大阪在住のうたうたい&絵描き&詩人 和田一憩(わだいっけい)のブログです。最新情報も随時配信していますので要チェック!!です。 携帯サイトはコチラ

「自分の中の子供」には、実は大阪にいる時から薄々気付いてはいた。やらねばならないこと漬けの窮屈な綱渡り生活の中で「やりたいことがあるんとちゃうの?」という心の声が毎日のようにうるさかったが、じゃ、あの声の主は一体何なのか。誰なのか。3月の後半というタイミングでブログ上に登場した「阿仁真里」という女の子は一体なんだったのか。なぜ俺はあの存在を出したのか。その必要があったのか。考えれば考えるほどに「自分の中の子供」というイメージが膨らんでいった。

そこで、以前から気になっていた「アダルト・チルドレン(以下AC)」という言葉が思い浮かんで、本を買って読んでみた。ACというのは、子供の時に受けた親からの影響、抑制、抑圧が成人後も残り、それに苦しめられ続けている大人のことを指すのだが、この本の中に「インナーチャイルド」という言葉が出てきて、これがまさに「内なる子供」という意味で、西洋の精神療法では癒しの対象といて使われる言葉らしく驚いて、今度はこの「インナーチャイルド」について詳しく書かれた本を読むことにした。

「インナーチャイルド」こんな言葉があること自体が嬉しかったし、この言葉に自分が良くなる鍵のようなものが隠されているような気がして、猛烈な勢いで読み始めた。

翌日、大阪に帰る前に家人に連絡を入れた。「昨日はごめん」と話を切り出したが、俺が前述の旧友に会ったということもあって、向こうはもう怒り狂っていて、「あなたは今まで頑張ったことがない」と言ったあとに「お願いやから死んで」という言葉が飛んできたので、俺は頭の線がそれこそ本当に、物理的に「キレた」ようになって、強引に電話を切った。

結果、元々わかっていた本当の問題に直面することになり、堕ちる所まで堕ちて、大阪に帰れなくなった。以降、今日に至るまでずっと伊丹にいる。

今は、大阪にいる時に通っていた心療科の病院(以前の脳神経科には疑問があったので、病院を変えた)に通ってカウンセリングを受けながら、ああでもないこうでもないと日々、いろんなことを考えている。新たに診断書を出してもらい、仕事も辞めることにして、自分で自分のことを考えに考えている。

そんな中で、自分の中で触れられるんじゃないか?というくらい明確に見えてきたものが、最近、ちらほらこのブログ上でも出てくる「自分の中に子供がいる」というイメージだった。

病院でもらった薬を飲みながら、わけのわからないタイミングで眠たくなって寝る。という休職後2ヶ月の生活は、それでもまだマシだった。何が問題なのか。何が問題で自分はこうなったのかを自分は本当はわかっていたが、それを見て見ぬフリをすることができた。が、家人の目を盗んでは酒を呑んでいたし、それがバレたりなどもしていたが、そうなると今度は妙な知恵がついて、やはり酒が絶てないでいた。それでも、本当の問題と直面していない分、まだマシだった。

6月に入るとすぐ、普段なかなか会うことを許されない両親と神戸の新長田で会うことになり、夜になると、昔、俺がまだ幼稚園児の頃に、親父を迎えに行っていた王子公園にあるとある居酒屋で呑んだ(両親にはアルコール依存性のことは内緒にしていた)。ここで俺は酔った勢いもあり、神戸在住の旧友を呼び出した。彼は数年前に俺と俺の家族に対して決してしてはいけないことをしたので、それ以来、長いこと顔を合わせてなかったが、最近、彼の父親が亡くなったこともあり、情が移り、一度だけ謝るチャンスをやろうと思った。で、やって来た彼に「謝れ」と言った。が、彼はちゃんとあやまらなかった。頭にきた俺は何度も何度も「謝れ」と言った。が、彼はちゃんと謝らなかった。気付けば俺は手をつけられない勢いで号泣していて、親父に身体を支えられながら店を出て、大阪ではなく、地元の伊丹に帰ることになった。

今年の3月の終わりに「うつ病兼アルコール依存性」だと診断された。





大阪での生活は毎日が緊張の連続で、去年の4月25日にこのブログ上で発表した小説『堀井ヴァイブル』は、まさにそんな大阪での生活を表現したもので、俺としてはちょっとしたSOSのつもりだった。

『堀井ヴァイブル』の主人公は綱渡り師で、綱渡りをする際の恐怖心を両手に持ったビールを左右交互に口にすることでやりすごそうとする姿を描いたものだったが、あの姿はそっくりそのまま、大阪で暮らす俺の姿だった。

家庭でも、職場でも「間違えられない」という強迫観念があって、一歩でも踏み外すと奈落の底だという恐怖心があって、そんなこんなを忘れられるのは酒を呑んでいる間だけという毎日があって、そんな日々を綱渡り師の物語として表現したものだった。

