大阪在住のうたうたい&絵描き&詩人 和田一憩(わだいっけい)のブログです。最新情報も随時配信していますので要チェック!!です。 携帯サイトはコチラ

今の自分の状況。生活。

2点だけいつ終わるんだかわからないという不安にまみれた本当に耐え難い、辛い部分がある。

一つはとある人物への異常なまでの恐怖心。怒り狂っている顔を声を思い浮かべるだけで、手が震えて、疲れがドッときて、身体が動かなくなってしまう。

もう一つは以前も書いたが、酒を呑まないと音楽が、ロックが全く聴こえてこないということ。それはまるで3Dのテレビが目の前にあるのに、それに対応する眼鏡が手元にないといった感じで、聴いていても悲しいくらい気分が高揚しない。

この2点だけは本当に辛い。本当に本当に辛い。

世間に「残念」の刻印を押されたとしても、ま、どうってことないか。自分で自分に押すのと比べれば屁でもないやね。

ここに至った過程がどうであれ、今まであんなに欲しがっていた「自分の時間」が持てるようになったら、今度はその時間の使い方に困惑している自分がいる。

それは例えば、駄菓子屋の前に立っている子供。いつもなら数あるお菓子の中から1個か2個を厳選せざるを得ないくらいの微々たるお小遣いしか持たされていない彼が、今日に限ってどういう風の吹き回しか「今日は特別に」と親がいつもよりかなり多めにお小遣いを持たせてくれた場合に、突然選択肢が増えるという慣れない状況の中で、一体何を買えば良いのか、自分は一体何が欲しかったのかがわからなくなって、結局何も買わずに家に帰って親にお金を返してしまう...みたいな感じとでも言おうか。

昨日、その辺の事をよくよく考えてみようと思って、『立ち止まる』ということの重要性を説いた本を買ってきた。

現代人は習慣的に気が付けば急いだり焦ったり、とにかく「何かせねば」という強迫観念にかられてしまうが、自分自身のことや周囲の状況をしっかり理解しようとすれば「立ち止まる」ということが、立ち止まって何もしないということが、次にいずれかの方向に向かって歩き出す場合にいかに重要かということが書いてあって、中でも次の文章には「なるほどな」と静かに唸らされた。

「緩やかさと記憶、速さと忘却の間には、ひそかな関係がある。ごく平凡な状況を考えてみよう。ある男が道を歩いている。突然、彼は何かを思い出そうとするが、記憶が戻ってこない。彼は自然に歩く速度を緩める。逆に、いましがた経験したばかりの辛い出来事を忘れようとする者は、その出来事からすぐに遠ざかりたいかのように、いつの間にか歩調を速めている。緩やかになれば思い出すことが多くなり、急いでいれば忘れることが多くなる」

今こそ俺は、しっかり自分自身のことを見つめなおさなきゃいけないし、そのチャンスだし、今、しっかり自分自身のことを見つめなおしておかないと、この先、中途半端に前進した所でまた道を誤ってしまう。

立ち止まる。

出来る限り、何もしない。

待つ。

ただひたすらに、自分のこと、周囲のこと、これから先のことについて何かしら見えてくるまで、ただひたすらに待つ。

この本の中ではこの「立ち止まる」ということ。立ち止まって出来る限り何もせず、「待つ」ということを誰にでもできる決して難しくない『瞑想』だと表現されていて、目からウロコが落ちた。

悲しい、完全に予想外の受け止め方をしてはります..。

誤解です。それは完全に「誤解」です。違う。違うよ。

コメントありがとう。

お互い、時間をかけて徐々に徐々に自分を「再構築」(←これまた素晴らしい心理学用語)していこう。焦らず、着実に!

・ロックンロール〈衝動〉

・旧友、親友〈支持〉

・恋〈希望〉

3つとも「夢」という言葉を輝かせる。

そして

3つとも「生への執着」に繋がる。

内なる子供を癒し解放するプロセスとして、一番有効な手段は、支持的で安全な人に話を、自分の物語を聞いてもらい、そうやって話している自分の言葉を自分自身が聞くことなのだそうだ。そして、その場合には話を聞いてもらう相手をしっかり見極めねばならず、例えば人の話を聞く時に「審判的」な返しをする人を相手に選ぶというのは、かえって内なる子供を窒息させてしまうことになるらしい。

そういえば俺はだいぶ前、このブログ上、『呟き』というタイトルで「説教され飽きた」と書いたことがあるが、あの時、自分の中で「説教」という言葉に違和感があった。「説教じゃない。説教じゃなくて、自分の言葉を〇か×で断言される感じが嫌で..」と思っていたのだが、「審判的」まさにこれだと思う。俺はあの時「審判的な会話に飽きた」と書くべきだったと思う。

