他人より上手にできることなんてほとんど皆無に近いのに、一番近くにいる人間が自分の音楽を聴いてくれなかったり、絵を観てくれなかったり、文章を読んでくれなかったりしたことが本当に辛かった。
それでも、いつか再び音楽をやるために、絵を描くために、そして、いつか再び自分の創る音楽に、絵に、文章に興味を持ってもらう為に、音楽や絵や文章をやってる時の一憩こそが一憩だということを思い出してもらう為に、出来る限りのことはやろうと思った。だから大概の不本意なことは希望を繋ぎ繋ぎすることでなんとかこなせた。
でもある日、あるタイミングで、この希望の糸がプツンと音を立てて途絶えてしまった。ちょうど、糸電話の糸が切れて何も聞こえなくなってしまったような感じで「あれ?どんなに頑張っても無理っぽいぞ。だってほら、音楽と俺、絵と俺の間の距離が1mmも縮まってないじゃないか...。ってことは俺、このままだと生きる為に生きて、不本意な自己犠牲みたいなものの繰り返しでダラダラヘラヘラ老いていくだけなんじゃないのか?」ということにある段階で気付いてしまった。
気付けば自分の夢や人格はあっても無くても生活には差し支えないと言われているかのような状況に立たされていて、こうなるとあとはもう自虐的な酒の飲み方をするしかなくなっていた。
そんなこんなを経て、今、俺が絵を描きまくっているということにはどうやら2つの意味があるらしい。一つはまさにあの窮屈な時期の反動ってことで、一枚一枚の絵そのものにはメッセージらしいメッセージはないけれど、「描きまくっている」ということ自体に俺が一番伝えたい、わかってもらいたい、わかってもらいたかったメッセージがあるんだということ。そしてもう一つの理由は、あの時期、俺は色んな物を捨てたり売ったりして身軽になることに快感を覚えていたけど、今はその逆で自分の持ち物を、もっと言えば「自分だけの」持ち物を持ちたいという気持ちの表れなんだろうなということ。ちょっと詩的な見方、言い方をすると「(絶対に裏切らない)味方を作ってる」のかも知れない。この2つの理由に、元々自分の中にあった女性崇拝的な考え方を取り戻してやる!という意志の粉チーズを絶えず振り掛け続けていて手首が痛ぇよ馬鹿野郎!というのが今、俺が絵を描きまくっている姿なんだと思う。
要するに、「社会的には終わってるんだろうな..こんな考え方」などと常時思いつつも、ただ生きる為に生きるというのが俺にはどうしても腑に落ちなかったんだろうな、我慢ならなかったんだろうな、と他人事のように思う今日この頃です。
1位(―) 恋のジャンヌダルク
2位(初) 木陰の愛嬌
3位(↓) 祈りの少女
4位(↓) 葡萄の涙
5位(↓) 救援
6位(↓) 姉
7位(↓) 女帝の心臓
8位(↓) エキゾチック・ロマンス
9位(↓) 仮面
10位(↓) 小悪魔SG
※今後も変動があり次第、随時更新、発表していきます。
狭い部屋の壁に、俺の描いた35枚の絵が所狭しと並んでいる。
そんな部屋の中心にゴザをひいて、大の字に寝そべってみる。
みんなこっちを見ている。笑ってるのもあれば泣いてるのもあるし、涙こそ流してないけど哀しんでるのもあれば、額にてんとう虫を付けて困惑の表情を浮かべてるのもある。
一瞬、これは何だろう?この部屋って、この空間ってとどのつまり一体何なんだろうと思って考えてみた。
俺の頭の中だと思った。
これでこのブログも800本目。7th『インナーチャイルド』に次ぐ、8枚目のアルバムが完成したことになる。
8枚目のアルバムタイトルは『籠城と創造』に決定。
「創造」っていうフレーズが、幾分、自分の人生の上向きを感じさせてくれて嬉しい。
読者の皆さんには今後ともご愛読の程、よろしくお願いいたします!
