大阪在住のうたうたい&絵描き&詩人 和田一憩(わだいっけい)のブログです。最新情報も随時配信していますので要チェック!!です。 携帯サイトはコチラ

「あら、一憩ちゃん、いらっしゃい。さ、さ、そこの席空いてるから座って。一憩ちゃんはアレよね。サッポロビールで良かったわよね」

「あ、はい。お願いします」



―中略―



「ところで女将さん」

「なに?」

「みんなよく「人は一人では生きていけない」みたいなことを言いますよね」

「そうね。それもかなり安易に言うわね」

「でも間違いなく事実ですよね。事実は事実ですよね」

「そうね」

「でも何故か僕はその言葉が腑に落ちないんですよ、昔から。間違いなく事実なのをわかっていながら、納得がいかないというかなんというか...」

「そっか。じゃあ、なぜ腑に落ちないのかを人生の先輩たる私がこっそり教えてあげましょうか」

「お、お願いします!」

「それはね、一憩ちゃんが「人は一人では生きていけない」っていう言葉から「人生は他人に「生きて良し!」みたいに認めてもらわなきゃいけない」みたいな響きを感じ取ってるからよ」

「なるほど」

「確かに人は一人では生きていけないわよ。それは事実。でもね、人が、例えば一憩ちゃんが、生きるということに関して誰かの承認を得なきゃいけないなんてのは完全な出鱈目。事実でも何でもないのよ。だからそんな考え方は一刻も早く「冗談じゃない!」とかなんとか叫んで、頭から追い出さなきゃ。ね?」

「さすがは女将!伊達に歳とってない!」

「余計なお世話よ」

「女将のご教授のお陰で俄然テンションが上がってきました。ビールを瓶でもう一杯と鳥皮をタレで3本いただけますか?」

「さっきの言葉を撤回してくれたら出してあげる(笑)」

般若の面を見ていられる時間はウルトラマンが地球上で戦える時間に等しい。

声にならない言葉が排水口に髪が絡み付いていく時の不快な速度で喉を詰まらせていく。

耐え難く息苦しくなるまでの時間は年々短かくなっていった。

3分が2分に。

2分が1分に。

1分が30秒に。

30秒が15秒に。

15秒が10秒に。

9秒。

8秒。

7秒。

6秒。

5秒。





戦うことを諦めたウルトラマンは地球上に降り立つ度に「ごめん」と小声で心なく謝るやいなや、全てを振り切るようにして飛び去るようになってしまった。

民衆はウルトラマンがやって来ると迷惑そうな顔をした。

仕事終わりの居酒屋でビールを焼酎に切り替え、生粋の酒豪たる自分がいよいよもって勢い付き始めたことを何気に周囲にアピールしているオヤジなどはウルトラマンが現れても席を立とうともしなかった。

大気圏とオゾン層。

地球を慎重に4等分したものを手荒く3つに裂いたような大きさしかない貧相な惑星に逃げ帰ったウルトラマンはその惑星唯一の小さな病院に流れ込んだ。

年配の女医が「ビョウキです」と診断結果を告げるとウルトラマンは「悪役になりたいです..」と呟き哭いて、場に沈黙をもたらしたが、その沈黙は意外な角度からの鋭利な言葉によっていともたやすく打ち破られた。

「あなたが生き延びるにはそれしかないでしょうね」

先程から女医の隣に神妙な面持ちで「手鏡」と呼ぶには大き過ぎる鏡を持って突っ立っていた通りがかりの美女が言うと、女医は笑いを堪えて2度咳をし、「はい、次の方どうぞ」と言った。

ウルトラマンが無言で席を立ち、出口の所で振り向くと、あの通りがかりの美女が何の断りもなく鏡を女医の膝の上に置き、女医の前に座って診察に臨んでいた。

鏡に映る美女の顔は何故か歪んでいた。

女医は膝の上の鏡に細心の注意を払いながら軽く身を乗り出し、美女の目の前に左手の薬指を突き立てると「これ、何本ですか?」と問うた。

「見えません」大きく目を見開いて美女は答えたが、ウルトラマンは驚かなかった。驚くどころか「やっぱりな」と思い、今だかつて体験したことのない、しかし漠然と夢見てはいた不思議な安堵感に包まれて静かに診察室を後にした。

俺が小学3年の時に亡くなった父親方のじいちゃんは、例えばテーブルの上に埃をひとつ見つけただけで「チッ!」と舌打ちをして、「許せん」といった表情でその埃を摘まんで、ゴミ箱まで持っていくタイプの人だった。俺は子供心に「そんな埃ひとつくらいどうでもいいじゃないか」と思っていた。そしてそんなじいちゃんは食事時となると、本当にブリの照り焼きしか食べなかった。それが元船乗りのじいちゃんのプライドだった。

今、俺が置かれている状況というのは、俺の人生がまだこの先数十年続くものだとしたら、俺の人生全体という線上にある小さな小さな点だと思えなくもないし、たぶんそうだ。友人たちは「なぜ一念発起して跳ね返さない」とイラついているに違いない。そしてそんな俺は音楽や絵を「創る」ということにしか、無我夢中になれない。それがストイックな絵描きを父親にもった俺の唯一のプライドなんだ。

いずれにせよ、端から見ればくっだらない。「そんなことだから生きにくいんだ」と言われても返す言葉がない。でも人生、他人の目にはただの埃や点でしかない物事が、ある人間にとっては死活問題になってしまうということだって往々にしてあるんじゃないのか?と思う。みんなそれぞれの形で埃にイラついたり、点につまずいたりしてるんじゃないのか?と思う。じいちゃんや俺にはくっだらないとしか思えないようなことでてんやわんやしてるんじゃないのか?と思う。

