目標とする地点があるとして。
猛ダッシュして、全速力で走って、目標地点手前においても減速せず、一旦目標地点を行き過ぎて、それから落ち着いて行き過ぎた距離を目標地点まで戻るのと、はなっから猛ダッシュなどせず、全速力で走るなんてことはせず、ぼちぼちのスピードで走って、目標地点手前で徐々に減速して、目標地点でピタッと止まるのとでは、どっちの方が能率的なんだろう。
この問題については今まで幾度となく考えてきたけど、いまだによくわからない。結構大切なことだと思うんだけどな。
人間、怒りでいっぱいの間は大丈夫っちゃ大丈夫だ。怒りは一種の「パワー」とも言えるからね。
問題は、いち早く気付いて心配してやるべきは、自分の中の怒りに疑問を抱きだしている人であって、もっと言うと、怒りで常に沸点近くまで熱し続けてきた頭が、何らかのきっかけによって、急激に冷め始めてる兆候を見せている人だ。
温度の急激な下降ってのはヤバいんだ。身体的にも、精神的にも。
調子が良くて、頭がスッキリしていて、前向きな発想がちらほら浮かぶような希望的な日。頭の片隅には自分のそんな状態に対する罪悪感みたいなものが常にあって、自分が調子が良いということ自体、鬼の所業と言えるんじゃないか?なんて思ったりする。
でも、しょうがないじゃないか。俺だって生きていかなきゃなんないんだから。しょうがないよ。
島田紳助が立ち上げた、年に一度、年末に行われる漫才の祭典『M−1グランプリ』について、明石家さんまとビートたけしのご両人が次のように言っていた。
明石家さんま「俺は笑いというものに点数を付けるということが嫌。笑いは好き嫌いの問題で、俺が好きやったら好きやし、嫌いやったら嫌いやし...それでいいと思う」
ビートたけし「M−1を観てると、笑いが精密になり過ぎてねえか?と思う。最近の笑いは精密機械みたいだ。完璧な計算があって、寸分の狂いも許されなくて...俺はもっとわかりやすい、すっとぼけたのを観たいなと思うよ」
ご両人の意見は、笑いだけに限らず、最近の世の中のありとあらゆることに関して言えるように思う。要するに、「窮屈な感じはもういい加減にした方がいいんじゃないのか?」ってことなんだと思う。
考えろ。
考えろ。
考えろ。
考えろ。
考えろ。
考えろ。
考えろ。
考えろ。
考えろ。
考えろ。
大丈夫。考えてもみろ。考えるということのし過ぎで頭が破裂してる奴見たことあるか?無いやろ?
大丈夫。お前は天才でも何でもないんやから、考え過ぎるくらいがちょうどええねんて。
大丈夫。
浅田真央は今夜の『フリー』でもミスの連発だった。
跳べない。回れない。タイミングが合わない。でも、最高だった。
昨夜と同じ女性解説者は言った。「彼女は本当に、自分のスケーティングの改革に乗り出しています。今は本当にその真っ最中で、でも彼女はそんな自分をこうやってさらけ出しています」
最近、俺は太宰治という作家に夢中になっている。時間さえあれば彼の著書を読んで、散歩で古本屋に行くたびに『太宰治』のコーナーをチェックしている。それは、太宰治という人が、今夜の浅田真央のように自分自身の何もかもを偽らず、隠さず、さらけ出しているからで、これは、この「さらけ出す」ということについては、かのジョン・レノンにも同じことが言えて、だから、俺はこういう人たちが大好きだ。
無様でいいじゃないか!
うるせえよ馬鹿野郎!
無様でいいんだって!
うるせえよこの嘘つき野郎が!
無様でいいんだ。必死こいてて無様って最高だ!
だからうるせえよこのクソ野郎が!
無様でいいんだって!
現状、「あなたは最低だ」と面と向かって言われたとしても反論できないのは確かで、それは認める。でも、かといって、俺にも色々思うところあって、「じゃ、アンタは最高なのか?」と問うた場合にはきっと、「最高ではないが、あなたみたく最低ではない」という答えが返ってくるのは容易に想像できる。
こうなると、俺に残された選択肢は2つ。「何もわかってないくせに」と言うか、押し黙るかのいずれかであるが、俺が撰ぶのはきっと後者、「押し黙る」だと思う。
何もわかっていない人間に「何もわかってないくせに」と言うことに意味を感じない。ただただ面倒臭い。
面倒臭い。
まず何より『等身大』であるということ。「これなら自分にもできるんじゃないか?」という夢のある錯覚を起こさせるものであるということ。そして、それが錯覚であるということに気付いた人が感じるものが不快感とか絶望感とかではなく、すがすがしさに似た、やはり夢のあるものであるということ。次に大切だと思うのは、一見絶望的であっても、本質的には希望的なものであるということ。要するに、常に作品の根底にユーモアが流れているものであるということ。ユーモアということを忘れずに創る姿勢に重きを置きながら創り続けるということ。
エラそうなのは重々承知の上で。
怒りが演技の人は優しい。
怒りだけが演技でない人はその逆。
昨日、心からの優しさで、心から俺のことを心配して、俺にものを言ってくれてる人に、俺は自分の苛々をぶつけてしまった。
本当に情けなく、申し訳なく思っている。
俺は、その人の為にも死ぬ気で生きねば、死ぬ気で生まれ変わらねばと思っている。
今、俺は本当に色んなことを学ばせてもらっている。絵を描くのもそう、文章を書くのもそう、本を読むのもそう、時間をかけて色々と「学ぶ」ということをやらせてもらっている。そして、そうやって今、色々と学ばせてもらっていることの中で一番学ばせてもらっているのはきっと、「本当の優しさの何たるか」だと思っている。
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