自作の絵。今、手元にある34枚の絵に対してBEST10を付けてみたいと思います。熟考に次ぐ熟考の末、出た結果は以下の通りです。
1位 恋のジャンヌダルク
2位 祈りの少女
3位 葡萄の涙
4位 救援
5位 姉
6位 女帝の心臓
7位 エキゾチック・ロマンス
8位 仮面
9位 小悪魔SG
10位 日常の天使
今、目を覚ました。
何ヵ月ぶりだろう。死ぬほど楽しい夢を見た。
大学進学記念パーティー(?)みたいなのが、どっかの大学の広いキャンパスみたいなところで行われていて、ビールやら串焼きやらとにかくありとあらゆる出店がモウモウと煙を立てて、あちらで「いらっしゃ〜い!」こちらで「いらっしゃ〜い!」と威勢良く出ていて、大勢の人間が所狭しと蠢いていて、みんな笑っていて、ド派手で、ほとんどドンチャン騒ぎで、場面がコロコロコロコロとジェットコースター的なスピードで移り変わっていって、登場人物も凄い面々だった。俺の小中高時代の友人たち。その中には俺が中学高校を通して3度告白して3度フラれた女の子もいた(お姫様みたいな格好をしているわりには神妙な顔をしていて馬鹿丸出しだった)し、芸能界からは矢口真里(俺の特に仲の良い友人として出てきて、俺のビールを隠して俺が探しているのを見て笑ったり、何度か衣装チェンジしては「見て見て!」と俺に見せに来て、その都度俺におちょくられていた)、志村けん(ビール片手に赤い顔をして出店を渡り歩いていて、何度かすれ違ったが、すれ違うたびに「あの店旨い!」などと教えてくれた)、いかりや長介、オール巨人(俺を見てずっと笑っていた)、有田哲平、岡村隆史などなど、数え切れないくらいの人が出てきて、呑んで食らって笑って、とにかくもの凄い騒ぎでめちゃくちゃ楽しかった。
今はぼ〜っとしている。脳が派手に爆発した後みたいな感じだ。
『竹尾 涼』は須磨ですまんの〜という男に選ばれて、彼の生活の一部に加えてもらえて、本当に幸せな絵だなと思う。
彼は、須磨ですまんの〜という男は、『竹尾 涼』という絵に対して想像力をフルにカラフルに爆発させて、絵を「存在」に変えて遊べてしまっている。楽しめてしまっている。これは本当に夢のある素晴らしいことだと思うし、作者である俺自身、こんなに嬉しいことはない。
絵との接し方というのはなにも、絵の前に仁王立ちして、眉間に皺を寄せて、腕を組んで「う〜む」などと低く唸るだけが全てじゃないし、観る人間にそんな見方をさせる絵だけが絵じゃないということだ。
彼のお陰で、俺の絵のあり方がグッと見えてきた。そもそも俺の絵は絵のようで絵じゃなかったり、芸術のようで芸術じゃなかったりする何か別のものなんだから、変に崇高であろうとする必要なんてない。等身大で、観る人の想像力によっては確実にそこに「存在」し得て、例えば音楽が人に歌わせたり踊らせたりするように、俺の絵も人に遊んでもらえたり、楽しんでもらえたりするものであればそれが最高だ。
かく言う俺もしょっちゅう、『恋のジャンヌダルク』を眺めながら、心の中で彼女に対して色々と相談したり、悩みを聞いてもらったりしてるけど、これでいいのだ。この接し方が許されるというのが崇高感ゼロを誇る俺の絵のセールスポイントだ。
全ては想像力の問題だ。
コメントありがとう!
先程、千夏さんに「妹さんがお世話になってる俺の友人からこんなコメントが入ったよ」と言って携帯見せたら、「え?菓子折り持って来てくれはんのん?涼にはもったいない、今時珍しい律儀な人だねえ」と何故かおいらん口調で言ってから「私、ハッピーターンかキャベツ太郎がいいな。涼はホワイトロリータが好きやけど、私はああいうの嫌いやねん。私、アンチブルボンやねん」と言っていたので、そんな感じでよろしくお願いします。
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