大阪在住のうたうたい&絵描き&詩人 和田一憩(わだいっけい)のブログです。最新情報も随時配信していますので要チェック!!です。 携帯サイトはコチラ

最近、突然、居ても立ってもいられないくらい寂しくなる時がある。その都度、心があまり美味くない居酒屋で出てくる、実際より若干重く見える、全く食欲をそそらない「キモ」みたいなことになっている絵がイメージせられて、グゥーンと低い音が聞こえて辛くなって、絶望的に人恋しくなって、例えば朝、仕事なんてブッチして、京都なり神戸なり伊丹なりに単身出向いていって、ビール片手に目標なく歩き回ったり、座り込んだりしたいという社会人として0点な衝動に駆られる時がある。

3日でいい。好きに、だらしなく過ごしたい。

俺はこんなキャラだから、日々、結構ぼんやりしているように見えるかもしれない。日々、結構のんびりしているように見えるかもしれない。日々、ほどよく息抜きをしながら生きているように見えるかもしれない。

世の中には「誤解」という言葉がある。自分の中の定規的なものを信じて疑わず、基準として人を計るから誤解が生まれる。それこそ前述の「優等生」と呼ばれる人たちは、日々、誤解の連続だと思うし、ゆえに周りからも誤解され続けるんだろうと思う。

何をどれだけ得れば満足なのか、何をどれだけ我慢すれば不満なのか、その許容範囲は人それぞれ違うはずなのに、この世の中は問答無用に、さほど査定せずに、とあるパターンを、人種を、「例外」と呼んで外へ外へ追いやろうとする。「例外」は世の中の菌か?

巷に「除菌・抗菌・殺菌」の文字が溢れかえっている。売り文句として溢れかえっている。

かくして人体は弱くなる。

ピンポーン。

宗教の勧誘にきた人の額には必ずと言っていいほど「助けてくだちゃい」と書いてある。

たまに絵に描いたような「優等生」がいる。ルックスもイケてりゃ、社会的ルールにも精通していて、何をやらせても他人より器用に、涼しい顔をしてこなす、俗に言う「できる人」、俺の言う「地に足のつきまくっている人間」がたまにいる。

俺はそんな「優等生」が持っているものの全てを持っていない「絶望的に地に足のつかない人間」。ただ、そんな「優等生」が唯一、持っていないもののみを俺は持っている。

「優等生」は皆、俺みたいな人間をものすごく苦手とする。不可解過ぎて、どう接したら良いのかわからないといった感じの表情を浮かべて困惑して、一週間もすれば目を合わせようともしなくなる。

「優等生」が唯一持っていないもの―俺、思うに「表現」というのは、理論的なものから逸脱すればするほど、ルール的なものを無視すればするほど、面白いものができると思う。例えば、「言葉」なんてのはその一番良い例で、存在自体がルールの塊みたいな物だけに、壊せば壊すほど面白くなるし、壊して断片を並べて遊べば絵だって描けてしまう。そして、さらにこの絵に「語らせる」という離れ業をやってのけることが出来た場合には、もっともっと面白いことになって「作品」と呼べるものになる―この社会的に上手く生きていく上では全く何の役にも立たない感覚、能力においてのみ、俺は「優等生」よりも優れている。

彼ら「優等生」から見れば、俺みたいなもんは「なんでそんなんで生きていけるんやろう?」的疑問を抱かずにはおれない存在だと思う。でも、俺は「それはこっちの台詞だ」と思う。

昨日、友人と語らった。そしてその友人が身近なとある「優等生」に対してただ一言「(生きてて)なにが面白いんやろうと思う」と言った。笑ってしまった。





「土踏まずしかない人間」と、「土踏まずがない人間」とでは、「土踏まずしかない人間」という表現の方が圧倒的に面白い。

書き込み、ありがとうございます。文章、読ませてもらいました。本当に、何て言えば良いのか...嬉しかったです。

音楽にせよ、文章にせよ、「表現」というものをリアクションの薄い中で続けていくというのはそれなりに気合のいることです。その証拠にまず音楽の方では誰の為に歌ってるんだかわからなくなってしまったし、このブログだって、例えばこの「書込寺」というコーナーは「誰かが読んでくれているってことを感じたい」って気持ちの現れで、駄目元で建立したとはいえ、この先、書き続けていくためには誰かからの何かしらの反応が欲しかった、必要不可欠だったから建立したわけです。

音楽にせよ、文章にせよ、僕の売りは「赤裸々である」ってことで、僕は僕の作るものをちっとも悪いとは思わないし、性懲りもなく思えないので、そんな自己評価と周りからの評価との間に大きな隔たりがあると、あり続けると、実は人知れず孤独だったり辛かったりするわけです。

トモコさんの文章を読んで大袈裟ではなく、本当に、救われました。同じアルバムなのに昨日よりも今日の方がずっときらびやかに聴こえます。

わけのわからない、いかんともしがたい邪魔が入らない限り、このブログは続きます。今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。あ、あと、たまにものすごくふざけたのも載せますが、それはそれで笑えたら笑ってください。よろしくお願いします!

