大阪在住のうたうたい&絵描き&詩人 和田一憩(わだいっけい)のブログです。最新情報も随時配信していますので要チェック!!です。 携帯サイトはコチラ

「戦い」であるからにはそれなりに過酷だ。

でも、俺は別に相手を罠にはめたいとか、絶望のどん底に落としてやりたいとか思ってるんじゃないし、そういったことが「勝ち」だなんてこれっぽっちも思っていない。

俺にとっての「勝ち」は、認めるところは認めるが、認められないところは絶対に認められないということを認めさせるということ。ただこの一点だ。

確かに何かと不甲斐なかったことは認める。苦労を、迷惑を、かけてきたことは認める。でも、こうなるに至った全ての原因が俺にあると言われればそれは絶対に認めない。そして、俺に対して「憎しみ」の感情しか抱けないというのなら、その感情とその感情を弾き出す精神構造と、それを支持する人間を俺は絶対に認めない。

今まで、「認めろ」と言われて認めたことは多々あるが、「認めろ」と言って認められた記憶は皆無に等しい。だから最後くらい、最後だから、実はずっと胸中に眠らせていた自尊心みたいなものを目覚めさせて、貫き通したってバチは当たらないだろう。





俺のせい。でも、いつもいつも俺のせいではなかった。一緒に壊したんだ。

善人ヅラして世間一般論を押し付けてくる馬鹿がいる。「普通、それはおかしいだろう」って何だそりゃ。何ですか?その「普通」って。

本当は個性の無い人間なんていないはずなのに、自分が自分の個性に自信を持てず、自分の個性を諦めたことを正当化するために他人に自分の考え方と、自分の所属している世界を押し付けてくる馬鹿、馬鹿、馬鹿。

タチの悪い宗教の勧誘と何がどう違うのか。

誘い言葉はどうせ「これは一種の保険だとお思いください。万が一、あなたの人生が上手くいかなかった場合、不特定多数、全体、とりあえず誰かのせいにできますよ」だろう。

個性を自覚して生きてる人間は、意識しようがしまいが自然と世間一般論からははみ出すよ。

だって個性なんだから。

個性って意味、わかってる?

世の中には血液型占いを信じきっているような人間、元来十人十色であって然るべき人間を4タイプくらいに分けられると信じきっているようなキチガイ染みた人間が多過ぎるよ。

世間一般論を信仰してる人間は、血液型占いを信じきっている人間よりずっと重症だ。下手すりゃ「4タイプ!?多っ!何を贅沢な!」とか抜かすんじゃないか?





ナチスはゲルマン人しか認めなかった。

辞書で「心の支え」を調べると、幾つかある意味の2つ目あたりに「和田一憩の」というフレーズから始まるものがあって、そこにはお二人の名前とコメントがそっくりそのまま載っているはずです。

本当にありがとう。

介護の仕事をしている時、特に夜勤の時なんかは、少しでも時間に余裕ができるとチョコレート等、甘い物を口にしていた。気付けば口にしているといった感じで、「これが『身体が欲する』ってことかあ」などと感嘆気味に実感したし、だから介護施設の介護士室にはいつも必ず甘いものが常備してあった。「食べてね」とか可愛らしく貼り紙がしてあって。

自分の表層意識みたいなものを経由せずして「欲する」のは何も身体だけに限った話ではないみたいだ。頭だって渇きや飢えを覚えると「欲する」らしい。

最近の俺はとにかくずっと本を読んでいる。結構分厚いものでも、買ってきたその日に読み終えて、深夜に目が覚めると、今度はまた別の本を読み始めている。あの時のチョコレートみたいに、頭が知識を欲しているのがよくわかる。そして、自分が今までいかに知識不足だったかということを思い知らされている。包丁や鍋といった道具はあるが肝心の食材が無いといった感じで、考える頭はあるが、良い答えを導き出すための材料、知識が全然足りないという感覚があって、こんなんで今までよく生きてこれたなと思う。

身体が欲したり、頭が欲したりするものは自分にとって本当に必要な物なんだろうと思う。摂取して悪いということは一切ないんだろうと思う。そして、それは俺が生きようとしているから、生きようとしていることが身体や頭に伝わっているからこそ、主人たる俺の表層意識みたいなものを半ば無視してまでも起こる身体や頭の欲求なんだと思う。

もっともっと知識が欲しい。

一生懸命やってるつもりでも、それが本当は不本意で、他人の価値観に照らし合わせた上での一生懸命である場合には、結果はやはり不本意に終わるらしい。ただでさえ、自分の能力を活かすということに四苦八苦し続ける生き物が、不本意な気持ちを大きく抱え込んだまま遺憾なく能力を発揮できるわけがない。単純明快といえば単純明快な話だが、俺はこれに気付くのに33年半もかかった。

他人に叱られたくないと思ったり、他人に認めてもらいたいと思ったりする中での選択を最優先して、自分で自分を圧し殺して、中途半端な自己犠牲でもって頑張ったところで良い結果には絶対に結びつかない。そんな「生ける屍」とも言える陰性の塊みたいな生き物が、「夢」とか、「希望」とか、それこそ「幸せ」とかいった陽性なものをつかみとれるはずがない。つかんだところで、あっという間に手が焼け溶け落ちるだけだ。単純明快といえば単純明快な話だが、俺はこれに気付くのに33年半もかかった。