ちなみに、例えば内なる子供を解放していく中で、審判的な物言いをする人と離れて生きることを心理学的物言いでは「解毒」と呼ぶらしい。

心理学って本当に面白い。

インナーチャイルド、内なる子供、真の自己、を癒して解放してやることを「変容」という過程を経て「統合」と呼ぶらしい。統合させることができれば、自分は、人生はもっともっとよりよいものになるが、長い年月をかけて抑制、抑圧されてきたものだけに、統合させるにはかなりの時間と努力を要する。というのが結論みたいだが、俺はもうこれしかないと思っているし、方向が見えたこと自体が嬉しいし、言いたいことを言ったり、やりたいことをやったり、程よく肩の力を抜いたり、適切に何かに誰かに「委ねる」ということをしたり、心から笑ったり、素直に怒ったりできるようになるために、今から時間をかけてじっくり、こいつを、この子供を解放させていこうと思っている。酒で垣間見たり、束の間呼び覚ますだけじゃなくて、常に自分の軸として伸び伸び呼吸させてやりたいと思っている。

今までずっと見て見ぬフリしてきたこと。その声を聞こえないフリをしてきたことをまずちゃんと謝ることから始めようと思う。

なぜ、見て見ぬフリをしてきたのか。なぜ俺自身の本音とも言えるその声を聞こえないフリをしてきたのか。それは33歳の大人として、社会人として、不特定多数の人に認めてもらうためだったが、結論、全く上手くいかず、堕ちる所まで堕ちることになってしまった。

ちゃんと子供に戻ろう。経緯がどうであれ、俺が今、このタイミングで自分が実際に生まれ育った場所、伊丹最北端にいて、そこでそう強く決意しているというのはきっと良い流れだ。

現時点では体育座りをして塞ぎ込んでいる俺の中の子供。彼が目覚めたら、彼が俺を許したら、「統合」できたら、俺は今までで一番良い自分になれると思う。

夢ができた。

もう二度と死にたいだなんて思わない。

「インナーチャイルド」は例えば人間の創造力をも司っているものらしい。だから俺は伊丹に帰ってくるやいなや、気付けば気が狂ったように絵を描き始めたんだろう。内なる子供を解放させようとして描き始めたんだろうと思う。あの「阿仁真里」だってたぶんそういうことだ。

ところで、先日、病院でカウンセリングを受けた。カウンセリングの内容はいわゆる心理テストで、テーブルの上に1M四方くらいの大きさの白い砂の入った木箱があって、その横の棚に小さな人形やら、ミニチュアのキッチンやら、時計やらとにかくありとあらゆる小物があって、これを自由に形を変えた砂の上に、好きなものを好きなように置いていくというものだった。で、俺は迷いなく棚から野球のボールくらいの大きさのガラス玉だけを手に取ると、箱の中の白い砂を全て箱の真ん中にかき集めて(砂を退けると、箱の底の色はブルーで、俺は水、砂の山を取り囲む「外堀」をイメージした)山にしたものの頂にポンと置いて「できました」と言った。そして「タイトルは?」との問いに「こわれもの」と答えて、「この時、あなたはどこにいますか?」との問いに「箱の周りをぐるぐる歩いてます」と答えて、「テーマは何ですか?」との問いに「崇高」と答えた。最後の問いに関しては「純粋」でも良かったと思う。とにかく、このテストで俺が表現しようとしたものも、ひょっとしたら内なる子供だったんじゃないかと思っている。

テスト中、「壊されたくない」と強烈に思っていたから。

「インナーチャイルド」というのは心理学的には「真の自己」とも言うらしく、これに対して、社会的に上手く生きていく為の偽りの自分、仮面の自分を「共依存自己」と呼ぶらしい。

「共依存自己」は「公共の自己」とも呼ばれていて、これに重点を置いて生きていると、「プライベートな自己」とも呼ばれる「インナーチャイルド」は窒息する。でも、自分の本当の願望や欲求。やりたいこと、言いたいことを知っているのは「インナーチャイルド」の方でこれを窒息させていると、人間は本来、それがたとえ無意識下であってもこの「内なる子供」の存在を知っているだけに、ここに無理があって、ストレスがかかって、苦しくなる。

アルコール依存性の人間は、この「内なる子供」を束の間垣間見るために、束の間呼び覚ますためにアルコールに手を出すようになるのだそうだ。

そもそも、ACという言葉も「インナーチャイルド」という言葉も、アルコール依存性である人間の治療法を試行錯誤する中で生み出された言葉らしく、不幸中の幸い。とりあえずは俺、この辺の言葉にたどり着いた、巡り逢えた所まではツイてると思っている。

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プロフィール

いっけい

ビートルズ好きの両親の元、ビートルズを子守唄に育ち物心が付く前から音楽に慣れ親しむ。
学生時代からいくつかのバンドを結成し関西を中心にライブに明け暮れる。
現在はソロでの音楽活動に加えイラストも手掛けるマルチアーティストとして活動の幅を広げている。

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