なあ、じいちゃん。

近所の公共施設で、無料でパイプオルガンの演奏が聴けるというので行ってきた。パイプオルガンは見るのも聴くのも初めての経験。一度生で見てみたかったし聴いてみたかった楽器。

めちゃくちゃデカかった。無数に並んだ長い銀色のパイプを束ねるように、複雑な彫刻を施した木枠がパイプの所々にはめ込んであって、一番長いパイプなんて、会場となった教会調のホールのかなり高く設計された天井に突き刺さるかのような勢いでそびえ立っていた。演奏してる年配の女の人と、その助手みたいな若い女の人(譜面をめくったり、鍵盤横のレバーを摘まんで音質をコントロールする)がめちゃくちゃ小さく見えたのも無理はない。とにかく荘厳、巨大だった。

音の方も見た目に負けず劣らず荘厳で、強烈に崇高な感じがして本当に圧倒的だった。目を閉じて聴いていると、それこそ天使とかキリストとかのイメージが頭の中で自然に浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返した。

本当に凄い楽器だと思った。これで『モナリザ』(俺の曲)とか演ってくれたりしたらきっと、俺の人格とか人生が一瞬にして好転し始めるんやろあ...なんてことをふと思って目を細めていると、そこへパイプオルガンの演奏と同時進行、いわばコラボ的に本日のもう一人の主人公たる尺八吹きのおじさんが舞台に現れたが、申し訳ない話、心の中で「帰りやがれ」と思ってしまい、気付いたら俺が帰途に着いていた。

270×380mm

現時点での最高作だと思っています。ただ、残念なのは俺の携帯がかなり古い機種である為に、本来紫色の髪や、灰色の涙がどの角度から撮っても、どう明るさを調節しても、ブルーにしか映らなかったことで、その他の箇所も全体的に微妙に本来の色と違っていて歯痒く思っています。

俺、喋れと言われればちゃんと喋れる。でも「話し合ってみては?」などと言われても、話し合いの成立し得ない、話し合いが話し合いにならない人間が相手となると、何一つまともに言葉にならない。言葉に力が伝わらない。というのはなにも俺だけに限った話じゃないだろう。

たったひとつの問題。たったひとつの極めて巨大な問題、「恐怖心」がネックになって、物事がちっとも前に進まない。こいつにさえ打ち克てれば、全てを0に戻して、また一から、色んなことを自分で選んで、心から笑ったり喋ったりできる生活が手に入るはずなのに、この馬鹿デカイ恐怖心が邪魔をして、脚が笑って、どうにもこうにも踏み出せない。

心にプラスアルファ的な何かが要るのかなと思う。例えばバンジージャンプで飛び降りる瞬間に自分の背中をポンと押してくれる閃きのような思考のような「何か」が要るんだろうなと思う。

俺は決して労働というものが嫌なわけじゃない。思い返してみれば、いつも結構頑張ってきたし、不思議と楽しめてきた。だから、この恐怖心にさえ打ち克って、視界が開けたらすぐにでもどっかで働く。働きながら、働いたお金でやりたいこと、ここ数年間やりたくてもできなかったことをやって、一度はバラバラに砕け散った自信みたいなものを収集して歩く。そんな生活の中で飲む酒が悪い酒にならないことくらい、さすがに俺も33、考える前に知っている。

そこで浮上してきたのが「一人旅」なる発想。今まで考えたこともなかったが、最近、周りの心ある人たちに幾度となく薦められて、少しずつ考えるようになってきている。俺が探している「何か」はひょっとしたらこことは別のどこか、今まで行ったことのない場所に落ちているのかもしれない。

で、どこへ行けばいいんだろう。そういえば海を眺めながら、通報されてもおかしくないくらいの長い時間、砂浜にじっと座っていたい気もするし、何を言ってるんだかさっぱりわからない方便的なものを聞いて、その味わいをしみじみ感じてみたいような気もするし、田舎の人通りの少ない商店街らしき所を古いにも程がある看板などを眺めてぶらぶら歩きながら、歩き煙草を楽しんでみたい気もする。

実際に行動に移すかどうかは別としても、考える価値はあるような気がする。考えるだけでちょっとだけ楽しくなるし。

270×380mm

人に絵を見てもらった時によく言われるのが「私(俺)は、絵のことようわからんのやけど」という前置詞なのだが、そんなことは全然気にしてもらわなくてもいいと思っている。わからんならわからんなりに、解釈の仕方なんて無限に、それこそ人の数だけあるんだから、好きに解釈して、気に入ったり気に入らなかったりしてくれたらそれでいいと思う。だいたい、俺が全くわかってないんだから。絵画というものの正しい見方を。正直、自分自身の絵に関してさえなにがどうなんだかさっぱりわかっていない。

ただ、最近自分が描いた絵に関して、ひとつだけ皆さんにわかっておいてもらいことがあって、それは、『受容』の女の人の微笑と、『キャリアウーマンの微笑』の女の人の微笑は似ても似つかない、意味的に真逆のものだということだ。これだけは一緒にされちゃあ困るんです。この違いには柄でもなく、若干のメッセージ的なものを含ませてあるので、なんとなくでも読み取ってもらえたらなと思います。

ま、もし読み取れなかったとしても、それはそれで全然構わないんですけどもね。

はい。

270×380mm

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プロフィール

いっけい

ビートルズ好きの両親の元、ビートルズを子守唄に育ち物心が付く前から音楽に慣れ親しむ。
学生時代からいくつかのバンドを結成し関西を中心にライブに明け暮れる。
現在はソロでの音楽活動に加えイラストも手掛けるマルチアーティストとして活動の幅を広げている。

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