自分のやりたいことをやるというのは悪いことじゃない。そして、自分のやりたいことに対して自分の能力が伴っていると信じられるのなら何が何でもその方向に進むすべきだ。

まず一つ、心に決めた。

介護職には戻らない。

これでこのブログも730本目だ。

1本目からずっと欠かさず読んでこられた方ならおわかりのことだろうと思うが、俺の人生はこのブログの始まった2009年3月31日以降だけをとって見ても、厄年でもないのにずっと下降線を辿ってきてしまっている。ジリジリジリジリ...まるで地盤沈下のように、緩やかに着実に沈んできた。

かといって、今までずっとこの流れに対して無抵抗だったわけじゃない。されるがままだったわけじゃない。「前向きに前向きに!」と自分自身に言い聞かせてみたり、具体的にやり方を変えてみたり、半ば無理矢理に自分を奮い起たせてみたりして、俺なりに何とか食らいつこうとしてきた。そして、その時々の歯形みたいなものは、この730本もの「独白」上にちゃんと刻まれてあって、読み返せばその時々の心境を昨日のことのように思い出すことができる。こう見えても何とかしようとしてきた。「うまくいかない」日々より「うまくいってる」日々の方が楽しくて、楽だということくらい俺にだってわかっているからだ。

でも、ジリジリジリジリ沈んできてしまった。ズルズルズルズル滑り落ちてきてしまった。この流れで、ここまで落ちてきて呆然としない奴はいないだろう。正直、今は無力感みたいなものと、自己嫌悪と、未来に対して明るい想像が一切できないという不快感でいっぱいだ。





今も、テンションを上げるということはできる。結構簡単に出来る。足元の鉛の玉をえいや!と片手で頭の上まで持ち上げることができて、その瞬間、笑うこともできる。でも今は、それを持続することができない。すぐに力が抜けて鉛の玉を落としてしまう。鉛の玉は地面にめり込んで、俺はその場にふにゃふにゃにへたれこんでしまう。そして、次にまた体力と気力が戻るまでにかなりの時間がかかる。で、ある程度回復すると、ゆっくり立ち上がってまた同じことの繰り返しになることをわかっていながら足元の鉛の玉に手を伸ばしてしまう。

散歩している母と子。「このお兄ちゃん何やってんの?」と子。「見ちゃいけません!」と母。

〈写真/文〉阿仁真里

一憩が小学生1年の頃から高校を卒業するまでの間、毎年楽しみにしていた伊丹最北端の公園『桑田公園』での盆踊り。

桑田公園は当時の一憩の家、長屋の真裏にあって、盆踊りの日には一憩は、まだ人の集まっていない夕方からこの公園に来て、水撒きをしているおじさんを眺めてつつ、胸躍らせていた。

昔と全く同じ曲がかかっている。そして驚くべきことに昔よりも盛り上がっている。

当時の一憩みたいな男の子がいっぱいいて、走り回ってます。

楽しいね、一憩さん。明日も来ようね、一憩さん。

思い出せ!一憩さん!

大阪。とある状況下。我が娘が「パパ!」と言って泣いたらしい。





俺がこれを聞いて何とも思わない人間だと思いますか?

えっ?思うんですか!?

死んでください。

学生の頃、何が嫌いって勉強が嫌いだった。特に数学が嫌いで、っていうかたぶん生まれつき数字というものが嫌いで、公式を覚えて、その公式を素直に使って問題を解いたにも関わらず、公式に応用を加えるということが理解できず、しないために不正解の連発で、結果14点みたいなことが多々あって、そんな時、俺は数字にナメられているような気がして、実際に吐いてしまうんじゃないかと思うくらい怒りで頭がいっぱいになった。

今でも数学、及び数字は死ぬほど嫌いだが、勉強は、勉強という言葉の捉え方によっては自分は結構好きなのかもしれないなと最近思うようになった。

要は興味の問題らしい。例えば、今、俺は心理学にハマっているが、思っていたより難解なものじゃないし、文体や専門用語自体が独特に魅力的だし、何より実際の生活に即戦力的に活かせるものだという認識があるから、俺自身の吸収率も相当に良いらしくて、学んだことが頭にすんなり流れ込んできている実感がある。

勉強の対象が、本当に興味のあるものだけに自分の中の吸収率がかなり上がっているらしいことに気付きだすと、今度はそういった知識を容れる自分の頭の中の容器みたいなものにまだまだ空きというか余裕みたいなものがあることを感じるようになってくる。例えば心理学の本を読んでいると、自分の頭の中にワイングラスがあって、これにまだ10分の1に満たないくらいの量しかワインが入っていないイメージが浮かんだりする。で、まだまだ入るし、まだまだ入れておきたいと思うようになってくる。

ある事柄に関しては頭がいっぱいだ。ワインがグラスから溢れて出て悲惨なことになっている。でも、どうやら頭の中のワイングラスは一つじゃないらしい。頭の中には無数のグラスがあって、その中にはきっと一滴もワインの注がれていない乾いたグラスが幾つかあって、これがゆえに生きていてわからないことが多々発生するんだろうけれども、考えようによってはこの空きグラスは後々の楽しみのために大切に保管しておくべきものなのかもしれず、この空きグラスを後々の楽しみのためだと捉える為には、人生のなるべく早い段階で「勉強」というものを自分なりの解釈でいいから好きになる必要があるんだろうな、ということに今、気付いた次第です。

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プロフィール

いっけい

ビートルズ好きの両親の元、ビートルズを子守唄に育ち物心が付く前から音楽に慣れ親しむ。
学生時代からいくつかのバンドを結成し関西を中心にライブに明け暮れる。
現在はソロでの音楽活動に加えイラストも手掛けるマルチアーティストとして活動の幅を広げている。

いっけいの楽曲が聴ける!! MySpaceはこちら

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