俺が生まれ育った伊丹最北端。
俺が子供の頃は、近所に同じような年頃の子供がいっぱいいて、少し声をかければ20人〜30人はすぐに寄ってきて、大きな山の遊具がある桑田公園という公園で陽が沈むまで遊んだ。そして、夕方になるとそこら中の家から晩ごはんのいい匂いが漂ってきて、その匂いを合図のようにして、「俺、帰るわ」「私、帰るわ」と、一人また一人と家に帰っていって、公園はその日その日の役目を終えた。
夏になり、盆踊りともなると、夜というものに興奮しきった子供が走り回って、大人は大人で子供のような顔をして笑っていた。
気付けばあれから、あの風景から、もの凄く遠ざかった場所に自分はいる。周りを見渡せば疲れきって、常にイライラしていて、お互いに監視し合っているかのような目の泳がせ方をした大人が無闇に地面に影を落として、自分の落とす影に見入っている。
ものすごく優しい人が現れて、ものすごく優しい目で、ものすごく優しい声をかけながら背中をポンと叩けば、みんな、泣き崩れるんだろうなと思う。
「社会はそんなに甘くない」などと、子供の頃の心象を忘れきった物言いをする馬鹿な自称大人に読ませる文章はない。聞かせる本音はない。
俺は優柔不断な人間ではない。
野球というスポーツには実に多くの教訓が眠っている。そういう目、「何か、人生を考える上でプラスになる『何か』を得よう」という目でみると、頭の一部、俗に「つむじ」と呼ばれている部分から、教訓と呼べそうなものが一つ、また一つと飛び込んでくる。
で、今回、語りたいのは「連敗から抜け出せないのは何故か」ということであって、いわゆる、「連敗街道」の仕組みについてである。
「連敗街道」というのはなぜ生まれるのか。ということを考えるに当たっては、かつての、たけし軍団に負けた、弱すぎる阪神などを参考にしても何も見えてこない。あれは誰の目にもただの抜本的絶望的戦力不足が原因で、連敗街道は当然で、抜け出したければ幹部が動いて、金を出して、要らぬ選手を吐き出して、有能な選手を一人でも多く迎え入れれば済むだけの話だからだ。教訓となるのはそういったケースではなく、かなり良い選手を揃えている、はっきり言って優勝だって狙えるチームが連敗街道に陥ってしまうという不可解なケースについて考えた場合である。
考えられるのは「悪循環」である。そして、悪循環というものには必ず「悪習慣」が絡んでいる。したがって、悪習慣を断てれば、悪循環はおのずと断てるのだが、人間にとってこの「習慣」ほど厄介なものはなくて、そうそう簡単に断てるものではないから悪循環も断てなくて、気が付けば悪循環自体が習慣化してしまって、朝、新聞、朝刊をみたら俺、最下位だった...みたいなことになってしまうのである。
打つ手としては「カンフル剤」というのがある。「もう何らかの変化をのんびりと待っておるような時間はない。すぐに何とかせねば!」といった場合には有効な、全く別の角度から全く異質なものを持ち込むことによって、自分の各細胞に一喝、緊張感を抱かせるといった手法だ。
嗚呼、もはや野球の話ではない。人生において、この「カンフル剤」に何を持ってくるのかというのは極めて大きな問題だ。
俺は何をもってカンフル剤にしようか。ちょっとヤバめの、ちょっとキツめの物じゃないとカンフル剤にはならないが、ゆえにちょっとチョイスを誤るとえらいことになる。
「えらいこと」がカンフル剤になるのかもしれない。
二番目に向いているであろうことで、社会的にちゃんとやっていかないといけない。
二番目に向いているであろうことが金にならないと、一番向いていることができない。
一番向いていることが金にならない。二番目に向いているであろうことがなんとか金になる。
でも、俺が「二番目に向いていてくれ!」と願う世界には「これが自分に一番向いていること」と断言できる人たちがそりゃ当然のようにいて、そんな人たちには、当然、俺は敵わない。
二番目に向いているであろう世界で評価されないというのは独特に辛い感じがある。
そんなことは言われなくても百も承知だからだ。
俺のブログならではの斬新な試み「書込寺」。俺としてはこれを何としても定着させたい。
通常、基本的にブログというのは一方通行なもの。でも、こと和田一憩のブログに関してはそこんとこが違うんだよ。読者あってのブログなんだよ。というのを分かりやすく全面に押し出したいのだ。
勇気を出して、参加してみてください。返事は必ずします。今回の締め切りは10/24(土)です。
寺の前の石階段に遠い目をして座って煙草を吸いながら、皆さんのお越しを心よりお待ちしております。
今日、俺の書斎がある神社で秋祭りがとり行われる。夜店の人たちが朝から忙しそうに準備に追われている。
晴天。なんて平和なんだろう。
今日、俺は夜勤だ。ということは夕方、少しだけ、祭りに参加できる。
夕方、少しだけ来て、この神社に棲まう神様に、「俺、復活します。力を貸してください」って、手を合わせようと思っている。
一方、雲の上ではクリスマスはクリスマスで人一倍浮かれている俺を毎年のように見かけているジョン・レノンが呟いている。
「おい、一憩さんよぉ。和田一憩さんよぉ。お前に節操というものはないのか?だいたいお前は俺の曲「神」をちゃんと聴いたんか?お前の心の師たる俺の曲を、言葉を、都合よくアウトオブ眼中ってか?え?アウトオブ眼中って今や死語なの?そ、それは知ら...い、いや、知ってたよ。ユーモアやんか、ユーモア。ほら、レノンと言えばユーモア、みたいなとこあるやんか〜。いやホンマ、知ってたって!もちろん知ってたよ。だって僕、ジョン・レノン。でも、ま、なんや、その、要するに、お前の復活に関しては、なんていうかその...出来る限り応援させてもらうよ」
厳密に言うと、俺は音楽好きではない。俺はただただロックが好きなのであって、決して音楽が好きなのではない。
ハワイアンや、カントリーや、ユーロビートや、日本人のいう「R&B」は生理的に受け付けず、吐き気がするくらい嫌いだし、クラシックやジャズはなんだかよく訳がわからないわりには敷居の高い感じがあって、はっきり言って退屈だとしか思えないし、ブルースは「ブルース好き」を自称する胡散臭い奴らの雰囲気を思うとやはり吐き気がするし、サザンを代表とする歌謡曲の大半も「使い捨て感」があってこれ我慢ならない。
この国の人はなぜこんなにもロックを聴かないんだろう。みんな、もっとロックを聴けばいいのに。
ロックほど等身大な音楽、文化、思想はないのに。
好きになれば、あなたの人格や人生に沿った、あなただけのものになるのに。
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109
最近のコメント