あと、大阪での生活は「やらねばならないこと」だらけで、自分の内側から「やりたいことがあるのに!」という声がほぼ毎日、耳鳴りのように聞こえたが、聞こえないフリをしたり、やはり酒を呑んで誤魔化したりして、「しようがないじゃねえか..」と何度も何度も自分に言い聞かせていた。

明らかに酒の呑み方が変わってきていた。

そして今年3月の終わり、職場の同僚と飲み会があった翌朝、それまでずっと気になっていた不整脈がいよいよもってひどくなっていることに気付いて、冷や汗もひどかったし、仕事を休んで内科を受診した。結果は「確かに不整脈はあるものの微々たるものです。でもこれは今、あなたがリラックスした状態にあるからで、不安になったり、緊張したりするとまた全然違ってくるのかもしれません」というもので、確かに検査中は自分でもいつもの心臓のリズムの乱れ、ドクン!をあまり感じなかった。

病院を出ると、もの凄く納得のいかない自分がいて、そして何故かもの凄く気が滅入っていて、何かがおかしいと思っている自分がいて、脳神経科の病院を受診したら即、「うつ病です。あと、アルコール依存性でもあります」との診断が下って、診断書を作ってもらい、3ヶ月間、休職させてもらうことにした。

今、灯りを消した薄暗い部屋の片隅で、昔、アルファベッツ時代にドラマーから譲り受けたジョン・レノンの写真集を眺めている。

残念にも程がある。

俺は本当に丸眼鏡が似合わない。今まで眼鏡屋で丸眼鏡を見掛けるたびに試着してみたが、鏡で一見するやいなや食欲が無くなるくらいの勢いで似合わなかった。

誰にも言われたことはないが、俺はレノンに顔、雰囲気ともに似ていると自負している。顔と雰囲気が似ているのに、眼鏡が全くしっくりこない、似合わないというのは一体どういうことだろう。

レノンの丸眼鏡みたいに、俺にも一見してそれとわかる、いちいち自己紹介的なことをしなくても「あ、この人はあっち方面の人やな。その筋の人やな」ということが一発で伝わる何かが欲しいなと思う。

ところで、俺は昔からよく「あんたは謎やな」とか言われてきた。ちょっと前の職場でも上司から面と向かって言われた。最初は嬉しかった。なんかかっこええな、と思った。でもすぐに「違うな」、「はっきり言って嫌やな」と思うようになった。というのも、自分のことを一から説明しないといけないからだ。「自分はこういう人間です」なんて逐一説明しないといけないからだ。でも、この説明がめちゃくちゃ難しいんだ。ちゃんと伝わったためしがない。っていうかちゃんと伝わるわけがない。だって俺自身、俺がどんな人間なのかさっぱりわかってないんだから。

めちゃくちゃ面倒臭いわりにめちゃくちゃ無駄足。

で、日々、自己紹介的なことをする。が、これが間違いだらけで、その間違いだらけの自己紹介を間違えた捉え方をされて、その間違えた捉え方によって縫製された人物像を手渡されて「はい、じゃこれを着てください」なんて言われて着てみるが、これがまた丸眼鏡どころではないくらいにしっくり来ず、似合わず、またぞろ食欲が無くなるのだが、一度貼られたレッテルはなかなか剥がれず、作り直しも効かず、かといって誰にどうクレームをつけたら良いのかもわからず、結果、自分を生きるということに関して完全な迷子となってしまったのである。

享楽都市の孤独。

世の中の大半の人は仮面を付けて生きている。繁華街は仮面舞踏会みたいなことになっている。俺はたぶん、仮面は付けていない、もしくは付けていたとしてもお祭りの夜店で売っているお面のようにうっすいうっすいものだと思う。ただ、俺は完全なる迷子。賑やかな仮面舞踏会、地に足の着いた立派な大人たちの快活な笑い声の渦に揉まれて埋もれてたまに両手を上げてくるくる回転しながら唇を尖らせてアップアップ言って窒息しそうになっているピカチュウのお面を付けた迷子だと思う。

俺には元々、女性崇拝的な頭がある。だから、つい最近まで女の人と喋るのがめちゃくちゃ苦手だった。特に学生時代なんて、喋りたくても喋れない苦悩の塊だった。

そんな俺の女性崇拝的思想が本格的に程よく崩れ出したのは介護の世界に足を踏み入れてからのこと。周りの先輩が女の人ばっかりで、野郎は自分一人だけといった状況が続いて、でも仕事は仕事、喋らないわけにはいかず、喋っている内に、接している内に、良い意味で「女の人も人間やねんな」なんてことを思うようになって、女の人とそこそこ普通に喋れるようになって、女友達もちらほらできるようになった。作れるようになった。

が、そうこうする内に今度は自分の中の女性崇拝が完全に崩れ去るような流れがやって来て、キレイに崩れ去ったら、その直後に津波のような勢いで来たのがその反動、いわゆる「リバウンド」で、自分の中に「いやいやいや、違う違う違う!女の人は綺麗な生き物や!崇高な生き物や!少なくとも俺の人生においては本来そうやったはずや!」という考えがたくましく芽生えて、爆発して、気が付けば女の人の絵ばかり描くようになっていたのである。

