大阪在住のうたうたい&絵描き&詩人 和田一憩(わだいっけい)のブログです。最新情報も随時配信していますので要チェック!!です。 携帯サイトはコチラ

『Don’t Touch』完成に伴い、以下一点を破棄

・赤い面影

人間、「飢え」は良くない。

本当に空腹の時、人は「味」に考えが及ばない。味なんてどうでも良くなる。だから、様々な局面において選択を誤らないためには、あらかじめある程度腹を満たしておく必要がある。例えば俺は学生時代、完全に恋愛に飢えていた。一緒に下校できるのなら誰でも良かった。ま、結局誰ともできなかったけど...でも、ま、そういうこと。

人間、「飢え」は良くない。これは紛れもない真実。でも、「飢え」を知らないと満たされるということのありがたみがわからないというのもこれまた真実。

難しいやね。

印象的な光景を思い出した。

それは大阪のレンズ工場で働いていた時のことだった。その工場は神崎川沿いにあって、俺はその工場の4F、「成形」という工程で2年半働いた。

1年くらい経った頃だっただろうか、従来の細かい固形の樹脂を140度前後の熱で溶かしてレンズを作る工程とは別に、特殊な液体からレンズを作る新たな工程が同じ階に現れた。俺と同僚たちが属した従来型の工程は「Aレンズ」と呼ばれ、新たに現れた工程の方は「Bレンズ」と呼ばれた。

最初、Bの作業場は、Aの作業場のごく一部を間借りしたような形で、面積的には4F全体のうち9割がAで、1割がBで、AとBの間はパーテーションで完全に区切られていて、人の往来は厳しく禁止されていた。液体からレンズを作り出すBレンズは、傾きかけた工場の救世主となる可能性があり、会社としては何としても死守すべき企業秘密で、我々同じ工場で働くAの人間でさえもBの作業場に行くことは許されなかった。

BがAよりも安く良い製品を作れることが明確になってくると、BがじわじわとAの方に侵攻してきた。パーテーションがじゃんじゃんじゃんじゃんAの方に押し迫ってくる。作業場の面積的に1:9だったものが数ヵ月後には5:5になっており、俺のこの工場での勤務が2年目に突入した頃には8:2くらいにまでAは、我々チームAは追い詰められてしまっていた。

Bレンズが出現するずっと以前から、1Fの「蒸着」や3Fの「組立」と協力し合ったり、時に衝突したりして4Fの「成形」を支えてきたという自負のある我々には屈辱の日々だった。狭い狭い作業場に140度前後の熱を出す機械が所狭しと並び、夏場ともなると作業場の温度計が40度を差しているにも関わらず、エアコンの冷気のほとんどはBの方へ流れ、さらに我々Aの面々はBの連中とは違って白い防塵服で身を覆うことを義務付けられていた。

気付けば働く人間の数も、BがAを圧倒していた。こういった経緯、状況から、Bの人間のAの人間に対する態度は次第にでかくなり、Aの人間はくる日もくる日も悔しさを噛み締めていた。

「Aレンズがなくなるのは時間の問題らしいで」という噂を耳にしてから間もなく、俺や同僚を含めた派遣社員全員に解雇が言い渡された。その頃、TVでは連日のように製造業の派遣切りが取り沙汰されていた。





パーテーションが押し迫ってくるあの感じ、自分の空間を別の空間がじわじわ侵食してくるあの感じを俺は一生忘れないと思う。

今思えば、他人の考え方ばかり容れて、自分の考え方を飲み込みながら生きてきたことに少なからぬストレスと限界を感じ始めていたあの頃の自分の頭の中の有り様が、そのまま目の前に表れたかのような光景だった。

頑張れタイガース!

想像という水の入った俺というヤカンが生きているというガスコンロの上で不安アンド恐怖心という火に熱せられて絵や言葉といった表現という湯気を立ててプシュー!ってゆうてる。

一瞬、「考える」ということが「感じる」ということみたいに頭の中で言語化されるものじゃなかったら良いのになあ...と思ったがしかし、もし「考える」ということが「感じる」ということみたいに頭の中で言語化されないものだとしたら、吐き出すべきものも吐き出せず、心が病んで頭がパンクしてえらいことになるんだろうなあと思うので現状維持でお願いしますわ。

自分の中に、誰の意見も必要としない、誰の意見も大きなお世話にしかならない宝物がある。

大切に大切に隠し通すべきもの。これを隠し通す為なら嘘だって平気でつくし、この嘘は決して自己嫌悪を連れてこない。

もしこの宝物が隠せる種類のものじゃない場合には、その手がどんなに清潔であっても「汚い手で触るな!」と言うし、たとえその人が玄関で靴を脱いだとしても「土足で上がるな!」と言う。

宝物と宝物を守ろうとする意志を手放してしまうほど汚されちゃいない。

『自己不信』っていう言葉ってありましたっけ?もしあるんなら、この『自己不信』っていう言葉は、「自信がない」っていうこととは意味的に微妙に違うような気がするのは俺だけでしょうか。

自分自身を信じられている状態を「自信がある」と表現することには異議なし!意味合い的にどこにもズレを感じないけど、自分自身を信じられない状態を「自信がない」と表現した場合には、なんか微妙な意味合いのズレを感じるのは俺だけでしょうか。

「自分自身を信じられない」という言葉と、「自分自身を信用できない」という言葉の間にも、響き的にAmとAm7の違いのようなものを感じるのは俺だけでしょうか。

「あなたは自信がありませんね」と言われた場合、相手が何を言わんとしてるのかはわかる。わかるが何かピンと来ないものがある。この言葉のすぐ後に俺の右斜め後ろで審判が「ストラ〜イク!」と叫んだとしても、俺はどこか納得がいかずに首を傾げながら審判に「今の入った?」と尋ねてしまうと思う。でもこれがもし、「あなたは自分自身を信用できないでいますね」と言われたとすれば、これはど真ん中に150kmのストレートがビシッと来ている。俺は審判の声を聞く前にバットを持ってベンチに引き下がると思う。

日本語って本当に難しいですね。

『優越感』という毒も、『劣等感』という毒も、そうそう簡単に抜けるものじゃない。

人に劣等感を植え付けることで優越感を得ている人間も、そんな優越感に依存している人間に劣等感を植え付けられて、何か他のものに救いを求める人間も、田代まさしを笑う資格はない。

と、思う。

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プロフィール

いっけい

ビートルズ好きの両親の元、ビートルズを子守唄に育ち物心が付く前から音楽に慣れ親しむ。
学生時代からいくつかのバンドを結成し関西を中心にライブに明け暮れる。
現在はソロでの音楽活動に加えイラストも手掛けるマルチアーティストとして活動の幅を広げている。

いっけいの楽曲が聴ける!! MySpaceはこちら

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