歩いたり走ったりするとそのうち必ずどこかに辿り着いてしまう。かといって、ずっと同じ場所に棒立ちに突っ立っておるというのは完全なる苦行。人間、微動だにしないということのいかに辛いことか。悟りのひとつも開いてないと絶対に無理。「じゃあ回れば?」ということで、前後左右への移動は一切行わず、ずっと同じ場所に突っ立ったまま回転し続けていれば良いのかと言うとこれはこれでたぶん無理。5分も経たぬうちに「変な人が回ってます!」通報されるだろうし、通報される前に目が回って自滅してしまうという考えられないくらい不細工なケースも考えられる。
では一体どうすれば良いのか。どこにも辿り着きたくない人間は一体どうすれば良いのか。実はこの問題を解く鍵は先述の「回転」で、「じゃあ回れば?」なる声はいわば神の声。要は受け取り方の問題なのである。というのも、俺は文冒頭に「歩いたり走ったりするとそのうち必ずどこかに辿り着いてしまう」と書いたが、これはあくまで直線的に歩いたり走ったりした場合の末路であって、「直線」に対して「輪」という形状にはそもそも始点終点が存在しないのだから、広範囲的に輪状にルートを設定して、このルート上を寝ても覚めてもぐるぐるぐるぐる歩いたり走ったりする分には通報されることも自滅してしまうこともなく、遂には「どこにも辿り着かない」という『解答』にまで辿り着けてしまえるのである。
笑う俺の頭上に時計。針はぐるぐるぐるぐる回転し続けているが、時間は休むことなく直線的に前進し続けている。
昼間の雨は不快。夕暮れ時の雨はもっと不快で耐え難い。でも、夜の雨は嬉しい。時間の流れをぐっと緩やかにしてくれて、まるで自分の気持ちを代弁してくれているかのような暖かさ、優しさみたいなものさえ感じる。
部屋の明かりを消して、布団に横たわって、雨の音に耳を傾けると、こんな言葉、まるっきり詩的なセンスのない人に限って言いそうな気がして恥ずかしいのだが、あのぅ..そのぅ..こ、これって、雨の音って、めちゃくちゃ綺麗な音楽だなと思う。
閃きで書く文章。閃きで撮る写真。
本来は枕元の真白いテーブルの上に無造作に並べて、そのおもちゃ箱をひっくり返したかのような無法感を夜、寝る前にしみじみ眺めて楽しむためのもの。
でも実際は、書くことに、撮ることに、「収集する」ことに必死で、眺めて楽しんでいる余裕などどこにもなかったりするのです。
凡であるにこしたことはない。
鈍であるにこしたことはない。
年老いた人間に聞こえてくる言葉は次のふたつの内のいずれかじゃないのか?
「とっとと田舎に引っ込め」
「とっととくたばれ」
高齢化がどうの介護がどうの言う前に、社会全体寄ってたかってやらねばならんことがあるんじゃないのか?
少なくとも俺はコンビニで買い物をしてる老人を見たことがないよ。
常に何かしら食っている人間になってみたい。
人はよく希望的な意味合いで「この世の中に意味の無いものなんてない」なんて言うけど、俺に言わせれば意味の無いものがない世の中なんて何が面白いんだかさっぱりわからない。それこそ、俺みたいな人間は路頭に迷ってしまう。
俺は「意味が無い」って面白いと思う。そして、同じ「意味が無い」にも、ピンからキリまであるという世界が何より面白いと思う。
「意味がわからない」という言葉をよく耳にするが、自分の人生に関わる全ての事柄に意味がないと納得できないという思想はあまりに傲慢だと思う。
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