女性崇拝。これは俺が、自分の嫁の絵しか描かない親父を見て育ったことに由来するのかもしれない。親父はよく「俺はあのひと(親父にとって嫁。俺にとって母親)を描いてるようであのひとを描いてるんじゃない。その向こう側の、もっと大きな存在としての女を描いてる」って言ってたが、今は俺、その言葉の意味がよくわかる。

俺はやっぱり、女の人は俺の夢や憧れの象徴でい続けて欲しいと思う。これは別に完璧でいて欲しいなんて言ってるんじゃない。いっぱい失敗して、照れ笑いを振り撒いて、男を魅了しながら、俺の創造力の源であり続けて欲しいなと思う。

女の人がいないと、女の人の魅力がないと、女の人の魅力に振り回されないと、男の一生なんて無味無臭無色のスッカスカなんだから。

女の人が優しい時、そこに地球上で一番綺麗な芸術があると思う。

愛は苦い。黒に近い赤。

恋は甘い。鮮やかな桃色。

愛にはまがい物が多い。ほとんどが奇形で、間違いだらけだ。

恋は抱きしめたいと思ったり、抱きしめられたいと思ったり。馬鹿で、素直で、純度が高くて、間抜けではあっても間違いがない。





ギリギリだ。

別に変な意味じゃなく..いや、やっぱり変な意味か?

俺が最近描いた絵に『女性は綺麗』というタイトルの絵があることからも知れるように、俺は、俺という男は人間は、本当に女性という生き物は綺麗な生き物だと思っているらしい。

昨日は昨日で信号待ちをしている女の人がサンダルの紐を結び直すためにしゃがみ込んでいるその「形」を見て綺麗だなと思ったし、今日は今日で電車内、ドアにしがみつくようにして爪先立ち、外の景色を興味津々眺めている女の人を見て、絵になるなあ、魅力的だなあと思った。

しかしながら実際に深く関わってみると、女性という生き物は極めて複雑な生き物で、男からしてみれば一番好きで一番苦手なものとも言えるし、女性の中には「鬼」を地でいくような人が男が冗談めいてかなり多めに予測する数の数倍はいるみたいだし、実はめちゃくちゃ厄介な生き物。「歩く単純」とも言える男よりずっとずっとずっと厄介な生き物らしいのだが、女性はそうやって極めて厄介な自分を自覚しているがゆえに、それを隠そうとしたり誤魔化そうとしたりする意識が強く働くことによって、全体像が捻れたり滲んだりブレたりして、結果、もの凄く抽象的で魅力的な現代美術みたいなことになって、それはそれで本当にミステリアスで綺麗なのだが、女性が一番綺麗なのは(と、俺が勝手に思うのは)たまに気が抜けて、自分の素の部分を隠すことや、誤魔化すことを怠った時、その瞬間だと思うのである。

その時、その瞬間、本当に、心から、綺麗だなあと思う。





最後に、男性諸君に一言断っておくが、俺が言う女性の「隠す」「誤魔化す」に化粧は入らない。何故か。俺が入れたくないから。俺は昔から「女はやっぱり素っぴんでしょう」みたいなことを言う男が理解できない。信用できない。想像力が希薄。化粧が上手いに越したことはないし、それは立派な技術だし、何より「化粧しないと自分は...」と思っている女の人の方が魅力的に決まってるじゃねえか。

なにはともあれ、女性はみんな基本的に本当に魅力的で綺麗です。

「鬼」を除いて。

先程、とある親友からメールがあって、自分は『アラジン』とか『越乃歓梅の女将』とか『祈りの少女』とかが好きだとあった。俺、実は密かに自分の最近の絵への外からの評価を聞いてみたかったので嬉しかった。

その親友は女性なので、そのことを踏まえて考えると、この3点が好きだというのはもの凄く合点がいくし、そんなこんなを分析するのは描き手として本当に楽しい。

ちなみにここ、伊丹最北端の男友達の中には『お手上げ天使』が好きだと言ってくれる奴が数人いて、その内の一人などは持って帰ろうともしたぐらいで、俺が取り返すとちょっと怒っていたが、それでも俺としては持って帰ろうとしてくれたこと自体が実はめちゃくちゃ嬉しかったりもした。

絵にせよ、音楽にせよ、作り手と受け手の間に評価の違いがあるというのは本当に面白い。作品が一人歩きしてる感があって、本当に面白い。楽しい。

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プロフィール

いっけい

ビートルズ好きの両親の元、ビートルズを子守唄に育ち物心が付く前から音楽に慣れ親しむ。
学生時代からいくつかのバンドを結成し関西を中心にライブに明け暮れる。
現在はソロでの音楽活動に加えイラストも手掛けるマルチアーティストとして活動の幅を広げている。

いっけいの楽曲が聴ける!! MySpaceはこちら

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