夜勤明け。とある公園のゴミ箱2つ。

最初、俺は「びんかん(敏感)」って書いてあるんだと思った。でもすぐに「あ、ちゃうわちゃうわ!」と気付いて、「かびん(過敏)って書いてあるんやね」と思ったが、すぐに「びかん(美観)」って書いてあることに気付いて、ホッと一息ついた。

全問不正解。

明らかに疲れている。

駆け込み寺を文字って「書き込み寺」

これから定期的にこの「書き込み寺」なるコーナーを設けます。これは、読者の皆さんのコーナーです。この寺にコメントという形で何でも良いから書き込んでください。俺に対する文章でも良いし、このブログを管理する剣吾くんに対する文章でも良いし、このブログの読者の皆さんに対する文章でも良いし、日本国民全体に対する文章でも良いし、例えば、あなたの身に今日起こったことを日記的に書き込むというのも全然ありです。ただし、毎度、締め切りはここに「書き込み寺」の表示が出てから一週間とします。なので、今回は10/2が締め切りとなります。

このブログが読者の皆さんの「秘密基地」になればいいなという気持ちは変わりません。皆さんの参加によって、このブログがもっともっと分厚いものになればいいなと思っております。

毎度、期待せずに、でも楽しみに待っております。よろしくお願いします!

できれば年内に、カバー曲だけでライブを演ってみたいと思っている。以前にこのブログにも書いた桜井和寿の「NOT FOUND」とか、最近勝手に「兄貴」と呼ばせてもらっている宮本浩次(エレファントカシマシ)の「今宵の月のように」とか、村八分の「あっ!」とか、奥田民生の「コーヒー」「厳しいのである」とか演りたい曲が自然と頭の中に揃ってきた。あるいは、オアシスやティーンエイジの曲に自作の詞を乗せて歌うというのもありだと思う。とにかく、一度、自作の楽曲と自分自身から離れてみようと思っている。

演るとしたら天六の「音太小屋」になると思う。たぶんあそこ以外では演らない。

実際に演るとなればまたここで告知するので、気が向いたら観に来てください。

最近「俺はこのまま老いていくんだろうか?」というフレーズに付きまとわれている。

俺は決して優柔不断な人間ではないし、まだまだ夢を捨てたわけじゃないし、捨てる気も毛頭ない。ただ弱すぎるのだ、他人に対して。24時間、365日、人の顔色ばかり窺っている。これがガラでもなく「ストレス」らしきものになって、積もり積もって、時間さえあれば酒ばかり飲んでいる。こんなのは嫌だ。なんとかせねば!とは思うがどうにもならない。抜け出せない。

こんなことではいつまで経ってもステージに戻れない。

正直、情けない話、助けて欲しいと思う。でも、それ以上に明日、この文章をブログに載せたことを悔やむんだろうなと思う。

でも載せる。

俺は俺がどうしたいのかさっぱりわからない。でも、ま、そうやって今まで生きてきたし、これからもそうなんだろうなとは思うが、なんだ、その、いや、よくわからない。

とにかく、ジョン・レノンという男は最高だ。

例えば、あなたが左手に砂金の入った袋を持っていたとして、時間を追うごとに軽くなっていったとしたら、そしてその袋のどこにどれくらいの穴が空いてるのか誰も何も言ってくれず、自分では皆目見当がつかないとしたら、ものすごく不快、かつ不安ではないだろうか?

例えば、あなたが船に乗っているとして、明らかに沈んでいってるのはわかるが、船体のどこにどれくらいの穴が空いてるのか誰も教えてくれず、自分では皆目見当がつかないとしたら、ものすごく不快、かつ不安ではないだろうか?

袋のどこにどれくらいの穴が空いているのかを知っていながら言わず、船体のどこにどれくらいの穴が空いているのかを知っていながら教えてくれない人たちの目の奥に自分に対する侮蔑の念が見てとれたら、あなたは笑顔でいられるだろうか?

俺は今、「伊丹人をナメるな!」と喚きながら、砂金の入った袋片手に船に揺られている。

「社会」という言葉の根っこにある考え方は早い話が多数決だろう。大多数の人間がある方向にドッと流れて、その方向が本当にイケてるのかどうかといった議論を抜きに、とりあえずこの流れを「ナウい」と認定する暗黙の了解の下、「社会」と呼ばれるものが日々更新されるんだろう。

日々更新される。ということは日々形を変えるわけで、実に不安定なものということだ。例えば「社会はそんなに甘くない」と言う言葉は昨日と今日では意味が異なるということだ。

だいたい、「大多数の人間」というのが信用できない。ゴールデン・ウィークに高速を渋滞させたり、サザンのライブに足を運んだりしている人たちが「社会」を日々更新している張本人なのだとしたら、俺は「社会的に終わってる」とか何とか言われてもいっこうに構わないし、逆に嬉しく思う。

「ロック」の一般的な定義は「反体制」とか「反社会」だ。こうやって「社会」なるものの成り立ちを自分なりに熟考してみた後でこの「ロック」という言葉に触れてみると、これがただカッコいいだけのものじゃなくて、思想的に物凄く正解なものなんだなということに気付く。

やっぱり好きだ。ロック。疑いの余地なし。

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プロフィール

いっけい

ビートルズ好きの両親の元、ビートルズを子守唄に育ち物心が付く前から音楽に慣れ親しむ。
学生時代からいくつかのバンドを結成し関西を中心にライブに明け暮れる。
現在はソロでの音楽活動に加えイラストも手掛けるマルチアーティストとして活動の幅を広げている。

いっけいの楽曲が聴ける!! MySpaceはこちら

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