は毛頭ございませんから、はい。

やっぱりオアシスだ。最高だ。文句のある奴はかかってこい!

先日、彼らのファッキン・グレートなニューアルバム、聴けば聴くほど味が出るいわゆる「スルメ盤」の中のスルメ盤、早い話が傑作、「ディグ・アウト・ユア・ソウル」から3枚目のシングル「フォーリング・ダウン」が発売された。2曲目に新曲が収録されているがこれはまあどうでも良い。正直、「あれ?」だ。が!3曲目と4曲目が凄い。もの凄い。両方ともタイトル曲「フォーリング・ダウン」のリミックスなのだが、これがもの凄いことになっている。特に3曲目は20分にも及ぶ、正当に評価されればリミックス史上に残るであろう大作で、聴く人の血と肉をかき混ぜて、そうやって20分の長きに渡ってかき混ぜておきながら最終的に便器に叩き込んでおるかのような恐ろしくもの凄い出来。そして4曲目は一転して極めてシンプルなギターロックアレンジ。サイケ色の強い原曲からサイケ臭を取り払って、シンプルなバンドサウンドに仕上げていて強烈にカッコいい。

このブログの愛読者の中にもオアシスファンの一人や二人はいるだろう。

買いましょう。聴きましょう。死にましょう。

リクエスト、ありがとう。ここにコメントを寄せるというのは想像以上に勇気と根性を要するものらしいのに、あなたはそれをやってのけた。あなたの勇気と根性に心からの賛辞を送ります。





ドライフラワー。この曲を書いたのはたしか22歳の時。当時、俺は数年間に渡って過去の恋愛を女々しく引きずっておって、「終わっても美しい」もしくは「終わったがゆえに美しい」といった意味を込めてこの極めて痛々しいラブソングに『ドライフラワー』なるタイトルを付けたのであった。この曲はバンドを本格的にやり始めた頃から特別人気が高かったので今まで数え切れないくらいの回数演奏した。にも関わらず、奇跡的に、俺が部屋に立てこもってアコギ一本で書き上げた瞬間の形から一切アレンジが変わっていない、いわば一憩度100%の曲である。

10年前に書いた曲がリクエストされるというのはとても感慨深い。「ドライフラワー10周年」か。やるかもしれんな、これは。

久々のライヴ。持ち時間25分なので、5曲できるな。と思っております。

リクエストがあれば寄せてください。

やるかやらんかは別として考慮します。

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プロフィール

いっけい

ビートルズ好きの両親の元、ビートルズを子守唄に育ち物心が付く前から音楽に慣れ親しむ。
学生時代からいくつかのバンドを結成し関西を中心にライブに明け暮れる。
現在はソロでの音楽活動に加えイラストも手掛けるマルチアーティストとして活動の幅を広げている。

いっけいの楽曲が聴ける!! MySpaceはこちら

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